NHKのドラマ「大奥2」に天璋院が登場しました。
13歳将軍と結婚し、幕末まで江戸城にいた人物です。
モデルは篤姫です。
美人だったのでしょうか?
徳川家をあまりよく思っていない、薩摩藩からのお嫁入りだったにもかかわらず、徳川家の存続のために尽くしました。
実在の天璋院と、胤篤を比べながら、徳川になぜ尽くしたのか・・・その理由を探ってみましょう。
天璋院は胤篤と・・・
「大奥」に天璋院が登場です。
モデルは天璋院篤姫で、その男性バージョンです。
男女パラレルワールドの「大奥」では、胤篤という名前でした。
キャストは福士蒼汰で、「大奥1」の万里小路有功(までのこうじありこと)に次いでの再登場です。
なぜなのかというと、物語の中では「胤篤」は「万里小路有功」の再来かと思わせるほどの美貌の持ち主、という設定で、福士蒼汰の再登場となったのです。
天璋院というのは、配偶者と亡くした後の、呼び名です。
江戸時代以前は、既婚女性は夫に先立たれたら、出家することが多かったので、〜院という名で呼ばれることに変わるのです。
いわゆる、僧名ですね。
女性の場合は、頭に被り物をつけた尼姿になるか、髪の先の方を切り、形だけの出家にす流こともあります。
「大奥」の胤篤は天璋院と呼ばれるようになりましたが、まだ髪は切っていません。
実際の天璋院篤姫も、髪の先だけ切り揃えるだけで、尼姿にしていないので、その設定を受け継いでいるのでしょう。
ちなみに、「大奥」以前の章で、五代将軍 徳川綱吉(とくがわつなよし)の母 桂昌院(けいしょういん)は実在の桂昌院が尼姿、になったのと合わせて、僧侶姿になっていました。
天璋院、美人?
「大奥」の天璋院胤篤の美形ぶりが、人気を集めています。
では実在の天璋院篤姫は美人だったのでしょうか?
残念ながら、美人とは言えない、ということでした。
現代と美人の感覚が違う、と言っても当時の味方でもそれほど美人と思われていませんでした。
21歳の篤姫の様子を、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)はこう語っています。
「背が高く、よく太っている方でした」と。かなりの大柄な女性のようです。
松平春嶽は、苗字から分かる通り徳川家の人間で、将軍が島津家の女性を御台所(正室)にするのに反対していたから、美人でない、と言ったのかもしれません。
松平春嶽は、「太っている」を「肥えている」と表現していました。
「肥えている」という意味はただのデブではなく、健康的、グラマラス(魅惑的)なんて意味合いが、当時にはありました。
とすると、取り立てて、不美人だったわけではなく、顔立ちは普通、なのでしょうか。
もっとも夫となる、将軍家定は細身の美女が好きだったようなので、そうすると太めの女性はお好みではなかったですね。
しかし、これまで、大河ドラマなどに登場した、篤姫役の女優さんは美人揃いでしたよ。
天璋院篤姫の宮崎あおい・・・最もこのかたは美人というより個性的な美人、という感じでした。
他には、「西郷どん」では北川景子、「蒼天をつく」では上白石萌音とか美女揃いでした。
天璋院と家定の仲は?
仲が良かった二人
細身の美人が好き、と言いながら、第十三代将軍 家定(いえさだ)と天璋院との夫婦仲は良かったのでした。
仲の良さは「昨夢記事」(さくむきじ)という、幕府内の様子を書いた書物に書かれています。
きっと篤姫、そして胤篤も気さくな性格だったのでしょう。
NHK大河ドラマ「天璋院篤姫」の時も、篤姫と将軍は仲が良かったですし、もちろん2023年11月に放映中の「大奥2」でも、胤篤と家定とは仲睦まじい様子です。
「大奥”」のように、あんなに美形の篤姫ならぬ、胤篤なら、出会っただけでボーっとなってしまいそうですけれどね。
しかし家定は、病弱のためか子供ができませんでした。
実際の、家定は子供の頃に疱瘡にかかって、ひどいアバタあとが顔に残っていたと言います。
男女パラレルワールドの「大奥」では、疱瘡によく似ているが症状がもっと重い病気 赤面疱瘡がはやって、それにかかるのは、子供か若い男子のみ、でしたね。
「大奥」の家定は女性なので、赤面疱瘡にかかっていないし、普通の疱瘡にもかかっていません。
病弱という設定だけが同じです。
家定の身体が弱かったために子供ができませんでした。
しかも実の父に、DVを受けており、内気な性格になっていました。
家定が大奥で泊まることは、一月に1〜2度しかなかった、と言います。
それでは、なかなか子供もできないでしょう。
「大奥2」では家定は妊娠しましたが、体調をくずし、子供を産むことなく亡くなりました。
家定は料理好き
家定は、たびたび命の危険にさらされることがあったために、暗殺を恐れていました。
そのため料理を自分ですることも、たびたびありました。
特にお菓子作りが大好きで、カステラをよく作り、篤姫によくふるまっていました。
「大奥」の家定が、奮闘してカステラを作っていたのは、こういうわけでったのですね。
胤篤にも、振る舞っていました。
「大奥」の家定は女性なので、カステラを作って見せるのは、サマになっていましたが、実際は男性の家定がカステラをつくるので、ちょっと違和感というか面白さを感じます。
どちらにしても、料理をする立場にない人が、料理をする、というのが珍しいのです。
ところでカステラをうまく焼くのは難しいです。
焼き時間、タネの混ぜ方に注意しないと、ふっくらとした仕上がりにはなりません。
天璋院は薩摩出身
薩摩から嫁に来た理由
将軍家の御台所(みだいどころ、正妻のこと)は、公家からくるのがほとんどでした。
だから一介の大名家の女性が嫁に来るとは・・・と反対が出ました。
それも、徳川家と薩摩家は先祖代々仲が良くない。
1600年に起きた、関ヶ原の戦い以降に徳川家に従うようになった、島津家を徳川家は信頼していません。
実は、家定はこれまでに2度公家の姫を嫁に迎えていました、が子供を産む前に二人とも早死にしていました。
ですから、3度目は身体の丈夫な女性を迎えようと考え抜いた相手が、島津家の姫。
御台所は公家からと言いながら、家定の祖父十三第将軍家斉(いえなり)の正室は、薩摩藩島津家出身の広大院(こうだいいん)でした。
家斉と広大院との間には子供がたくさん生まれたことから、家定の嫁も島津藩から嫁を迎えることにしたのでした。
薩摩藩の方は、願ってもないほどの話でした。
1853年には、ペリー率いる黒船が来航し、外国からの圧力を感じる時代がやってきました。
そうなると、諸藩は強いリーダーシップが取れる将軍を必要とします。
混乱に乗じて、島津藩が、御台所の父、つまり外戚として大いに政治に口を挟めるようになる機会がやってきました。
篤姫はちょっとしたら、密偵的な役割を負わされる、なんてこともあったかもしれません。
薩摩より徳川家?
薩摩から嫁に来た篤姫は、家定と仲睦まじい夫婦となりました。
結婚生活は約2年ほどで、家定の死と共に終わりましたが、天璋院は確かに家定を愛しました。
だからこそ、将軍の妻としての心構えができ、家茂亡き後は、次期将軍家茂の母代わりになろうと覚悟したのでした。
大奥の取りまとめも行いました。
島津家の方からは再三、帰国を勧められたのですが、江戸にずっと残り徳川家存続を訴え続けました。
自分が愛した人の、家を、血筋を守りたかったのですね。
愛は人を変えるのでしょうか?
薩摩藩に、西郷隆盛に手紙を何度も送っていました。
これは篤姫も、胤篤も一緒です。
その結果が江戸城無血開城でした。
天璋院と瀧山
瀧山と対立
篤姫が徳川家に嫁に入ったとき、大奥には瀧山という、大奥取締役がいました。
大奥を取り仕切っていた瀧山と、新参者の天璋院(篤姫)・・・当然、女同士の権力争いが始まるのは目に見えています。
最初から、仲良くなんてやれません。
もちろん天璋院が最初から大奥を取り仕切ろう、なんて野心の元に嫁いできたわけではありません。
しかし御台所は大奥の頂点にいる女性ですから、どうしてもこれまでのやり方が気になるのは当然です。
どうしても、女同士の(「大奥」では男同士?)対抗戦が始まります。
自分の方が地位が上、とか、上様の寵愛なら自分の方が上・・・をとかそのような争いです。
天璋院も、瀧山も、どちらも家定の時から大奥に入った人物。
瀧山の方が先に大奥に入り、将軍様のお世話役になっていました。
だからちょっと、先輩的な思いが滝山にはあったのでしょう。
家定は早死にし、次の将軍を推すときに、天璋院は慶喜を、瀧山は家定を推して意見が割れました。
しかし、瀧山が推す、家定が14代将軍に就くことになりました。
天璋院と瀧山、和解する?
女同士を扱った、大奥のドラマなら、天璋院と瀧山の、丁々発止としたやりとりが面白いのですが、男女逆バージョンでは、二人が親友っぽくなっており、これはこれで面白い。
どちらも美形なので見応えあります。
では実際どうだったのかというと、特に仲直りした、とかそういう話は出てきていません。
それでも、徳川慶喜が大政奉還したのち、大奥内部を整理する役目を二人揃って行いました。
考えてみれば二人の共通点は多いです。
次期将軍に推した相手こそ違いますが、どちらも徳川家の存続を願っていました。
天璋院は薩摩出身で、気が強く、意思がはっきりした女性でした。
そして、徳川家に尽くそうと思うほどに義理堅い人物です。
そして、瀧山はというと、しっかりしていて仕事第一の人物。
徳川に尽くそうと思っている。
と、似たところが多くどちらも行動的でぶれない性格なので、お互いがぶつかったのかと思われます。
天璋院と和宮
天璋院と和宮、言っていれば姑と嫁との間柄です。
第13代将軍 家定の正室だったのが天璋院、和宮の夫 家茂は家定の後継者だったから、天璋院にとっては息子も同然です。
しかし、和宮は、当時の天皇(孝明天皇)の妹・・・・ということで自分の方が身分が上、と思っていたような振る舞いをします。
江戸時代の身分制度では、朝廷・公家の方が武士よりも身分が上、でしたから。
どうしても和宮は天璋院に対し上から目線になります。
天璋院の方も、和宮にはどことなく近づきにくい雰囲気。
そこで、江戸風のしきたりになれない和宮に対し、天璋院はどうしても、不満を持ちます。
しかし、時が経つと、和宮・家茂 夫婦は仲が良いということに気づき、その時から、和宮に対する見方が変わります。
家茂が亡くなり、幕末に向かうと、天璋院は和宮と協力して、徳川家の存続に努めていきます。
和宮についてはこちらをご参照ください。
天璋院と慶喜
慶喜将軍候補、第1回目
家定が亡くなったあと、天璋院は次期将軍に慶喜を推しました。
天璋院は慶喜を頼もしいと見ていたのか・・・・それは否です。
慶喜を推したのは、天璋院の実家、島津藩からの勧めだったわけ、この時点で天璋院は、慶喜が適任と考えていたからではありません。
この時は、家茂が将軍になり、まず島津藩の試みが砕けました。
天璋院も、家定を推す大奥取締役の瀧川と対立して負けました。
慶喜推薦は天璋院自身の願い、なのではなく実家からの願いでした。
ですが家茂が将軍になるということで、天璋院は家茂を、自分の子供のように大事にし、将軍職をバックアップするようになりました。
慶喜将軍候補、第2回目
病弱な家茂は亡くなり、将軍の地位がまた空きました。
今度こそ、慶喜の出番です。
天璋院も、静観院(14代将軍 家茂の正室 和宮のこと)も将軍就任後は特に思うところはなかったように見えたのですが・・・・
実は二人とも、慶喜が大嫌いだったのです。
なぜかというと、慶喜は、大奥への経費削減の政策を出したからです。慶喜が西洋のものを好んでいたのも、天璋院と静観院には気に入らないものでした。
怒った二人は、慶喜が江戸城に泊まったときに、夜に布団は出さずに毛布しか出しませんでした。
節約に励んでいる、と言いつつ・・・ささやかな復讐でしょうか?
大政奉還後は
幕府がだんだんと朝廷の勢力に押され、ついに1867年「大政奉還」(たいせいほうかん)が行われました。
大政奉還とは、国を納め政治を行う権力を朝廷に返還するということです。
さらに鳥羽・伏見の戦いの最中に、京都から逃げ出す始末。
これを聞いた、天璋院と静観院は怒り狂いました。
大政奉還が思った以上に徳川家にとって、打撃になったと知った、慶喜は天璋院と静観院に救いを求めてきました。
徳川家がお取り潰しになるかもしれない事態に追い込まれていました。
天璋院と静観院は、慶喜の願いを聞きれ、天璋院は薩摩の西郷隆盛に、静観院は帝に公家にと手紙を書いて、徳川家の存続を嘆願しました。
これは、慶喜のためというより、天璋院と静観院の二人が江戸での居場所を確保しようとしたからに、というのも理由です。
天璋院のその後
江戸城開場にあたり
大政奉還の後、鳥羽・伏見の戦いが起こります。これが1868年1月のこと。
大奥の女性たちの江戸城退去は同年4月3日でしたが、その間、天璋院は準備に向けて働きました。
徳川家の存続、慶喜の助命、江戸城総攻撃の回避などを薩摩藩と朝廷に手紙で、働きかけながらの準備でした。
もちろん、朝廷との折衝は静観院(和宮)との協力しながら行いました。
大奥内部のことは、大奥取締役 瀧山と共に当たりました。
しかしどんなに頑張っても、朝廷が定めた期日までには江戸城からの撤退はできませんでした。
なにしろ荷物が多すぎたのです。
とりあえず、約束の日4月10日に、人は出ましたが、荷物あとに返還という取り決め位なりました。
しかし、その間に入場した官軍は、江戸城内の貴重品を略奪しました。
戦争時にはよくある略奪行為です。
その略奪品・・・もしかしたら現代でもどこか骨董屋で見つかるかもしれませんね。
江戸城を出て
徳川家の存続はとにかく叶いました。
慶喜はもちろん当主の座を追われます。
代わりについたのは、徳川田安家の、まだ6歳の亀之助、そして居城は駿府(すんぷ)城となり、石高(年収のようなもの)も70万石まで減らされました。
この扱いにひどく怒った天璋院は、奥羽列藩同盟(旧幕府軍)に、新政府(朝廷)を討伐する懇願文を書くのですが、もう時代の波に逆らうことはできなくなっていました。
幕府軍は敗北し、解体させられます。
天璋院は、新しく徳川家当主となった、亀之助の養育に力を尽くします。
亀之助は、成長し家達(いえさと)という名前になり、イギリスへ留学します。
篤姫の最後
徳川家の屋敷は、東京 千駄ヶ谷に作られました。
千駄ヶ谷の屋敷ができるまでは、徳川家ゆかりの屋敷で世話になっていました。
1883年(明治16年)11月10日、天璋院 没。49歳。
勝海舟の日記「海舟日記」に死因が記されていました。卒中でした。
生まれながらの気の強い性格に、支えられた女性です。
かなり最後の段階まで、自分の信念を曲げようとしませんでした。
しかし天璋院がいたからこそ、徳川家は今日まで残っているのです。
天璋院の仕事とは、徳川の「胤」を次世代に続けていくことにありました。
その役割を表すようにつけた名前こそが、「大奥2」に出てくる「胤篤」なのです。
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