和宮は、幕末に、朝廷から幕府に来た皇女、孝明天皇の妹でした。
天皇の妹となると、これまでの徳川将軍の妻たちの中でもピカイチの家柄のお姫様です。
和宮には、謎が多いのです。
何より、和宮は本物だったか、というのが謎で、今でも真相はわかっていません。
NHK時代劇「大奥2」にも、替え玉となって登場します。
和宮は徳川家に嫁にきたことで、むしろ生き生きとした女性になったように見えます。
幕末、どのように活躍したかを見ていきましょう。
「大奥」、NHKの和宮
和宮は名前を、和宮親子(かずのみやちかこ)と言いました。
和宮については、本人ではなく、身代わりが嫁にきた、という噂があります。
その噂通り(?)、よしながふみ原作漫画のNHKドラマ版「大奥2」も和宮は替え玉が嫁いできます。
ではどんな替え玉かというと、女性だったのです。
ストーリーの中では、公武合体作で江戸の徳川幕府に嫁いでくるのは、孝明天皇の弟のはずだったのです。
それが、弟ではなく、「妹」が男装して、将軍 家茂(いえもち)の元に輿入れします。
将軍 家茂は女性ですから、女性の元に女性が嫁にいったことになります。
「大奥」の中では、替え玉となった偽の和宮は、時が来たら自分の正体を明かし、京都に戻るつもりでいました。
しかし、事情を知った家茂が、和宮に優しく接してくれるので、だんだんと心を開いていく和宮でした。
というのも、本物と偽物の和宮の母親、観行院(かんぎょういん)は弟(本物の和宮)の方を溺愛していたからです。
和宮にキャスティングされている、岸井ゆきのさんはこう言っています。
母親に愛されたい、独り占めするために江戸にやってきた和宮の気丈夫な言動は強さの反面、時に可愛くてさみしげです。健気でいたいけな家茂に出会い、心を締め付けていたものが解かれ、本来の純朴な心を家茂にあずけていく姿をとても愛らしく思いました。心の繋がりを信じ、精一杯の愛情で使命を果たそうとした和宮。
和宮の手
和宮には左手首がなかった!
和宮の替え玉説の根拠の一つとしてあげられるのが、和宮の「手」についてです。
和宮の左手は手首から下がなかった、ということです。
和宮の肖像画、銅像からは左手の先が見えず、隠し方としては不自然でした。
戦後に、和宮の墓所を調査した時には、左手首から下の骨が見当たりませんでした。
だからと言って、和宮が替え玉であるとの証拠にはありません。
徳川家に嫁に行く前の、和宮の手についての記述がありません。
生まれつきなかったものなのか、あるいは本物にはちゃんと左手が備わっていて、替え玉にはなかった・・・など想像の域を超えるものではありません。
作家の、有吉佐和子さんは、和宮は替え玉だった、と信じています。
それを小説にしたのが「和宮様御留」(かずのみやさまおとめ)でした。
NHKドラマ「大奥」の場合
よしながふみ、原作NHKドラマ化の「大奥」では、大奥にやってきた和宮様には左手首から下がありませんでした。
和宮として御台所として入る方は、男性のはずが女性でした。
本物の和宮の姉だったのです。
しかし、女性では、子供を持つことはできません。
本物の和宮(男子)は、姉弟の母 観行院が溺愛しており、江戸になど嫁(?)にやりたくなかったのです。
先に生まれた長女に手がないことで、疎んじるようになり、代わりに下の弟に愛情を注いだ・・・というわけです。
分け隔てされた女性の方はなんとか母親に認めてもらいたくて、江戸に身代わりでやってきました。
身代わりになった姉は、弟ばかりを気にかける母親の愛に飢えていた、というわけなのです。
母親に認められたいがための、悲しい決意です。
そこまでして、母親からの愛情を得ることができたでしょうか?
そして男装して、江戸に行きます。
本物げ江戸に来る前には、「左手がない」と大奥内で話題になっていました。
将軍は、和宮に手があろうとなかろうと、全く気にせずに向き合います。
将軍、家茂のもとで、素直な自分を取り戻していく、そこが見どころです。
和宮の顔は知られていなかった?
和宮が替え玉だ・・・と言われていますが、和宮の顔を知っている人が江戸幕府内にいなかったのでしょうか?
公家の姫君というのは、表に出ることはありません。
特に天皇の娘、姉妹ともなれば、屋内にいても御簾と呼ばれる簾のようなものの内側にいて、人との面会も御簾越しに行われます。
ですから、親しい人でも姫君の顔を知る人はあまりいません。
母親、近く使える侍女達は、もちろん顔を知っています。
しかし彼らは和宮の味方ですから、たとえ替え玉であっても、本当のことを言うわけがありません。
ただ1人、母親、観行院の叔母だけが知っていたといいます。
その叔母は、徳川寄りの人間だったため、和宮の母親及び、側近は江戸についても何とか言い訳を救って、叔母とは会おうとしませんでした。
ですから、江戸にきた和宮が本物か偽物か・・・誰にもわかりません。
和宮 家茂と仲良し
歴代の将軍のもとに嫁にきた正室、(御台所、みだいどころ と呼びますが)は、権威の表れとしての嫁です。
ですからそれほど仲が良いわけではありません。
しかし、和宮と家茂は、仲が良い夫婦でした。
家茂は優しいタイプ。
和宮側からの条件を受け入れてくれました。
朝廷からの女官たちを連れていくこと、困った時は自分の伯父(公家です)にも江戸に来てもらうこと・・・
ちょっと妻を甘やかしているのでは、と思えるほどです。
もっとも、江戸時代も末期となると、将軍家を初めとるする上級武家も、性格的に貴族化しているので、家茂のようなおっとりした人物も生まれてきます。
それに、家茂は妻のことを、これまでの通称だった「御台」と呼ばずに「宮様」と呼んでしました。
NHKドラマ「大奥」でも家茂の優しさがよく現れています。
家茂の周囲にいる人たちから見ると、嫁の尻に敷かれて・・・情けない・・・くらい思ったかもしれません。
仲が良かったのですが、家茂は身体が弱い人でした。
何度も京都に行く用事が多く、ついには上京中、大坂城で亡くなってしまうのです。
外国からの圧力、外国からの要望に対する国内の分裂、それらが家茂のストレスとなりました。
ストレスと従来の身体の弱さが一緒になって、早死にしたようなものです。
和宮、公武合体の約束として
和宮は、孝明天皇の妹です。
和宮の生きた時代は 1846〜1877で、まさに幕末。亡くなったのは大政奉還の後です。
1853年には、アメリカのペリー率いる黒船が浦賀沖に現れました。
それにつれて外国からの圧力を感じ始めた日本の朝廷と幕府です。
朝廷と幕府が協力して日本を強化しようとする動きが公武合体でした。
その形の一つが、天皇家の姫君と幕府の最高権力者 将軍とが結婚することでした。
まずは形からですね。
そこに白羽の矢が当たった、姫君が和宮親子内親王です。
和宮、孝明天皇の命令で
天皇家の姫が降嫁(こうか)と言われ、将軍家の方が身分が低い、とみなされていました。
嫁入りの話が持ち上がった時、和宮には婚約者がいました。
それもあって、和宮は最初、この結婚を非常に嫌がっていました。
降嫁という「降」のイメージがいやだったのです。
兄の孝明天皇は、「妹の和宮が行かないのなら、私は自分の娘を嫁に出さなければならない、その場合は、お前(和宮)も出家しなければならない」
「嫁に行くか、出家にするか、決めなさい」
ということを言われて、泣く泣く嫁に行くことに決めました。
それがいざ、嫁に行ってみると、家茂は思った以上に思いやりのある人。
江戸城大奥に入っていきいきと、暮らし始めます。
その時、上様(将軍様)と庭に出るときに、ぴょんと飛び出て、上様の草履を揃えるなど微笑ましい光景が見られたと言います。
和宮様の快活な様子を記した文章がありますが、それに疑問を持ったのが、作家 有吉佐和子でした。
ぴょん、と飛ぶような動きはとても公家の姫の所業に見えない・・・・
もしかしたら替え玉なのでは、と疑いを持った、とテレビのインタビュー番組で、かつて言っていました。
和宮と篤姫 争い?
御所風と江戸風の対立
篤姫とは、先代の将軍 家定(いえさだ)の御台所(正室)です。
夫の没後、出家して天璋院(てんしょういん)を名乗ります。
家茂と家定は従兄弟同士です。
親子ではないのですが、将軍の位を考えると、嫁姑のような間柄になります。
徳川の順位から見ると、和宮より篤姫の方が位が上です。
篤姫の方が、以前の将軍の妻だからです。
しかし、公家の意識が高い、和宮から見ると、天皇家の血筋の自分の方が位が高い、となるのです。
意識の違いが対立を生みます。
いつまでも京風を捨てない、和宮を篤姫は苦々しく思います。
これは武家のしきたりと御所のしきたりとの対立です。
和解が来る日
しかし、篤姫の和宮に対する偏見がなくなる時が来ました。
上の章で書いた、和宮が庭に出るために、敷石にぴょんと飛び乗って、上様の草履をそろえた、というエピソードが、きっかけでした。
篤姫は、和宮が上様を想っているということがわかったからです。
これ以降、和宮と篤姫がお互いを尊重するようになりました。
やがて、幕府は朝廷と対立し争いが起こります。
江戸幕府はついに、1867年 大政奉還をして徳川家は、日本の政権を離れませす。
朝廷側が江戸幕府がわを攻撃し、江戸は陥落寸前に追い込まれます。
その時、2人の元御台所、和宮と篤姫は共同戦線を張り、江戸を守り抜きます。
和宮は、朝廷の軍 官軍に手紙を書き、江戸城を、江戸を焼き払わないように嘆願書を送りました。
それが「和宮哀訴状」と言われています。
一方、篤姫は自分の出身地 薩摩の西郷隆盛に手紙を書きます。
こちらも、江戸を焼き払わないように、と嘆願する手紙でした。
2人の嘆願のおかげで、江戸城は無血開城することができました。
奇しくも、2人とも、結婚前に好きな人がいたり、婚約者がいて、遠い江戸まで嫁に着たくなかったのです。
しかし、2人とも愛情深い夫に恵まれたおかげで、徳川の存続を大切に思うようになったのでした。
たとえ、和宮が替え玉であったとしても、その女性は家茂を慕っていた、あかしです。
愛は人を変える!
和宮、慶喜を助ける
慶喜とは徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜です。
和宮は慶喜を嫌っていました。
和宮は家茂を愛したことで、徳川家を大切に思うようになってきていたのです。
ですから、1868年 鳥羽・伏見の戦いで、朝廷軍から押されてきたことで、大坂城からこっそりと逃げ帰ってきた慶喜に失望していました。
それに将軍に就任した折には、大奥の予算を慶喜が削ったことを恨みに思っていました。
一方慶喜の方は、朝廷へのとりなしを和宮に頼もうと考えました。
和宮は、慶喜には全く好感を持っていなかったので、無視していましたが、篤姫のとりなしで何とか、朝廷への手紙を書くことにしました。
和宮からの手紙は、朝廷では取り扱いに悩んでいたのですが、元は宮様だったからの手紙を粗末に扱うわけにはいかず、結局は取り上げられました。
そこから江戸城無血開城への道が開けたのです。
和宮は最初は、結婚を嫌がるメソメソとしたお姫様でしたが、時を経て、徳川と朝廷の架け橋を果たすことができる、女性へと成長しました。
困難が人を育てるのでしょうか?
和宮の死因
家茂、1866年の死から、11年後 1877年(明治10年)和宮は亡くなりました。
和宮は脚気(かっけ)を患っていました。
脚気とは、戦前までは日本でかかることが多い病気でした。
きれいに精米した白米を食べる人がかかることが多かったです。
つまりビタミンB1不足から起こる病気です。
胚芽って大事なのですね。
かつての多くの日本人は精米が不十分な米や玄米が中心でしたので、庶民には比較的少ないです。
和宮は甘いものが好きだったということで、甘いものの食べ過ぎも脚気に拍車をかけました。
言ってみれば身分の高い人の贅沢病(?)という感じです。
家茂もかかっていました。
1877年 8月には病気療養のため、箱根塔ノ沢に行きます。
しかし、治ることなく、箱根で同年 9月2日 32歳で亡くなりました。
また、別の死因説も浮上してきています。
ちょうど、その頃日本ではコレラが流行していました。
和宮もコレラだったかもしれない、というのです。
葬儀には天璋院篤姫も参列しなかったから、というのが根拠ではありますが、確かな証拠はありません。
和宮の墓は、東京 芝 増上寺にあります。
徳川家の菩提寺に眠っています。
コメント