お田鶴・・・・家康と敵対することになる女性です。
女性ながら、夫の後を継ぎ、城主となります。ですがそれは統治のためというより、城を守るため。その結果はどのようになるでしょうか?
お田鶴は、今川氏を通して家康の妻、瀬名姫の親戚でもあります。
一体どのような女性だったのでしょう?
後に「椿姫」と呼ばれています、その由来はどこからきているのでしょう?
お田鶴とは、その読み方は?
お田鶴(おたづ)と読みます。結婚してお田鶴の方(おたづのかた)とも呼ばれます。没年は1568年と知られていなますが、生年は1550年頃と伝えられています。
父は鵜殿長持、母は今川義元の妹(当時の女性の名前はほとんと残らない)、兄は鵜殿長照です。今川家に尽くした家族です。
お田鶴は子供の頃から力が強く、武術が得意な勇ましい少女でした。気も強かったかもしれません。
飯尾連龍(いいおつらたつ)が夫です。今川家の武将の一人です。そして曳馬城(引馬城と表記されることもある)の城主でした。曳馬城とは後に浜松城と呼ばれる城です。
今川方だったはずの飯尾連龍は、桶狭間の戦い以降、今川方につきながらも徳川と内通して今いました。その後は今川と和解するも、今川からの信用ゼロで、疑心暗鬼の中、今川氏に殺されてしまいました。
お田鶴の方はその後、曳馬城の城主となり、城を守り戦いました。そして討死しました。戦国時代に生きた女城主なった女性です。
お田鶴と直虎の関係は
お田鶴の飯尾家、直虎の井伊家間には最初は主従関係がありました。井伊家は飯尾家の主筋に当たりました。つまり井伊家の方が各が上だったのです。
桶狭間の戦い後の混乱期が背景にあります。今川方の武将たちが自分の進路を考えあぐねている時でした。また自分たちの動向も今川氏真(桶狭間で亡くなった、今川義元の跡取り息子)に疑われていました。
井伊家当主、直平が自分の潔白を示す戦に行く途中、家臣筋の曳馬城に立ち寄ります。
そこで直平にお茶を出し(お抹茶を立てたようです)、そこに毒を仕込んで、直平を殺害しました。即効性の毒ではなく、城を出て馬を進めていくときに突然具合が悪くなって落馬して亡くなったのです。
これはお田鶴の策略です。お田鶴が夫に囁いて毒殺に至ったのです。
飯尾が井伊当主を殺害に及んだ・・・その理由が定かでなありません。
飯尾家も井伊家も共に今川家から謀反を疑われていました。その疑いを晴らすための手段として飯尾は井伊を暗殺した。
今川家から、二心無ければ井伊を殺せとのの命令が下った、説もあります。
飯尾家の方が、井伊が今まさにむかう途中だった天野氏攻めをやめさせたかった。この時飯尾家は徳川と組んでいた。徳川からの指示だったかも?と。
この二つの説は全く違う方向から出ていますね。
この説以外にも、飯尾は自分の勢力を伸ばしたかったと。曳馬城は元々井伊家が所有する城だったから、その支配権を欲してのことだったのかもしれません。
私としては最後の説、飯尾の勢力範囲の拡大と、曳馬城の支配権と思いますが。
井伊家はこれで当主を失い、女性であった直虎が井伊家の当主になる羽目になったのでした。
以上のことは井伊家に伝わる歴史に記されている事件です。
井伊家の当主となった直虎が飯尾城のお田鶴を恨んだのはいうまでもありません。
戦国時代の女同士のライバル誕生となりました。やがて曳馬城も田鶴が城主となることとなり、女二人もの城主が出現しました。
男中心の戦国時代・・・女は内を守るだけでなく、戦でも活躍する時代であったのは驚きです。この二人の活躍を願いたいところですが、歴史はそんなにお田鶴に優しくありませんでした。
お田鶴、女城主になる
飯尾家は当主、連龍が討死すると内部はガタガタになりました。逃げ出す家臣あり、と情けない有様です。
これを見たお田鶴が一喝し、「じゃあ、私についてきなさい!」とばかりに立ち上がり女城主となりました。残っていた家臣もお田鶴に付き従ったのですから、お田鶴のカリスマ性は並々ならぬものがあったのではないでしょうか?
いくら切羽詰まった状況と言っても、女性が城主に立つのを武士たる男子たちは何も思わなかったのでしょうか?
いやいや、それよりもお田鶴の迫力勝ちだったのだと思います。誰にも有無を言わせないほどの・・・
夫が今川家に謀殺されたのだから、今度は今川を見限って、武田に味方します。
一方の直虎も女城主となり、こちらは家康と組みました。曳馬城は家康が攻めることとなりました。
お田鶴は緋威の鎧兜を身につけ応戦します。緋威とは赤色の材料で作られた鎧兜のことです。赤を使ったのは女性らしいから?それとも血を流しても目立たないから?
まさに獅子奮迅の戦い。こういうのを鬼神のごときという言葉が相応しい・・・・
ですがついには徳川勢の攻撃に敗れます。武士のように切腹したのかもしれませんね。
お田鶴、「椿姫」と呼ばれる理由
家康は、お田鶴が勇敢に戦ったことを讃え、お田鶴とその侍女たちを弔い、塚を作り祠を立てて祀りました。
お田鶴は家康の正室、瀬名姫と従姉妹の関係、共に今川の血を引く者同士です。
幼い頃から、年も近く親友のような間柄でした。「どうする家康」ではその辺りの描写がとても美しく描かれています。美しいからこそ、そのシーンは哀しいのです。
結末がわかってくると、仲の良かった時代はなおさら悲劇となります。大切な親友と、自分の夫との戦はできるだけ避けたい・・・そう思っても戦国の世では、自分の信念が他の人のそれとは相容れない場合がある・・・その結果が曳馬城の陥落となりました。
瀬名姫はお田鶴の死を深く悲しみました。そこでお田鶴の塚の周りに100株ほどの椿を植えました。それ以降毎年椿は見事な花を咲かせ、椿からお田鶴の塚を「椿姫塚」、「椿屋敷」などど呼ぶようになったということです。
ただ椿を植えた・・・というのではなく、お田鶴が最後に身に纏っていた、赤い鎧兜が椿を連想させたのかもしれません。戦状況を耳にした瀬名姫がそこで、椿を選んだのでしょうか?
のち家康の城に入り岡崎城と言われるようになっても、塚は残り城下の人々はお田鶴の供養を続けていました。
塚は、曳馬城近くにあったのですが、その存在はわからなくなっています。それでも昭和初期に、塚たあったと思われるところに「椿姫観音堂」が作られました。
第2次世界大戦で消失しましたが、戦後に再建され、小さいながらも建っています。今では商売繁盛、子宝祈願などのご利益があるとい言われています。
あんまりお田鶴には当てはまらない祈願ですが、それだけ地元の人に愛されている証拠でもありますね。
私としては学問とか合格祈願にご利益がある観音堂であってくれた方が、イメージが沸くのですが。
お田鶴と家康の戦い?
家康の側室になる西郡局とは姉妹です。また今川の血筋を通して家康の正室、瀬名姫は従姉妹に当たります。女同士でとても複雑な関係です。
井伊直平毒殺事件のことがあり、井伊家は飯尾を恨んでいます。そして徳川につきました。お田鶴たち飯尾家は武田についています。
井伊家を継いだ、直虎が曳馬城までの徳川家康の道案内です。
家康は飯尾一族の命を助ける取引を申し出もます。城を引き渡せば一族の命を助けると。
しかしお田鶴は拒否しました。徹底抗戦の覚悟です。たとえ女であっても武家の誇りは捨てない、そう豪語しました。
家康はついに城攻撃の命令を出します。
お田鶴は緋威の鎧、兜に身を包み侍女たちと抗戦します。最後の戦いについには敗れました。徳川の猛攻の前に敗北したのでした。
曳馬城は落城後、徳川家康の城となりました。その名を浜松城と変えました。
お田鶴、「どうする家康」の中で
お田鶴・・・今まさに「どうする家康」で活躍中です。
兄、鵜殿長照の言いつけに従って、今川家に入りこみスパイ活動をしています。今川家を探るのでっはなく、今川家で人質状態となっている瀬名姫の動向を探るためです。それと、瀬名姫の両親もでしょうか。
瀬名姫が夫、家康のもとに向かおうとするところがお田鶴の働きで阻止されます。うまく瀬名姫の母親に取り入っていますね。
お田鶴は諜報活動が得意だったのではないか、と思わせるエピソードでした。
コメント