「八犬伝」という映画が公開されます。
これは、作者の滝沢馬琴の物語と「八犬伝」のストーリーが交互に流れる展開の映画です。
「八犬伝」の作家 滝沢馬琴を紹介します。
人気作家な割には、地味な生活をしていたようです。
滝沢馬琴は、一体どんな物書きだったのかを、性格、生涯、妻、葛飾北斎との付き合いを通して見ていきます。
滝沢馬琴、「八犬伝」作者
滝沢馬琴が八犬伝を描き始めたのは、1814年あたりから、完成までに28年かかっています。
舞台となる時代背景は、1400年ごろ、室町時代ですね。
ライフワークとしては、20年もかかるというから壮大です。
なぜそんな物語を書いたのでしょう?
「八犬伝」のあらすじも、一緒にご紹介しておきましょう。
滝沢馬琴 「八犬伝」をなぜ書いた?
滝沢馬琴は「八犬伝」を48歳から76歳まで、106冊もの長さになるまで、書き続けました。
滝沢馬琴のライフワークとも言えます。
では一体なぜ?
滝沢馬琴は当時の、江戸幕府をこっそりと批判していたのではないか、と現代では言われています。
まずは登場する里見氏、実際に存在した、この家は徳川家により滅ぼされた家でした。
昔は、足利氏に味方していた家で、江戸時代に入ってからは軍事力、経済力を持つ国だったので、徳川幕府からは難癖をつけられて、滅ぼされてしまいました。
江戸幕府が滅ぼした国をテーマに扱うのは、徳川家を馬鹿にしてる、と思われる可能性があります。
ですから、滝沢馬琴はあえて、時代を室町時代におきました。
「自分は徳川幕府を批判してないよ」というデモンストレーションです。
しかし、徳川家を批判することだけに、30年近く費やして、本を書く心境はどんなものだったでしょう?
これは滝沢馬琴本人が、取り掛かった物語の筋に、惚れ込んでしまった、と私には見えるのですが。
だからこそ、現代の私たちの心をつかみ、何回も映画などが作られているのでしょう。
滝沢馬琴の「八犬伝」あらすじ
ここで、物語のあらすじを、ざっと紹介しましょう。
『南総里見八犬伝』は、室町時代の戦国大名・里見家に仕える八犬士の活躍を描いた物語です。
南総(房総半島にあるくに)の領主 山下定包 の妻は玉梓(たまずさ)と言いました。
二人は、悪い領主だっため、里見義実に討伐されます。
妻の玉梓は、処刑されるときに、里見家にたたってやる、と言って死にました。
玉梓は怨霊となり、里見家は呪いをかけられてしまったのです。
里見家の姫・伏姫と、その愛犬・八房の話から始まります。
里見家は戦いをしており、当主の里見義実(さとみよしざね)は相手の敵将の首を持って来たものに、伏姫を嫁にやる、と口にしました。
実際、八房は敵の首を持って来たのですが、そこは当然認められず。
八房は父・里見義実に殺され、伏姫は自害する。その際、伏姫の体内にあった8つの玉(霊玉)が空に飛び散り、それぞれ「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」という文字を宿すのです。
これらの玉は、後に八犬士と呼ばれる8人の武士たちに転生し、彼らは霊玉によって運命的に結びつけられることとなります。
八犬士は各地で修行を積み、様々な試練を乗り越えながら、やがて里見家の再興を目指して集結します。
悪との戦いを通じて彼らは義と忠を発揮し、最終的に里見家を救い、霊玉の力で呪いを解くことができたのです。
この話は、忠義や仁愛といった徳目を中心に展開し、壮大な冒険と試練を描く伝奇的な英雄物語なのです。
滝沢馬琴、何をした人
「南総里見八犬伝」を書いた人、江戸時代の小説家です。
それだけではなく、原稿料だけで、食べていくことができた、日本最初の作家、なのです。
それほど、「南総里見八犬伝」人気になったということの表れです。
また、「八犬伝」は日本におけるファンタジー小説の元祖であります。
ファンタジー小説とは、空想によって作られた異世界、で魔法や神話、不思議な力が存在し、主人公は、その異世界で冒険をする、と言う、物語のことです。
滝沢馬琴、犬好き?
「南総里見八犬伝」の挿絵にいっぱい犬の挿絵が出てくるので、作者の滝沢馬琴は、さぞか犬が好きのかと思いたくなりますが、違うのです。
「南総里見八犬伝」が出版された時に、表紙絵と挿絵を担当したのが柳川重信(やながわしげのぶ)という絵師でした。
えっ、「八犬伝の」挿絵を描いたのは、葛飾北斎じゃないの?と思われるかもしれませんが、北斎の門下生「柳川重信」(やながわしげのぶ)という浮世絵師が担当しました。
「八犬伝」には犬が登場するのですが、犬が出てくるのは「八房」という名前の犬だけです。
そのほかは、「犬」という感じが苗字に入った、8人の剣士が登場します。
それでも出版された、「南総里見八犬伝」の表紙は、犬がびっしりと描かれています。
しかも、犬が可愛いこと、可愛いこと。肉球を描いてある、巻もありますよ。
8人の剣士たちでさえも、犬の顔をして出てくるのだから、柳川重信は、内容をきちんと読んで挿絵を描いたのだろうか、という疑問が湧いてきます。
そのせいで、「八犬伝」の剣士は、犬の子だったのでは、と思わせる間違った情報を後世の読者に与えてしまったのでは?
滝沢馬琴は、内容と違うよ、とクレームをつけなかったのでしょうか?
現代までも、この本が残っているのですから、滝沢馬琴は、苦笑いしながら黙認していた感じです。
案外、滝沢馬琴 本人が気に入っていたのかもしれませんよ。
滝沢馬琴、鳥好き
滝沢馬琴の、鳥好きとは、鳥を飼うのが趣味でした。
江戸時代では、鶯やメジロの飼育は、武士や金持ちの商人たちの道楽の一つでした。
滝沢馬琴の場合は、確かに売れっ子作家という意味で、道楽を求めたのかな、と思いましたが、そうではなく、作家活動のストレス対処のためでした。
物語を描くとき、隣に、小鳥がカゴの中で遊び回る様子を見ると、良い気晴らしになる、と日記に書いていました。
ウソからはじまり、たくさんの種類の鳥を飼うようになりました。メジロ、ヨシキリ、ホトトギス、ハトも何種類か揃えました。
さすがに、100羽を超えるようになると、手に負えなくなり、餌代もかかりすぎて生活を圧迫するようになり、手放し、というより売ったのでした。
カナリアだけが残りました。
江戸時代に、カナリアなんていたのがびっくりです。オランダ人が日本に持ち込んだ、と言われています。
声が美しい鳥なので、滝沢馬琴も癒されたことでしょう。
滝沢馬琴の生涯
滝沢馬琴は、武家の出身ですが、馬琴が生まれた時には没落していました。
父は早死にしたので、滝沢馬琴は働くしかなかったのでした。
滝沢馬琴、戯作者の元で修行
子供の頃から物語を読むのが好きだった、馬琴は、24歳の時、当時人気の戯作者 山東京伝(さんとうきょうでん)に弟子入りを頼むのですが、断られます。
戯作者(げさくしゃ)とは、江戸時代の、大衆小説を書く作家のことです。
断られはしますが、家への出入りは許されていました。
やがて、いくつか、戯作を書くようになり、名前もそれなりに知られてきました。
そこで、版元 蔦屋重三郎のが目をかけてくれ、奉公をしながら、修行していました。
こうなると、武士としての身分に釣り合わないと思い、武士の身分と名前を捨てます。
修行しても、筆一本で食べていくことは難しいとさとり、生活のために別の道に進みます。
芽がなかなか出ずに苦しむ作家の生活は、現代と同じですね。
滝沢馬琴、下駄屋の入婿になるも…
婿に入った、下駄屋の娘は、お百(ひゃく)と言って、一度は嫁に行ったものの、出戻りで30歳になっていました。
一方の、滝沢馬琴は27歳。
ある意味、家つき娘なので、滝沢馬琴にとっては逆玉?
と言っても非常に裕福な店ではなかったので、逆玉、ではなさそうです。
義理の父は、滝沢馬琴時が、武家を捨て家業にはげんでくれると思ったのに、商売には身を入れてくれず、手習塾なんか始めてい宝、ちょっとがっかりです。
塾で生活はなんとかなっていました。
それでも、仕事をしながらも小説を書いていました。
滝沢馬琴のブレイクは、義母の没後
1795年に義母(妻 お百の母)が亡くなると、下駄屋を閉めてしまいました。
入り婿でありながら、大胆な、と思うのですが、滝沢馬琴が実質的な店の主人なのだから、仕方ありません。
これで、遠慮なく文筆業に打ち込める、と思ったのでしょう。それでも入婿だから妻の家族のことを気にかけていた、と言うことです。
1802年には関西をし、関西の文人と交流したり、名所巡りしました。
これって、文章を書くための、取材に近いものと思われます。
本格的に、本を書くことで、滝沢馬琴もだんだんと本が売れるようになってきました。
最初に売れた読み物本は「月氷奇縁」で、だんだんと、師匠格だった、山東京伝とはライバル関係になってきます。
やがて、滝沢馬琴はライバルの、山東京伝を抜くほどの勢いです。
そんな中で、1814年「南総里見八犬伝」(八犬伝)が世に出ました。
滝沢馬琴は、一男三女の父親になっていました。
滝沢馬琴、葛飾北斎と親友
映画「八犬伝」では、滝沢馬琴と葛飾北斎との親友関係が描かれています。
では実際はどうだったでしょう?
北斎方が、滝沢馬琴より7歳、年上でしす。
葛飾北斎が、滝沢馬琴の文章に描いた挿絵は、実に236枚。
初めて、一緒に仕事をしたのが、1804年から、1807年頃まで。
モノクロの絵とはいえ、一枚を1日半で描いていたようです。
描き方としては、滝沢馬琴が仕上げた文章をよく読んで、挿絵をつけるのではなく、馬琴の方が文章と同時に、ラフスケッチのようなものを書いて、北斎に渡していたのです。
ということは、滝沢馬琴もある程度絵心があったのでしょうか?
やがて、作品をもっと、意思の疎通を図るため、北斎は、滝沢家に居候させてもらいます。
1806年〜1807年の頃、およそ3〜4ヶ月、と短い間でしたが。
そのエピソードは、滝沢馬琴と葛飾北斎が共に書い本「苅萱後伝玉櫛筍」(かるかやごでんたまくせしげ)の序文に描かれています。
『北斎が、自分の家 「著作堂」に、春から夏のはじめにかけて、遊ぶ』と。(『遊ぶ』とは一緒に過ごす、こと)
さらに「刈萱〜」の中にはこの物語を、馬琴は57日で書き、北斎がそばで、挿絵を仕上げた、ということも書かれていました。
同居していたとはいえ、本の制作について、口論になることもよくありました。
葛飾北斎の性格は、短気、すぐにけんかをふっかける、強情、と、かなりの気の強い性格です。
滝沢馬琴も、傲慢、性格が悪い、と言われていました。
どちらも才能がある人物で、癖があり、強情なタイプだったので、似たもの同士で、仲が良かったのかもしれませんね。
ケンカし合いながら、仲良くしていました。
滝沢馬琴、蔦屋重三郎
滝沢馬琴を見出したのは、蔦屋重三郎でした。
まずは滝沢馬琴を、蔦屋重三郎の店「耕書堂」で、使用人として雇いました。
それでも、すぐに売れたと言うわけではありませんでしたが、気長に待ったと言うところが蔦屋重三郎のすごいところでもあるのです。
滝沢馬琴は、作家として名を売りたかったはずなのですが、本屋の店員として雇われた気持ち、と言うのはどんなものだったのでしょう?
それとも、本屋に勤めていれば、本をたくさん目にする機会があって、自分の目が肥えて、創作活動の良い刺激になる、と滝沢馬琴は思っていたのでしょうか。
なお、「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)も、「耕書堂」で勤めていたから、この店は作家になるための登竜門だったのかもしれません。
滝沢馬琴、失明!
滝沢馬琴は、視力を失います。
67歳、まず右目がかすみ始め、左目だけで、執筆していましたが、つい左目にもきました。
片目だけで、書いているのと、残った方に負担がきてしまうのですね。
長男の、宗伯がこの頃亡くなった、と言うのも悲しみであり、ストレスとなり、これも視力を失う原因の一つだと思われます。
73歳になる頃には、完全に失明し執筆不可能となりました。
その後の、執筆活動は、宗伯の嫁であった、路(みち)に後述筆記で代筆してもらい、「八犬伝」を仕上げました。
他にも、60代になると身体の他の部分にも、衰えが見えてきます。
まず、歯が抜けました。自分の日記に、そのことを書いています。
滝沢馬琴は甘いものが好きだったので、30歳ぐらいから徐々に抜け始めていました。
自業自得、と言うところもあります。
滝沢馬琴の妻
滝沢馬琴の妻は、「お百』(おひゃく)、歴史上や、馬琴ファンには悪妻と思われています。
「馬琴の嫁」と言う『郡陽子』小説がりますが、滝沢馬琴の長男の嫁、「路」(みち)を指しています。
滝沢馬琴の妻、家つき娘「お百」
一方、妻 お百が、滝沢馬琴と結婚したのは、打算的な意味がありました。
お百は、出戻りであったし、自分の生家 履き物屋には店を継いでくれる、男性が必要、
相手は家もどうなるかわからない武士だし、作家としても売れないし、ちょうどいい、と思ったのでしょう。
でも、お百さんの希望とは違い、ついには、滝沢馬琴は、作家になってしまいました。
なってしまったものは仕方ない、と言うことで、お百は、夫 滝沢馬琴を支えます。
滝沢馬琴の小説が売れ始めるのは、この頃、32歳をすぎた頃からです。
ようやく自分の筆の力で食べていくことができるようになりました。
それでも、原稿料はまだまだ低い。
夫 滝沢馬琴は、規則正しくスケジュールを決めて作品を描く人物だったので、お百は夫のライフスタイルに合わせて、コツコツと家事をしていました。
それは、妻というより、お手伝いさんのような生活ぶりでした。
子供も生まれていますから、決してお手伝いさんの生活ではなかった、と思いますが。
内助の功、と言えば、美談ですが、そうやってずっと尽くしてきた、ことに不満を感じなかったのでしょうか?
滝沢馬琴の妻 お百にライバルが?
やはり、鬱屈した気持ちは出てきました。その相手が息子の嫁です。
息子の嫁 路(みち)は、滝沢馬琴が、視力を失った時、馬琴の小説を口述筆記で書いたのです。
口述筆記する時、滝沢馬琴と路の間が親密に見えすぎて、お百は嫉妬した、と言うことが、「群ようこ」の小説に書かれています。
しかも、路さんの方が美人で有名だったのです。
お百は、滝沢馬琴とお路が、一緒にいることに怒りを覚えます。
滝沢馬琴の妻 お百 悪妻のレッテル!
そして、夫に向かって「私を取るか、嫁を取るか?」
「もし嫁を取るなら、私は家を飛び出ます」、「井戸に飛び込んで死にます」と喚き散らしました。
このエピソードがのちに伝えられて、お百は、悪妻と言う評判が立っているのです。
そうは言ったものの、お百は、家を飛び出しも、井戸に身を投げもしないで、このままの状態での生活を続け、78歳まで生きました。
実際、何もやらなかったのだから、悪妻、ではないと思います。
滝沢馬琴と曲亭馬琴、違うの?
滝沢馬琴は、正しい呼び方ではありません。
「曲亭馬琴」(きょくていばきん)と呼ばれ方が通常であり、「滝沢馬琴」と言う呼び方は、明治時代以降に、広まってきた呼び方です。
「曲亭馬琴」は、戯作に用いられる、ペンネームに近いものです。
じゃあ、本名でいいじゃないの、と思うかもしれませんが、本名は、滝沢興邦(たきざわおきくに)と言いました。
のちに、武士を捨てて、解(とく)。
他にも、幼名の倉蔵(くらぞう)、左七郎(左七郎)などあり、佐吉(さきち)と言う呼ばれることが多かったです。
言ってみれば、滝沢馬琴は、本名とペンネームを合わせた呼び方で、ちょっとおかしいです。
でも現代では、「滝沢馬琴」とい名前の方が一般的に知られているから、変えてしまうと誰かわからなくなりそうなので、「滝沢馬琴」のままであるのでしょう。
滝沢馬琴、活躍する映画「八犬伝」とは
2024年、11月25日公開の映画「八犬伝」
この映画は、作者の滝沢馬琴をメインに据えた映画です。
「八犬伝」の物語は、劇中劇のような形で、主筋の滝沢馬琴の生涯と交互に出てきます。
この映画の中では、滝沢馬琴は、浮世絵師 葛飾北斎と友情が描かれています。
そして、滝沢馬琴が登場する場面は、物語をどのようにするか、その葛藤がたくさん描かれています。
それは実際に滝沢馬琴が悩んだ以上に、現実味を帯びて描かれていると思われるのです。
八犬伝の物語も、ただの劇中劇でなく、カッコよく、感動的な場面作りになっています。
つまり1本の映画で、2本楽しめる感じです。
人形劇「新八犬伝」
1973年4月〜1975年3月まで、NHKで放映された、人形劇「新八犬伝」です。
人形劇なので、ちょっと浄瑠璃っぽく見えるドラマでした。
人長制作を、辻村ジュサブローが担当していたことが、話題になりました。
何よりも、玉梓の怨霊が文楽風に、顔が変わるのがとても魅力的でした。
怖い、と言えば、怖いのですが。
1983年 映画「新・八犬伝」真田広之が出演!
こちらは、鎌田敏夫 作 1984年の売り上げ一位を上げた カドカワ映画です。
アクション色が強い映画です。
何と言っても話題なのは、真田広之が、仁の玉を持つ、犬江親兵衛役で登場。
ヒロインの、里見家の生き残りの姫 静姫(薬師丸ひろ子)と恋仲になる役です。
また、夏木マリが、玉梓の音量を演じるなど見どころが多い作品です。
まとめ
滝沢馬琴が書いた「南総里見八犬伝」(八犬伝)は書かれた江戸時代から、現代まで人気を保ち続けています。
その理由の一つが、ファンタジー小説の特徴となっているクエスト(探究)にあるからでしょう。
異世界のシーンは、読者の想像を掻き立てます。
だからこそ、今でも何度も、映画化されているのでしょう。
江戸時代に滝沢馬琴に目をつけた、のが蔦屋重三郎で、2025年度のNHK大河ドラマにも関わってきます。
「八犬伝」の世界を楽しみながら、当時の江戸文化に目を向けてみるのもいいかもしれません。
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