鵜殿長照(うどのながてる)が大河ドラマ「どうする家康」で活躍中です。
戦国時代の武将では知名度がそれほどでもありませんでしがたが、「どうする家康」の中では敵方ながら存在感が厚い人物です。
今川義元の家臣で、徳川家康とは敵対します。
服部半蔵にも攻め入られます。
どういう武将だったのでしょうか?
鵜殿長照は攻められて滅ぶのですが、息子たちがいました。息子たちはその後どうなったのでしょうか?
また大河ドラマ「どうする家康」では野間口徹が演じて人気を集めています。
鵜殿長照の息子たち
「鵜殿長照も二人の息子たちも、全て生きたまま捕えて連れてくる」と大高城に攻め入る時に服部半蔵はこう豪語しました。
しかし、鵜殿長照は討死。息子たちは家康勢に確保されました。息子の名前は長男が氏長、次男が氏次と言います。
おそらく今川家の血筋をひき、今川家に仕えていたため、今川氏にちなんだ名前が付けられていたのでしょう。当時の今川家当主の名前は氏真(うじざね)ですから。
二人の息子は駿府(すんぷ)の今川氏真の元に送られました。
家康が今川を離れたために、代わりに今川で人質になっていた、家康の妻、瀬名姫とその子供たち(竹千代、のちの信康、亀姫)と交換するためです。
その後、二人の兄弟は今川家に仕えていましたが、今川家はかつての力はなくどんどん負けていきました。
そのため、兄、氏長は今川家を見限って家康の元に行きます。家康が関東に移った時にも一緒に赴き、石(こく、言ってみればお給料のようなものです)を与えられます。
徳川家からの信頼も厚いものとなりました。1615年の大坂夏の陣に参戦を果たし、徳川家のために大いに活躍した武将の一人となりました。
そして、1624年、76歳で亡くなりました。大往生だったと言えましょう。
弟、氏次は兄と今川家の城を守る任務についていましたが、負けが続く今川家に絶望します。兄ほど思いっきりが良くなく、自分の行き場所に思い悩みます。徳川には気持ちの上で賛同することができませんでした。
それでも母方の一族の従兄弟に当たる松平家忠に支えます。松平という姓で分かる通り、家康の親戚筋にあたります。
結局、氏次も家康の傘下に入ったということになります。
松平家忠は、1600年、関ヶ原の戦いの前哨戦とも言える、伏見城の攻防戦に加わり、氏次も同然従うことになります。
そして、伏見城の激しい攻防戦で命を落とします。
鵜殿長照の息子たちは、本当はどのような生き方をしたかったのでしょうか?時代の流れに沿って、今川家、徳川家と自分たちの身の置き所を変えていったのですが。
父のように徳川と戦って死にたかったのか・・・それとも徳川に恩義を感じたか・・・特に兄、氏長にはそのような思いがあったように見えます。
弟、氏次の方がもう少し複雑な想いがあったような感じがします。
鵜殿長照を、服部半蔵襲撃
徳川家康は桶狭間の戦いの後、今川氏を離れます。つまり鵜殿長照とも離れたわけです。
桶狭間の戦いの後、鵜殿長照は自分の居城、上ノ郷城を本拠としていました。上ノ郷城は現在の愛知県蒲郡市(がまごおりし)に位置しています。
織田家に従うようになっていた徳川家康は、鵜殿長照を攻撃します。
上ノ郷城は守りが固い城で、家康は苦戦します。
なんとか落としたい・・・そう思って忍びの者を使って攻撃をかけます。そこで活躍するのが服部半蔵です。
家康は服部半蔵に命じ、密かに進入し、火をつける手筈です。
服部半蔵は、忍びの棟梁で忍者を従えているというイメージですが、忍びの者の一団を作戦のために任された一人の指揮官なのです。
上ノ郷城奪取と言っても、城内部に潜入は簡単ではないでしょう。そこに買収、裏工作が必要だったと思います。作戦と身分がバレる危険性も孕んでいます。かなりの綿密な計画と忍耐強さが必要でしょう。そこをやり遂げてしまったようなのですから、服部半蔵という人物只者ではありませんね。
ついには火の手が上がった混乱に乗じ、家康は軍を率い、城を落とすことができたのでした。服部半蔵がいなければ、この上ノ郷城は落ちなかったかもしれません。
鵜殿長照は城の落城とともに自害して果てます。
しかし、そうではない説もあるのです。
鵜殿長照は城で討ち死にを逃れました。現在も残る安楽寺横の坂でつまづき転んだところを、追っ手に追いつかれ討ち取られてしまいました。
その坂は「鵜殿坂」と呼ばれています。坂に、鵜殿の名が残っているということは、本当に坂まで来たのか、あるいはただの伝説か・・それとも鵜殿長照を慕う人々の、こうであって欲しいという希望だったのか・・・
この坂で転んだものは大怪我をするか死んでしまう、という都市伝説が今では残っています。鵜殿長照の無念さが伝わってくる伝説です。
ここまでしてやられてしまった、鵜殿長照はもうどうしようもありません。完敗です。
鵜殿長照は討ち取られましたが、二人の息子、氏長、氏次が捕虜とされました。そして二人の息子は駿府に送られ、家康の妻子と人質交換されました。
その後も家康は残った女子供、住民たちに厳しい処置を下しました。そして上ノ郷の土地は荒廃してしまったのです。戦時の習いとはいえ、酷い目に遭うのはいつも女性、子供、また領民たちなのです。その習いとやら、現在までも続いているのには心が痛みます。
上ノ郷を逃れることができた住民、職人たちは下ノ郷に逃げ、その後は下ノ郷が栄えるようになった、と言います。
鵜殿長照、野間口徹が「どうする家康」でかっこいい!
「どうする家康」で鵜殿長照を演じている、「野間口徹」(のまぐちとおる)に今注目が集まっています。
いつもはメガネ姿ですが、今回はメガネを外し(時代劇だかたあたりまえですが)、かっこいい武将ぶりです。いつもドラマでは名脇役を演じておられますが、今回も主役ではないものの、存在感のある戦国武将になりきっています。
メガネが野間口さんのトレードマークみたいなものですが、そのメガネがないがためにより一層鵜殿長照の性質をよく表しています。
あるときは徹底的に冷徹になれる。作戦を打ち出す知将というイメージがすごくよく現れています。
あとは、討ち死にという大役です。大胆不敵に見え、負ける気がしないのですが、歴史はそうはいきません。
こちらも武士らしい死に際を演じておられます。
鵜殿長照と徳川家康
鵜殿長照も徳川家康もどちらも今川家にいた者です。そしてどちらも今川家となんらかのつながりがあります。
かたや、鵜殿長照は今川義元の甥。徳川家康は今川義元の姪を妻にした者。
両者ともに今川家で顔を合わせたことのある間柄です。ですが恐らく、徳川家康の方が年齢は小さかったでしょう。
いくら今川家に連なる者、と言っても家康とその母、於大の方にとってはむしろ母方の実家、水野家にとっては敵に近い存在でした。家康も人質状態でしたから。
ところが鵜殿長照側は全面的に、今川に味方する側です。なにしろ今川から困難を押し付けられていないのですから。
ここに両者の差が出ているのです。
隙あれば今川から逃れよう、これが徳川の意識でありました。鵜殿長照は、血を分けた伯父、そして従兄弟を守るという意識を持っていました。
鵜殿、徳川の意識の違いが桶狭間の戦い以降の二人の行動を分けたのでした。
桶狭間の戦い以前の、大高城兵糧渡しで鵜殿長照を助け、活躍した徳川家康でした。ここで鵜殿長照と徳川家康の友情が育まれたら、また違う展開になっていたかもしれないと考えると、歴史がまた面白く感じられます。
鵜殿長照と城、大高城(おおだかじょう)
大高城は元は織田家の管轄にあった城です。今川が何度攻め入ろうとしても失敗に終わっっていました。ですが織田の家臣の裏切りでこの城を今川が手にする事ができたのでした。
その城代が鵜殿長照でした。
大高城は、桶狭間の戦いに入る直前、重要な位置にありました。
攻防の中間地点にあったため、大高城は織田勢から狙われていました。今でいう熱海に近いところにあります。
織田方が徐々に侵攻してくるなか、大高城は孤立無縁に近い状況。これはもう籠城ですね。
それでも、鵜殿長照は城内の兵士を励ましつつ、全員で草木や木の実を食べて飢えを凌いでいました。
籠城は長期に渡ると厳しいです。なにしろ食料がなくなるのですから。ですから城の作りは、兵糧庫の充実が重要なのですが、それ以外にも、壁の内部の材料に食用可能な材料を用いました。もちろん美味しいとは言えませんが、植物繊維からできているからなんとか食べられるのでしょう。ある意味、昔の建造物はエコだったのですね。
大高城は何重もの砦に囲まれて、攻めるのに苦労する代わりに味方の援軍を入れるのも困難です。
籠城の大高城に兵糧を届ける役目を仰せつかったのが、徳川家康。この頃は今川家の人質時代です。
家康は突破して、兵糧を無事城内に届けることができました。
その後、鵜殿長照は大高城の城代を解任されます。その後にどんな役を振り当てられたかは定かではありません。
これは責任をとってというより、ご苦労さま、という慰労の意味があったのだと思います。
鵜殿長照と今川義元
鵜殿家は、鵜殿長照の父、鵜殿長持が今川義元の妹と結婚することで今川氏の一族となりました。
鵜殿一族が所有していた三河内の土地は、当時の今川氏にとっては非常に通行に便利な地でした。というより、ここからさまざまな土地への遠征がたやすくなる場所、と言った方がいいです。
そこで今川家と縁を結ぶこととなりました。そして今川義元の甥として、今川氏から重んじられていました。重要な地点をもつ人物だからこそ、婚姻により繋ぎ止めたいのでしょうね。
桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が織田信長に討たれた時は、徳川家康より早く逃げ出して、自分の所領に帰っています。
この後、鵜殿の一族は一枚岩ではなくなり、今川家にそのまま付き従うもの、またそうではないものと内部分裂始をめました。これは戦国の一族として当然のことです。より強い家について自分の安泰を図りたいものです。それで一族が割れてしまうこともよくありました。
鵜殿長照に関しても、動向がはっきりと知られていません。
鵜殿長照について残されている記述には、長照は父親、長持が亡くなってからその素行が悪くなったとあります。そのため長照と一族は離れていくことになります。
そこにヒントがあるような気がします。一族が存続できるよう一族の意思に任せ、自分だけは今川氏について行こうと決めたのではないでしょうか。
ここに、鵜殿長照の決意を感じるのです。
鵜殿長照が戦死し、二人の息子が捉えられ、今川が抑えている徳川家康の妻子と交換しました。この事実を見ると、今川家は鵜殿長照に感謝していたのかもしれません。そうでなかったら今川氏は鵜殿長照の息子たちを見殺しにしていたかもしれません。
鵜殿長照、桶狭間の戦いで
鵜殿長照は大高城を守り抜き、今川を有利へと導いたのですが・・・・今川義元が慢心したのでしょうか?自分に楯突くものはいない、とたかを括ったのでしょう。
桶狭間で今川義元が討ち取られてしまいます。桶狭間は実は最初から合戦に選ばれていた場所ではなく、大高城で本格的な戦闘を予定して向かうつもりでした。そこに至る休憩地点が、桶狭間だったのです。
ここで今川の臣下の多くが離反しました。人質であるはずの徳川家康も逃げてしまいます。そして織田方につきます。今川方総崩れという有様です。
ここで一気に織田に兵力が集まっていきます。
それでも鵜殿長照は今川義元の息子、氏真(うじざね)に仕えます。忠臣と言われるのはここからきているのですね。
なぜ、鵜殿長照は今川側に残ったのか?支持相手を状況により乗り換えていく戦国時代で、何故残ったのか?単に今川義元の甥であったから・・・その一言だけで片付けられない何かがあると思います。
自分が籠城した時に、兵糧渡しを計らってくれた今川義元に感謝してのことか。また今川義元という人物の人柄に惚れていたのか、また父、長持が今川義元の意を汲み、賛同していたのでその意思を継いだ、その辺りを想像しています。
また、今川に兵糧渡しに恩を感じると同時に、一緒に手を取り合って戦っていくはずの徳川家康が小田川についたことで、徳川を許せなく感じたのか・・・などとの想像もできます。
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