清少納言はくせ毛だった!名前の謎 性格は?中宮定子の元で才能開花!藤原斉信、夫とのやりとり。父も有名人 兄の悲劇

清少納言というと、平安時代「枕草子」という随筆を書いた女性として有名です。

しかし、この方もまた本名がわかっていません。

著書である随筆「枕草子」には面白いエピソードがたくさん出てきます。

その中から、清少納言の人物像が浮き出てきます。

どんな人となりとがわかるでしょうか?

探ってみようと思います。

才女と言われましたが、くせ毛だったそうです。

清少納言はくせ毛?

清少納言はくせ毛だった。これは伝えられている清少納言の外見です。

清少納言は、自分の著書「枕草子」で自分の髪のことも書いています。

その中では、夕方で暗くなると、灯りをともす。そうすると影ができて、私(清少納言)の髪に影ができて、くせ毛が丸わかりになるのが嫌だ、とあります。

灯火の光が当たると、陰影ができて、髪の表面がデコボコして見えるのでしょう。

どの程度のくせ毛だったのでしょう。

梅雨時と言った湿気の強い季節、爆発するほどだったのでしょうか?

現代ならソバージュなんて言って、ちょっとステキな気もしますが、当時は艶やかでまっすぐな黒髪、というのが美人の条件だったから、清少納言は肩身の狭い思いをしたでしょうね。

しかも真っ黒の毛色ではなく、少し茶っぽかったともあります。

となると、清少納言は、当時の美人の条件から外れた人でした。

2024年大河ドラマ「光る君へ」では、くせ毛にはあまり見えませんが、横に垂らしている髪がちょっと不自然なカールのように見えます。

カールがくせ毛を表しているのかな?

清少納言の名前

なぎこ

清少納言の本名として、知られている名前に「なぎこ」があります。

しかし、これについては根拠がないのです。

江戸時代の国学者 多田義俊(ただよしとし)が「枕草子抄」(まくらのそうししょう)で書いたことが始まりです。

その時、なぎこ は「諾子」と漢字が当てられています。

その後も江戸時代に書かれたものに、「なぎこ」の名前が見られます。

しかし、江戸時代以前も以降も、どの書物を見ても「なぎこ」は見当たりません。

平安時代〜江戸時代まで、女性の名前は、よほどのことがない限り、あるいは身分が高い人でない限り記録には残されていません。

ですから、「なぎこ」という名前は、やはり違うと思われます。

ききょう

NHK大河ドラマ「光る君へ」では「ききょう」という名前で、登場です。

えっ?清少納言は「ききょう」って言ったの?と思うかもしれませんが、違います。

これはドラマ制作側で、懸命に考えてつけた名前です。

清少納言、という名前で今は知られていますが、ドラマの背景を見ると、2月現在、清少納言はまだ宮仕をしていません。

清少納言とは仕えるようになってから、の女房(侍女、女官)としての呼び名で、まだ、宮中に入っていないのに、この名前を使うことはできません。

そこで、制作スタッフが頑張ってつけた名前です。

「光る君へ」の紫式部の方は、役作りとして、周りの親たちが、広い心を持つようにと願いを込めて「まひろ」として、とあります。

では「ききょう」はどのような想いを抱いてつけた名前、という設定にしたのでしょうね。

桔梗の花には、「変わらぬ愛」、「誠実」などという花言葉があります。

「誠実」・・・後に、中宮 定子 に献身的に仕えるようなことを予言させるような意味合いで、スタッフが考えた名前のような気がします。

区切り

私たちは「せいしょうなごん」と全体的に平たいイントネーションで読みます。

でも、2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では「せい・しょうなごん」、「せい」で切ってから「しょうなごん」と呼んでいます。

このほうが、理にかなった読み方ですね。

「せい」というのは、清少納言の父 清原元輔(きよはらのもとすけ)の「清」ですし、「小納言」は、清少納言が、宮中に入ってからの役職だと思われます。

宮中に、清少納言が入るのはまだ先のこと(2024年2月の時点ではまだ)ですので、この時期は清少納言とは呼ばれていませんでした。

清少納言の性格

清少納言は「枕草子」という随筆を残しており、その中に比較的よく性格が現れています。

「枕草子」の内容から、清少納言は、和歌や漢詩と非常に知識が豊富で、中宮 定子(ていし)をはじめとして、貴族たちと知的な会話をする様子がうかがえます。

知識自慢の、ちょっと腹が立つような人物に見えるところもあります。

ダジャレを飛ばすところもあり、そこからは明るくコミュニケーション力があることを思わせます。

人に思われるのが、一番ではないのは嫌だ、という面もありました。

それが恋人からでかでなく、友人からでも自分を一番に考えてもらいたい人でした。

それも才能があるからこそ、魅力的に見える性格です。

また、好き、嫌いをはっきり表現する性格でもありました。

「枕草子」では、嫌いなもの、見苦しいもの、などをズバズバ書いています。

いわゆる「毒舌」なところが見られます。

書き物の中だけでなく、実際に人に対してもはっきり言っていたとのことです。

それだけではなく、自分自身のについても嫌いのところは書いており(くせ毛のこととか)、失敗談も書いており、欠点と長所があり、面白い魅力的な人物です。

平安時代という女性がおしとやかであることが求められた時代に、清少納言のようにハキハキとした物言いのできる女性は、周囲から見ると浮いた存在だったのでしょう。

このような女性は、上流の姫君であるより、むしろ、そんなに身分が高くなくても、自分の仕事を持って活躍できる環境の方が、生き生きと過ごせたと思います。

もし清少納言が現代に生まれても、活躍できる女性ではないでしょうか?

清少納言、中宮 定子の元で才能を発揮

中宮 定子(ていし)は清少納言より10歳以上年下です。

定子の元に、女房(女官)として上がった時の清少納言は、恥ずかしがり屋の内気な女性でした。

のちのズバズバもの申す様子からは想像もつきませんが。

中宮 定子は、おずおずしている清少納言に気がついて、そばに呼び寄せ色々話しかけます。

緊張しつつ、中宮の話に相槌を打つなど答えていたのですが、定子の様子がとても美しいので、見惚れてしまいました。

それ以来、定子に仕えるのを誇りに思っていました。

特に、清少納言と中宮 定子の絆を深めたエピソードは、「枕草子」に出てくる話がきっかけです。

ある寒い朝、中宮は「香炉峰の雪は?」と問いかけました。

すると、清少納言は気がついて、御簾(すだれのこと)を持ち上げて雪景色を見せた、と言います。

これは、中国の詩人白居易(はっきょい)が、「香炉峰の雪はすだれをあげてみる」と詩に書いたものでした。

香炉峰は中国にある山、その山の様子を聞くのは??と他の女官たちは思ったのですが、清少納言だけは、白居易の漢詩に気がついたのでした。

この時から、清少納言は、中宮 定子の特にお気に入りになったのでした。

あまりに二人が仲が良かったので、二人の間には恋愛感情があったのではないかと、研究家の間では言われています。

確かに、二人の親密話を見ていると、単なる主従関係以上のものを感じますが、それが恋愛感情だったとは言い切れないと思います。

信頼関係は、他の人たちがなんて言おうとも揺るがなかったものでした。

その絆は他の何物にも例えようがありません。

清少納言と藤原斉信(ふじわらのただのぶ)

藤原斉信は清少納言と、交流のあった公達(きんだち)です。

公達とは、生まれのいい、身分の高い貴族の子息です。

藤原道長にとっては従兄弟にあたります。(道長の父 藤原兼家の兄弟の子)

花山天皇の最愛の妃、藤原忯子(ふじわらしし、または よしこ)の兄弟です。

藤原斉信は、清少納言や紫式部の時代、極めて魅力的と評判だった若い貴族の子息で女性たちからに絶大な人気でした。

推しの公達?みたいなものでしょうか。

枕草子の中にも、藤原斉信のエピソードが出てきます。

藤原斉信は4月に七夕の歌を詠み、それを清少納言にからかわれました。

そこで、七夕の祭りの時には、4月の歌を詠んでみせる、という話でした。

ちょっとズレている人なのかもしれませんね。

「枕草子」には藤原斉信のエピソードが多いのですが、清少納言との恋愛沙汰は話題にされていません。

ただ、忘れないでいてくれた人、などと書き、尊敬もしていた様子です。

多分、清少納言は藤原斉信に片思いしていたのでないでしょうか?

それを悟られたくないためにからかったり、していたのかもしれません。

清少納言のワカメ事件

これもまた「枕草子」に描かれている藤原斉信絡みの事件です

清少納言が宮仕えをしており、宿下りしていた時の話です。

宿下りというのは、休暇ということですね。

藤原斉信は、宮中に清少納言がいなくてつまらなく思い、清少納言を探し回りました。

この時、清少納言はすでに結婚していましたが、藤原斉信とは、歌などのお話をする友人づきあいは続いていました。

藤原斉信は下心あり、と見えますが、清少納言の方はそうは思っていなかったようです。

というのも清少納言は煩わしいから自分の実家の場所を、あまり人に、藤原斉信にもは教えていませんでした。

清少納言の夫 橘則光(たちばなののりみつ)にしつこく、聞きまくります。

橘則光はいくら、知らない、と言っても引き下がろうとしない、藤原斉信がめんどくなりました。

と同時におかしくて笑いそうになったので、笑いを堪えるために、そばの机に置いてあったワカメを口にガバッと突っ込んで、むしゃむしゃと食べたというのです。

わかめを急に食べたことも面白いのですが、当時、そんなすぐ近くに、おやつのようにワカメが置いてあったのも、驚きです。

わかめは平安時代ではすでに、味噌汁、汁物に入れて食べられていましたが、そのほか「ワカメ」の発音は「若芽」(わかめ)につながるため、若返りの薬と信じられていました。

そんなものが、すぐ近くに置いてあった、ということでしょうか。

後に、橘則光は清少納言に、文(手紙)を書いて、「とても可笑しくて、また、これほどしつこく聞かれたら、隠しておける自信が無い」と書きました。

清少納言は、返事には文字を書かずに、ワカメを含む海藻類を夫に送りました。

意味は「そのまま黙っておくこと」です。(またワカメを口にツッコミなさい)

しかし、橘則光はその意味がわからず、清少納言に「変なものを送ってきたね」という返事を書きました。

それに対し、清少納言は和歌を返したのですが、則光にはなんのことかだわかりませんでした。

ちょっと無粋な、夫 橘則光でした。

これは、落語みたいな話ですね。

清少納言の夫

わかめを口に突っ込んだ、清少納言の夫でしたが、清少納言はいつ結婚したのでしょう。

清少納言が結婚したのは、981年前後、清少納言が生まれ年ははっきりしていませんが、橘則光といい、藤原斉信の家司(けいし)をしていました。

家司というのは、身分の高い公家の家の職員ということです。

橘則光は965年の生まれ、で清少納言より1歳年上らしい、ということまでわかっているので、どちらも10代の頃の結婚ですね。

清少納言と橘則光は、公認のカップルだった、ということです。

橘則光は、武勇に優れており、泥棒を数人まとめて蹴散らした、などの話が残っています。

しかし、則光は和歌が嫌いで、うまく作ることができない・・・と「枕草子」では言われていますが、実は「金葉和歌集」に入るほど歌を作るのがうまかったのです。

前述の「ワカメ事件」のことで、その時の歌の意味を理解できなかったことで、和歌を知らない人、とレッテルを貼られたに違いありません。

なんとも残念な人です。

ワカメ事件がきっかけとなって、結局清少納言と橘則光は離婚してしまいました。

でも、お互い嫌いになって離婚したわけではないので、友人としての交流はずっと続きました。

橘則光が藤原斉信の雇い主だった・・・そして清少納言と藤原斉信は交流があった、斉信が清少納言を気に入ってた、とすると、三角関係はなかったのだろうか?と疑いたくなります。

斉信も関わった話で、離婚になった、と聞くとどこか疑わしいのですが・・・

清少納言のお父さん

清少納言のお父さんは、清原元輔(きよはらのもとすけ)といって有名な歌人です。

元康の父は、清原春光(はるみつ)とも清原深養父(ふかやぶ)とも言われており、紀貫之(きのつらゆき)との親交がありました。

そこから「後撰和歌集」を編纂する仕事を依頼され、さsらに「万葉集」を読解するなど、研究心旺盛な人物でした。

身分は低かったのですが、明るい陽気な性格で、ウィットの聞いた話し方をするということで人気がありました。

こういう性格が、娘の清少納言に引き継がれたのかもしれませんね。

その後、三十六歌仙に選ばれ、元輔の歌は、小倉百人一首に選ばれるなど、活躍しました。

身分は低いながらも、面白おかしく人生を送ることができた平安人だったのです。

清少納言の兄弟

清少納言には、清原到信(きよはらのむねのぶ)という兄がいました。

その兄は、1017年、数十人の徒歩の兵を指揮した7、8騎の騎馬武者に自宅に押し入られて、惨殺されました。

全身を矢に射抜かれて、首も切られていたのです。

清原の一族は、文人であり、およそ武道には縁のない家です。

ではなぜか・・・

この事件は、清原到信への報復だったのです。

かつて、到信が仕えていた、大和守 藤原保昌(ふじわらのやすまさ)が自分の甥、源頼親(みなもとのよりちか)と利権争いとなりました。

そして、頼親 側の人物、当麻為頼(たいまのためより)を殺害となったのですが、その事件に到信が関わっていたのでした。

藤原保昌は、平安時代を代表する有名な歌人 和泉式部(いずみしきぶ)の夫でした。

そして、源頼親の兄は、源頼光(みなもとのよりみつ、またはらいこう)という人物で、平安時代、大江山で酒呑童子という鬼退治伝説の英雄で知られています。

平安時代の3人の有名人の関係者が、血生臭い事件に巻き込まれるなんて・・・名前だけ「平安」で実は「平安」ではなかったという史実に驚かされます。

まるで平安時代の次にやってくる、鎌倉時代のような、ドロドロした事件でした。

清少納言は削り氷が好きだった

削り氷とは、かき氷に近いものです。

「枕草子」に『あてなるもの』として出てきます。あてなるものとは上品なものという意味です。

「削った氷に甘葛(あまずら)を新しい金属のお椀に入れたもの」と書かれています。

甘葛とは、この時代の甘味料です。

ナツヅタと呼ばれるブドウ科の樹液を煮詰めて作るシロップです。この植物は、アマチャヅルではないかとも言われています。

夏に食べました。

京都の夏は非常に暑い・・・現代のように地球温暖化が進んでいなくてもやはり暑い。

それに、平安時代は皆、十二単なんか着込んでいるからますます暑い。夏用の着物を着るだろうから多少はマシですが、それでも暑い。

そこで裕福な貴族たちは、氷室を作って、夏のために氷を保存しておいたのでした。

電気もない時代、氷室を作るのは大変だったと思います。

清少納言が、夏に氷を食べられたのは、中宮 定子に仕えていたからでした。

藤原家ともなると、当然氷室を作っていたでしょう。

清少納言役 ファーストサマーウイカって?

大河ドラマ「光る君へ」で清少納言役を演じているのは、ファーストサマーウイカさんです。

えっ?この人誰?と思った方もいらしたかもしれません。

カタカナ名前にびっくりした方も・・・・でも本名 堂島初夏(どうじまういか)さんという大阪出身の日本人です。

女優で、歌手であるタレントです。アイドルされていたこともあります。

NHK朝ドラに出演されたこともありました。

「光る君へ」では、漢詩の会に父親の清原元輔と一緒に参加し、同じく父親、藤原為時と一緒に来ていた、まひろ こと紫式部にで会い、漢詩の批評を巡って、バチバチと火花を飛ばします。

ききょうさん、なかなか、濃いめのキャラを出していて、まひろさん、ちょっと喰われ気味です。

また、公達からの人気も、まひろの上を言っています。

実際には会ったことがないと言われる、清少納言と紫式部ですが、今後平安時代の文壇をリードしている二人ですので、どうしても遭遇させないわけにはいかない演出でした。

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