2024年 NHK大河ドラマ「光る君へ」に平安時代の二人の超人気作家 、紫式部と清少納言が顔を揃えました。
将来ライバルになりそうな予感たっぷりです。
どちらの作家が人気でしょう?平安時代と今では違うでしょうか?
二人はライバル意識を持っていたのでしょうか?
紫式部・清少納言の二人は、実際な顔を合わせる機会はなかった、と歴史の話では語られています。
二人の人気具合を見ながらライバルであったか、見ていきましょう。
紫式部・清少納言 どっちが人気?
平安時代と現代では人気度が違っています。
紫式部・清少納言、 平安時代ならどちらが人気者?
平安時代の人気、というと、どんなことが基準になるでしょうか?
作家としての評価?それとも、美人度、モテ度?そんなこともかかってきますね。
紫式部・清少納言の人気「光る君へ」の中では
「光る君へ」の中で、紫式部(まひろ)と 清少納言(ききょう)が顔を合わせる機会がありました。
どちらも甲乙つけ難い、文学人です。よく勉強している。
「光る君へ」の中では、ポロに似た打球(だきゅう)の競技会が行われ、見物に良家の姫君たちに混じって、紫式部(まひろ)と清少納言(ききょう)も見物に行きます。
競技の後、まひろは聞いてしまったのです。
競技に参加した、貴族の若君たちの噂話を。
ショックだった、第一のことは、まひろは地味で華やかさがない、と言うこと。
一方の、ききょうは朗らかそうに見えるところが良い、と。
性格の様子で見ると、枕草子の方が人気ありそうですね。
実際、この後、二人は中宮にそれぞれ使えますが、清少納言が仕えた中宮 定子のサロンの方が、よりサロンぽく、人気がありました。
紫式部がいた、中宮 彰子の方は紫式部は家庭教師の役割で、サロンの雰囲気はイマイチでした。
ただし、どちらも身分が低い女性なので、結婚相手にはなり得ない。
貴族の子息は、金のある大貴族の娘の婿になってこそ、と話をしていたのでした。
中級以下の、女性は遊ぶにはいいけれど・・・と結論づけられました。
紫式部・清少納言 作家としての評価は?
平安時代は、物語というものの評価はそれほど高いものではありませんでした。
「枕草子」の方が、格としては上に見られていました。
「源氏物語」はヒマな時に読むもの、とか女が好きな物語、と言って、軽い扱いです。
人気小説だったにも関わらずです。
現代でいえば大衆小説みたいな扱いだったのではないでしょうか?
文学としては平安時代人気があったのは『日記』です。
紀貫之(きのつらゆき)の「土佐日記」、藤原道綱母の「蜻蛉日記」などが文学の中心でした。
ですから、紫式部も「紫式部日記」なんて書いています。小説だけの人と思われたくなかったらしい、です。
その中で、紫式部は清少納言のことを『いつも得意顔をして、漢字を書いて学識をひけらかしている』、『個性に走りたがる人はいつかは見劣りするようになる』と批判しています。
ちょっと感情的になって書いていますので、紫式部は清少納言を、相当意識していました。
物語文学に対し、世間の評価が低いのを悔しがっていた、という漢字です。
紫式部、清少納言 美人はどっち?紫式部は 末摘花 似?
どちらもあまり平安美人ではなったようです。
平安時代の美人の基準は、長く美しい黒髪、おぼろ眉と呼ばれる、太めで、ふっくらとした眉。ゲジゲジ眉とは違います。そして下ぶくれの顔。
清少納言は、自分の「枕草子」に、髪は少なめで、色も茶色がかって、しかもクセが入ってうねる、と自らのことを書いています。
つまり、髪だけで、すでに平安美人の規定外だったのですね。
さらに「枕草子」に自分の容姿を嫌がっている箇所があり、自分を美人とは思っていません。
一方の紫式部は、書いたものが小説「源氏物語」であるため、容姿を伝えるものがありません。
「源氏物語」の内容から、紫式部の容姿を推理した研究があります。
「源氏物語」の「末摘花」(すえつむはな)の巻からです。
末摘花という名前をつけられた光源氏の恋人がいますが、その女性は、背が高く、顔が面長、目立つ特徴は鼻が異様に高い、ということでした。
しかもその鼻は、垂れ下がり、先端が赤い、とあります。つまりブサイク、という意味。
鼻の先が赤いのは、寒い日だったので、寒さで鼻が赤くなった、と私は見ていますが。
「源氏物語」には、たくさんの女性が出てきますが(光源氏の恋人)、女性の描写がここまで詳しいのは、末摘花についてのみです。
なぜでしょうか?
これは作家が、小説の登場人物に自分自身を投影することがあり、「源氏物語」の場合は「末摘花」なのではないか、というのです。
紫式部が、鼻の長い女性だった、とまではいきませんが、自分自身の容姿がよくない、と思っていたのかもしれません。
もっとも、末摘花は、現代的感覚で言うと、美人になるのでは、と思うのですが。
紫式部・枕草子 現代での人気は
現代の日本での人気は、どちらも互角です。
しいていえば、2024年2月現在では、紫式部の方が検索が多いです。
二人の書物、「源氏物語」、「枕草子」の出版数や売上、あるいはそれに付随した解説本などを見ると、「源氏物語」が勝っています。
「源氏物語」と「枕草子」の外国語への翻訳を見ると、断然「源氏物語」の方が多いです。
紫式部が書いた方は「源氏物語」という小説、清少納言は「枕草子」という随筆なので、どちらが優れている、と比べるにはジャンル違いということで、難しいです。
紫式部と清少納言がライバル・・・というのは平安時代より、むしろ現代の方がライバルではないでしょうか?
どちらの愛好家が多いか、どちらの作品に人々は惹きつけられるか?
となると、むしろ現代の方にライバル感があります。
平安時代という中で、現代女性にも通じる、はっきりと意見を持っていう生き方からすれば清少納言の方が現代では、共感を得ると思われます。
対して、紫式部は、それほど自分の主張を通す場面は見られませんが、その作品「源氏物語」は、現代でも大人気で、漫画に描かれる時代です。
そして、生き生きと描かれた、登場人物に今でも読者は、心を惹かれます。
どちらがより優れている、といえないほどの偉大な女流作家を平安時代に存在した、ということが、日本人としての誇りと言っていいです。
しかし、ここまで源氏物語が人気なのは、作品が書かれた当時は、藤原道長が政治を動かす立場にいました、つまり大物。
そんな道長のバックアップがあったということも、人気の要因の一つとなっていることを、心に留めておいた方がいいかと思います。
紫式部と清少納言、関係は
紫式部・清少納言 ライバル意識あったの?
紫式部は、970年代〜1019年あたり、清少納言は、966年〜1025年。
年代はほぼ同じでした。
どちらも人気作家となったので、ライバル意識があった、などと言われていますが実のところはそうでもなかったようです。
もしライバル視というのなら、むしろ 紫式部 の方が清少納言 を気になる存在と見ていました。
その理由は二人が、宮廷で顔を合わせる機会があまりなかったからです。
どちらも宮仕えしていたのですが、紫式部の場合は1005年〜1012年頃、清少納言は993年〜1001年頃とずれがあります。
清少納言が宮廷を去ってから、紫式部が宮仕えに入った感じです。
それにそれぞれの仕えている相手が違います。
どちらも中宮に支えていて、その中宮は藤原家の娘ですが、紫式部が仕えた相手は彰子(しょうし)、藤原道長(ふじわらみちなが)の娘です。
清少納言が仕えた相手は、定子(ていし)と言い、藤原道隆(ふじわらみちたか)の娘です。
紫式部・清少納言 ライバルの噂は、藤原兄弟絡み?
藤原道隆は道長の兄です。
兄弟ではありますが、二人は政治でのライバルになっていました。
彰子も定子も、一条天皇の妃だった、ということは次の天皇の後継ぎを産んだ方が、政権をとる、となります。
つまりどちらの孫が天皇になるかにかかってきます。
娘のどちらに帝が心を奪われるか・・・・そのためにまず、才女を娘の次女(女房)にして、帝の関心を惹こう、としました。
つまり、紫式部、清少納言、共に雇い主 藤原兄弟の政権争いの手駒の一つとして使われたことになります。
藤原兄弟の、政治争いの勝者は、藤原道長です。
ということは、中宮 彰子に使えた、紫式部側が勝ったのでした。
紫式部 なぜ 清少納言にライバル視を?
宮廷に文学サロンを最初に作ったのは、藤原道隆の娘 中宮 定子です。
後宮は、歌(和歌)や文学論が飛び交う華やかな場所でした。
知的好奇心に溢れた、貴族の若い子弟たちの人気の場所になりました。
定子は亡くなり、清少納言は去ったのですが、その後にできたのが、中宮 彰子の文学サロンで、そこに使えたのが 紫式部です。
つまり、彰子と紫式部のサロンは、定子たちの二番煎じのため、当然比較されます。
紫式部たちは悔しい思いをします。
そして、「清少納言には負けないぞ」と言う決意になり、決意がライバル意識となるのです。
紫式部と清少納言「光る君へ」の中で共演
紫式部・清少納言が漢詩の会にで同席は事実?
「光る君へ」の中で、紫式部は清少納言と、漢詩の会で同席しました。
どちらもの学問好きと見られる女性たちですが、本当に「漢詩の会」などで同席したのでしょうか?
どう記録を見ても、紫式部・清少納言の二人が実際に出会ったとは書かれていません。
ドラマの「出会い」は、これからの二人の活躍や対立の伏線としての演出だったと思います。
名前も、紫式部は「まひろ」、一方の清少納言の名前は「ききょう」。
紫式部の、本名と同じように、清少納言の名前も知られていません。
二人は直接顔を合わせたことはないのに後に「紫式部日記」に『実に得意顔をして偉そうな人』と表現があります。
原文で言うと
「清少納言こそ したり顔をして いみじうはべりける人」です。
どこかで顔を合わせたのではないでしょうか?と思わせる文章です。
「まひろ」と「ききょう」漢詩の会で・・・
「漢詩の会」は、演出上の創作ですが、その中にきちんと、白楽天(はくらくてん)といった実際の漢詩を入れています。
なお、白楽天は白居易(はっきょい)とも呼ばれています。
「漢詩の会」というのは自分で漢詩を創作するだけでなく、その場の雰囲気に合わせて、中国の詩人の詩のニュアンスを自分の漢詩に取り入れる、なんて技術も要求されました。
平安時代は、一般的に、男子は漢文を勉強し、女子はかな文字の勉強が嗜みでした。
「光る君へ」の漢詩の会では、藤原公任(ふじわらのきんとう)の漢詩を、まひろ こと紫式部は「白楽天のような詠いぶり」と感想を述べました。
それに対して ききょう こと 枕草子は、そうは思わない、と言ってから「むしろ白楽天の親友、元微子(げんびし)のようのな闊達さがあります」と述べました。
これを聞いた まひろ はちょっとムッとしたような、驚いたような表情をします。
ききょう はかなりハキハキと物をいう人です。
まさに、のちに まひろが「紫式部日記」で清少納言について書いた「清少納言は、得意顔をして偉そうにしている」という表現がここで生きています。
本当に、こういう会で、紫式部は清少納言に出会ったことがあるのではないか、と思わせる演出が上手いです。
ドラマのこの回を見る限り、清少納言に軍配が上がった、と見えましたが・・・
去っていく、ききょう をまひろは、面白くない顔をして見ていましたね。
どちらの勝ち?と思われましたか。
紫式部と清少納言 似てる点
同時代に生きた、紫式部と清少納言、似ているところがあるのでしょうか?
どちらも平安時代を代表する女流作家であるところが共通点です。
他にも生活環境が似ていました。
- 中の下あたりの貴族階級出身
- どちらの父親も知識人、で地方での生活の経験あり、娘たちも同行した
- 宮仕えを経験。
- どちらの作った歌も、百人一首に入っている。
どちらの父親も地方で役職を命じられ、何年か過ごしていました。
紫式部は20代後半の頃、清少納言は10代の頃でした。
そのあたりが少し事情が違いますね。
ですが、父の地方への転勤のため、ものを見る目が養われたり、勤勉な父の影響と、女流作家が育つ環境が整っていた、ということでしょう。
紫式部の清少納言、同じ時代の女流作家というと、どうしても似ている点を探したくなるものですが、二人の生活環境が似ていた、に過ぎませんでした。
言ってみれば、中流階級だから、当時の女性観のしきたりに縛られませんでした。
例えば、上流階級の女性は、殿方に顔を見せてはならない。(夫は別)
それは親や兄弟であっても、御簾を通して合わなければいけませんでした。
ですから、「光る君へ」の中で、中宮 藤原詮子が、父や兄と直接、衝立も置かないで面会しているのは本来ならあり得ないことですが、時代考証に従っていたら、ドラマが進まないので、仕方ありません。
紫式部と清少納言の、百人一首の歌
清少納言 「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」
大意は、「世が明けていない時に、鳥の鳴き真似をして、函谷関の番人は騙せても、逢坂の関の木戸は開きませんよ。私はそんなに簡単に騙されて戸を開けるような人ではありません」です。
函谷関は中国の番所で、そこの役人の取り締まりは厳しいということですが、日本の逢坂はもっと厳しい、というのです。これは「史記」に出てくる孟嘗君(もうしょうくん)のエピソードです。
函谷関は、今では「箱根八里」という歌に出てきます。「箱根の山は天下の険 函谷関もものならず・・」と。
ちょっとガードが硬い、清少納言なのかな、と思われる和歌です。
紫式部の方は「めぐり逢て 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」
大意は、「私が月を見たかどうか分からないうちに、また隠れてしまった。せっかく会えたあなただったけれども、月が早々に隠れるようにあなたとのお別れの時間が来てしまった」
ここに紫式部と清少納言の大きな特徴が顕れています。
紫式部の和歌は、情緒さが溢れています。
お相手は藤原道長でしょうか?
清少納言の方は、中国の「史記」を取り上げ、自分の知識をふんだんに利用しています。
恋の歌にしては、ちょっと堅苦しい気がします。
そこが清少納言の、知識をひけらかす人、と言われる理由です。
紫式部・清少納言の違い
紫式部と清少納言は、仕えている相手が違う、というのはもちろんのことですが、それ以外にも性格などで異なっている点を挙げることができます。
まず、感性の違いが挙げられます。
宮中というところは、一般の家とは違い、夜であっても警護する人や、時には女房目当てにこっそりやってくる公達がいたり(こちらはちょっと不謹慎)で、人の足音が絶えません。
清少納言は、これを面白いこと、と考えていましたが、紫式部の方は、うるさい、というふうに思っていました。
性格いついて書いたことは「枕草子」では、清少納言は自分のことを、貴族の男性たちと知的会話を楽しんだ、とあります。
一方、紫式部は、引っ込み思案な性格でした。人付き合いが苦手な方で、そのことを「紫式部日記」に書いています。
そんな性格だから、白黒はっきりさせた書き方をした「枕草子」の作者が好きになれなかったということです。
紫式部は、ひねくれやさんだったのでしょうか?
違う、といえば、二人がそれぞれ書いた本は、全く違うジャンルでした。。
紫式部は「源氏物語」という小説、清少納言が書いた「枕草子」は随筆です。
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