藤原家は、道長の「この世をば・・・」の歌で知られるほと、政治の頂点に達した一族ですが、
やがて衰退に向かいます。
原因は、天皇の外戚になれなかったことですが、全盛期、道長の時代からすでに、現れ始めていたのです。
道長からほぼ70年後に現れた、平氏もだんだんと藤原氏に似てきます。
ここでは藤原氏がだんだんと、衰退していった理由を調べてみました。
藤原の衰退の理由
なぜ藤原家は衰退したの?
藤原道長の時代に政治のトップとなった藤原家は、まさかの衰退をしていくようになりました。、天皇の外戚になれなくなったからです。
藤原頼通(藤原道長の息子)の娘たちが、親王(天皇の皇子)を産まなかったのです。
自分の娘の産んだ皇子が天皇にならなければ、藤原家の者は摂政になれない。
摂政は、天皇が幼少または病弱が理由で、自分で、政治の判断が取れない時に、変わって政務をとりおこなう役です。
必ずしも、天皇の親族であり家臣でもあるものである必要はないのですが、藤原氏が長年にわたり、自分の血筋の天皇の、摂政を務めてきたから、藤原氏がなる、という習慣化ができていました。
藤原頼道にあとをつなげていく皇子が生まれず、摂政のくらいにつくことができない。
結果、自分たち一族で作り上げた慣習が、かえって、藤原家から摂政の役割を奪うことになったのです。
自分たちで政治に意見を出す機会が減り、藤原家は、政治的立場をどんどん失っていくとこになります。
藤原家、荘園を失う?
藤原氏はこれまでのところ、財産である土地「荘園」にかかる税金を免除されていました。
ところが、藤原頼通の時代、後三条天皇は、この優遇措置をよくないと思い、改革を考えます。
荘園の審査を行い、その役人には藤原氏とは全く関係のない人物を選びました。
当然、藤原頼通は反対します。
後三条天皇の祖母は、藤原彰子・頼通の姉です。
ですが、後三条天皇は、頼通の反対を聞き入れません。
さらに自分は退位し、今度は藤原頼通とは血筋的に関係ない、白河天皇に譲ってしまうのです。
これが、藤原氏、それも道長の系統の衰退の始まりとなりました。
荘園から税金を取られるとなると、藤原家に入ってくる、財産がへるからです。
藤原家衰退の原因は、情勢不安も
藤原道長の亡くなったあたりから、世の中には、悪いことが起こり始めました。
反乱です。
1028年 房総半島での平忠常(たいらのただつね)の乱。
1051年〜1062年 東北地方の 前九年の役(ぜんくねんのえき)。
反乱は京都から離れていたことから、京都は戦争の影響を受けなかったのですが、戦争に慣れていない、朝廷は対策に手間取りました。
その責任は、藤原家にあるわけではないのですが、朝廷の高い役職についていた、藤原頼通は、これといった対策を考え出せず、平和ボケをさらしてしまいました。
京都の貴族たちも、遠く離れた場所の内乱に、危機感を持っていませんでしたから、藤原家がモタモタしていたからといって、大きな問題を感じませんでした。
自分の血を引く、親王がいない、かといって、新たな問題の対処に有能さを発揮したわけでもない。
となれば、衰退していくのは時間の問題だったのでしょう、と私は思うのです。
藤原家、全盛期から衰退の予感?
藤原家の全盛期は、藤原道長、頼通 親子の時代です。
藤原道長が、995年 内大臣になってから勢いがつき、1045年 後朱雀天皇(ごすざく)が病に倒れたあたりから、徐々に衰退していきます。
もう少し詳しくいうと、道長の父、藤原兼家の頃から少しつづ、上昇気流に乗りつつありました。
その時代を加えても、全盛期、50年と少しばかり、意外と短い時期でした。
藤原兼家は兄弟仲が悪く、それが兄弟での勢力争いに発展しました。
その結果は、藤原兼家 親子が朝廷で、力を持ちました。
また、息子になった、藤原道長も、運が良く、兄の、道隆、道兼が亡くなった後、甥の伊周(これちか)を押し退けて、内大臣についたわけです。
伊周は、謀反の罪で、太宰府に送られ、その後、許されて京都に帰ってきたものの、元のような地位につくことはできませんでした。
こうやって、親族とはいえ、政敵を追い払い、道長の一人舞台の立場を作ってしまいました。
「天皇の外戚になって、政治を左右する地位につく」図式を作り上げたまでは良かったのですが、一度歯車が狂うと、取り返しがつかなくなります。
もしも、藤原三兄弟が、協力して政治にあたっていれば
娘の入内も三兄弟で揃ってバックアップしていれば、
誰かが残り、藤原家(ここでは九条家)の繁栄ももっと続いたかもしれない、と私には思われるのですが。
でも人間というものは、自分と自分の直接の血筋が、直系が残ることを一番希望するのでしょうか?
藤原家糖尿病で衰退?
藤原道長が糖尿病で亡くなった、という現代ではそういう見方がされています。
でも、糖尿病は、藤原家衰退の理由ではありません。
では、藤原頼通やその子孫に、糖尿病は続いたでしょうか?
いいえ、続いて行っていません。
「小右記」では「のどが渇く、水を大量に飲む。痩せてくる。目が見えない、背中に腫れ物ができる」という書かれている症状から、
現代の医学で見ると、「糖尿病」ということができます。
原因としては、藤原道長は権力者で、贅沢な食事をしたから、ということが考えられるでしょう。
政治という激務、たくさんのごちそう、酒、この辺りに原因がありそうです。
多分、平安時代の大貴族の生活からすると運動不足も加わったのではないでしょうか?
またはっきりと研究結果が出てわけではありませんが、藤原道長のお兄さん、藤原道隆も糖尿病らしい症状が、現れています。
「小右記」では、とにかく水を大量に飲む、そして、酒が大変好きだった、ということが書かれています。
平安時代のお酒は、現代のような清酒ではなく、ドブロク、にごり酒のように、酒粕を取り除いていないものでした。
技術がまだ、発達していなかったのです。
酒粕、もろみを取り除いていないお酒は、甘みを含んでいました。
それが、糖尿病を引き起こす原因となったのでした。
でも、濾してあろうとなかろうと、お酒は飲みすぎてはいけないと思うのですが。
糖尿病の体質は、遺伝しやすい、と言います。
糖尿病が引き継がれるのではなく、なりやすい体質が似てきます。
ですが、藤原家の場合を見ていると、糖尿病の疑いがあるものは、藤原道隆、道長兄弟にしか見当たりません。
道長の息子、藤原頼通が糖尿病の症状で亡くなった、というエピソードはありません。
残念ながら家、幸いなことに、糖尿病は代々受けつがれていく病気にはなりませんでした。
藤原家の衰退、平氏が似ている?
藤原家と似たような衰退して行ったのが、道長より約100年後に活躍した、平清盛の平家です。
まず、藤原道長の息子たちの娘が天皇の元に妃として入内(じゅだい、妃として結婚すること)しても、親王が生まれないことで、藤原家の権力に限界が見え始めました。
これ幸い、というばかりに、天皇家は自分たちに、国を支配する力を取り戻そうとしました。
そのためには、文字通りの力、つまり武力が必要となりました。
藤原道長の時代は、それほど武力を必要とする、争いごとは多くはありませんでした。
それでも、内輪的争いはいくつかありました。清少納言の実家などがそうです。
思えば、その頃から、少しづつ、世の中の空気は武力で解決の方向に向かいつつあったのです。
天皇そして上皇が権力をかけて、争うようになり、武士が現れてきたのです。
藤原道長の時代は、争いごとは小さいので、せいぜい、検非違使(けびいし)と言われる役人たちが乗り出していけばオーケーでした。
武士が天皇家に使われるようになって、出てきたのが平清盛や源頼朝です。
平安時代末期に、現れてきた平清盛ですが、戦闘で勝てば、権力や金が集まってくるようになる。
結局、権力が欲しくなり、天皇の外戚になる、(娘の産んだ親王が安徳天皇)と藤原道長と同じような道を進んでしましました。
平清盛一族は、公家のような生活をし、源氏というもう一つの武士一族に滅ぼされてしまいました。
藤原一族と、平清盛一族、最初は目指したものが違ったはずなのですが、
最後は、天皇の祖父となり政治に手を出していってしまいました。
どちらも、次に続く皇子を持たなかったところも似ていますが、
藤原家の子孫たち
藤原頼道あたりで、藤原家の栄光の時代は、下り坂になりました。
頼通までは栄光を味わっていましたが、天皇家の血を引く孫がいない、ということで失望の時代に入りました。
しかし藤原頼通に子供がいないわけではありません。
そして、その子孫たちの境遇はそんなに悪いものではありません。
まず、藤原頼通のひ孫、忠実(ただざね)、(1078〜1162)。藤原頼通より70年以上経った頃の子孫です。
藤原忠実は、「栄花物語」(道長の時代)の続編の最後に15歳で登場します。
それによると、藤原摂関家が再びこれで栄える、といった内容の文章で締めくくられています。
しかし、実際は、バックアップとなる父が早くに死んだため、大きく出世できませんでした。
その後に生まれた息子たち、忠通(ただみち)、頼長(よりなが)に期待したのですが、二人はどちらが家(藤原家)の家長(家で一番偉い代表者)になるかで、争うのです。
藤原家は、家の長になる争いで弱体化しましたが、それでも家は存続を続けます。
藤原忠通の息子の家系が、やがてそれぞれ、家の名前を立てて、五摂家として現代までもその名前は続いています。
近衛家(このえ)、鷹司家(たかつかさ)、九条家(くじょう)、二条家(にじょう)、一条家(いちじょう)です。
近衛家については、聞いたことがあるでしょう。
かつてに、日本の首相、細川護煕(ほそかわもりひろ)さんのお母様が、近衛家出身です。
ですから、元首相(1993〜1994、在任)も藤原家子孫です。
つまり藤原家の子孫が、日本国の宰相に再びついた!と一大ニュースのようなお話ですね。
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