後一条天皇は、一条天皇の息子で、藤原道長の孫にあたる天皇です。
政治的に華々しいバックボーンを持つ天皇なのですが、その業績、どんな人物だったかは歴史は語っていません。
妻を一人しか持たなかった天皇は、平安時代ではまれです。
周りに流されたように見えて、実は家族を愛した天皇に見えます。
平安時代の中に生まれながら、多くを伝えられていない、天皇。
そんな 後一条天皇の生涯を紹介します。
後一条天皇の本名は?
本名は、敦成親王(あつひらしんのう)です。
この名前は、諱(いみな)と言って、普通は口にしてはいけない名前です。
平安時代の貴人については特に、人の名前をやたらに呼ばず、親しい人だけで呼ぶ名前でした。
もう一つ、本名を明かすときがあります、それは死んでからのことです。
死で使う名前だから、「忌む名」。それが「諱」となっているわけです。
それにしても、「敦成」その兄は「敦康」(あつやす)、「敦良」(あつなが)と一条天皇の親王たちは、「敦」の文字がよく使われますね。
この流れの親王ではなくても、三条天皇の皇子は「敦明」(あつあきら)という名前がついています。
何か流行でもあったのでしょうか?
後一条天皇の親は?
後一条天皇(敦成親王)の父は、一条天皇、母は藤原彰子(ふじわらしょうし)です。
彰子にとっては初めての子供です。
一方の、父である 一条天皇はすでに第一子に 敦康親王がいて、後一条天皇になる敦成親王は第二子です。
父 一条天皇にとっては、2番目の子とはいうものの、やはり心配はしていたことが想像されます。
なにしろ、平安時代では、お産というものは命懸けだったからです。
源氏物語などを読むと、お産の時はたくさん祈祷師、僧侶がついて、お産の無事を祈ります。
ときには、物怪が出る、呪詛をされるなど、ちょっと迷信的なこともありましたが、
「紫式部日記」などに、彰子のお産の様子では、物怪が憑座(よりまし、霊媒のような存在)に取り憑く様子が書かれていると、恐ろしく感じられるほどです。
後一条天皇と道長の関係
後一条天皇(敦成親王)にとって、藤原道長は祖父であり、摂政でした。
後一条天皇は、道長が待ち望んだ男子でした。
なぜ男子を望むかというと、その男子(親王)が将来の天皇だからです。
平安時代や奈良時代は、天皇の外戚になるのが、有力貴族の夢でした。
その親王が、天皇に就くのが若ければ若いほど、外戚の祖父は、天皇の代わりに政治を行うことができるからでした。
それが「摂政」という地位です。
道長の摂政という地位は、息子の藤原頼道に引き継がれました。
こうして、道長は、幼い天皇の摂政に、自分の一族をつけていくことで、藤原家の繁栄が永遠に続くよう、計画していったのです。
こうしてみると、後一条天皇は、道長一家の政治上での道具にされたように私には見えて、
気の毒と感じてしまうのです。
摂政になる人物が、優れた政治感覚を持ち合わせていた人なら、世の中はうまく治るでしょう。
これで世の中、メデタシと思いはするのですが、
その中で、名目上の支配者である天皇本人の、気持ちはどうなのでしょうか?
抑えられた苦しみはあるのでしょうか?
後一条天皇と道長の将来は?
しかし、後一条天皇は、男子に恵まれず、娘しか生まれなかったのですが、
その娘たちにも子供はできませんでした。
道長が自分の家のために考え他の家の娘を后に入内させなかったことが、裏目に出てしまったのですね。
後一条天皇の元に嫁に行った、自分の娘 威子 が中宮になったときが、道長の人生の頂点、だったのでしょう。
その時に、道長が読んだ和歌
「この世ををば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしとおもへば」
しかし、この日を頂点として、道長の望月はかけていくことになるのです。
皮肉なものですね。
とはいうものの、この歌の真意は、道長が満月を現在の自分の心境とした歌ではない、という調査もされつつあります。
この話については、こちらに書きましたたので、ご参照ください。
後一条天皇(敦成親王)と敦康親王の仲は?
後一条天皇と敦康親王の関係は、異母兄弟、ということです。
一条天皇の母は、藤原道長の娘 彰子、敦康親王の母は、彰子の従姉妹 定子。
敦康親王が幼いときに、母 定子は亡くなったので、その後は彰子が育ての親となったので、兄弟に近い間柄となりました。
母の従姉妹ということは、母親の父同士が兄弟、ということで、血縁関係にあります。
定子の方が、彰子より年上であるため、敦康親王が一条天皇の第一皇子です。
どちらの母親も身分が高い女性でしたので、敦康親王も敦成親王もどちらが天皇になってもおかしくないのです。
身分がほぼ同じ、というなら、先に生まれた敦康親王の方に天皇の位が行きそうですね。
しかも二人の父である一条天皇は、定子に非常に愛情を抱いていたので、敦康親王の方が天皇に近い、と見えるのですが。
定子 亡き後は、後ろ盾になる人物がいなかったため、結局天皇にはなれませんでした。
それに対して、敦成親王(のちの後一条天皇)の方は、道長の直接の孫のため、これからの出世を約束されたようなもの。
この二人の立場の違いで、二人は仲違いしたのでしょうか?それとも?
二人の様子については、対立する場面とか、仲良く遊ぶ場面、などを資料から見つけることはできません。
二人の対立、というより、二人のうちどちらが皇太子になるか、についての周囲の政争がうるさかったです。
しかし、生まれたばかりの赤子と、まだ幼い子供が自分のたちの知らないところで、政治的な争いに巻き込まれる、これは本当に不憫でならないこと、と思います。
後一条天皇の即位
後一条天皇(敦康親王)の即位は、1016年3月10日で、即位式は同年 3月18日です。
敦康親王はまだ8歳です。
後一条天皇の2代前の天皇 一条天皇が後一条天皇の父ですが、その父上も幼い頃に天皇の位につきました。
三条天皇の譲位(天皇の位を降りること)により、天皇となりました。
三条天皇は、冷泉天皇の親王で、花山天皇と兄弟です。
後一条天皇にとっては叔父にあたる方です。
この平安時代、今度即位する天皇の皇太子を立てるのは、位を降りる天皇が決めるというのが慣わしでした。
現代の、一生涯天皇で、天皇の息子が皇太子、天皇が死んで、皇太子が天皇になる、という決まりとだいぶ違いますね。
後一条天皇の即位の時、三条天皇は、敦明親王(あつあきら)親王を皇太子に立てるよう、言いつけます。
敦明親王は、三条天皇の第一皇子なのです。
後一条天皇、即位に至るまでのエピソード
後一条天皇は自分が退位するときに決める、次の東宮(皇太子)を敦康親王にしたい、と願っていました。
それでも、敦成親王が皇太子になるには、一つのエピソードがありました。
一条天皇は、藤原行成(ふじわらゆきなり)に、敦康親王を皇太子としての話を進めるように、と言いましたが、藤原行成は反対しました。
一条天皇は藤原行成を側近として、信頼していたからです。
でも、藤原行成はここで、一条天皇に、彰子が産んだ 敦成親王の方を天皇であるべき、と進言しました。
実は藤原行成は、道長からも非常な信頼を寄せられており、道長と一条天皇との間の橋渡し役を務めていました。
こうしてみると、藤原行成は、道長の御機嫌取りの人物と思うかもしれませんが、一条天皇にも信頼されていますので、道長一辺倒の人物ではないことがわかります。
藤原行成が書いた「権記」(ごんき)は、藤原行成の日記としてだけでなく、政治のこと、宮中のことなど、深い内容を書いた、史料です。
「権記」から読めることは、藤原行成が、敦成親王をおした理由は、天皇につく親王は、強い外戚を持っていることが大切、ということでした。
単に、家柄の良さ、帝からの愛情だけでは、どうにもならないことが出てくる恐れがある、と言っていました。
外戚、というのは、母方の祖父のことです。
支えてくれる外戚がいなければ、無理に天皇位についても、何かにつけて臣下からの賛同が得られない、事態も生まれます。
親王本人に、天皇になるべく運命が備わっていれば、いつか必ず、運命は巡ってくる、と言って、藤原行成は一条天皇を説得しました。
後一条天皇、何をした?
後一条天皇は、父の 一条天皇や その次の三条天皇と比べると、はっきりとした仕事ぶりが知られていない天皇です。
後一条天皇は、約20年間、天皇の位についていました。
その間、元号は5回変わりました。
元号とは現代の「昭和」とか「令和」と呼ぶ時代の名前のことです。
現代は、一人の天皇に元号は一つですが、一人一個と定まったのは明治からです。
それ以前は、何か悪いことがあれば、元号が悪いと言って、絶えず変えていました。
一年で変えてしまうこともありました。
それでも、後一条天皇の時代、それほど悪い時代であったということも伝えられていません。
こうしてみると、変動の時代ではなかった、ということが考えられます。
それは、後一条天皇が特に良かったから、ということを意味しているのではなく、摂政だった藤原道長の治め方がそつなかった、という意味になるような気がします。
これはまた、一人の天皇の治世としては、複雑な思いが湧いてきます。
後一条天皇の后
後一条天皇には、当然 后が(きさき)入内します。
が、一人しか入内しませんでした。
ただ一人の妃は、藤原威子(ふじわらいし、または たけこ)、藤原道長の娘、 しかも、母は 源倫子(みなもとのともこ)。
道長の娘、えっ? てなりませんか?
これって、藤原彰子の姉妹…ということは、後一条天皇と藤原威子の間柄は、甥と叔母。
現代の感覚ではおかしい、法律では認めていない。
でも、それを可能としてしまうのが、平安時代でした。
その理由は、血筋を正しく伝えたい、という意識があったからです。
藤原威子は1018年3月に、後一条天皇のもとに入内します。
このとき、藤原威子は20歳、一方の 後一条天皇は11歳、年上のお嫁さんですね。
さらに、この年の秋には、威子は中宮になる、というスピード出世でした。
ではなぜ、後一条天皇の后は一人だけだったのでしょう?
それは後の天皇となる親王の血筋を、藤原家だけにしたかったからです。
後一条天皇の后の思い
後一条天皇の后 威子については、「栄花物語」、「小右記」などに記述が出てきます。
威子は、最初は、年が下の甥 後一条天皇(敦成親王)が嫌だったのです。
敦成親王(後一条天皇)は威子から見ると子供っぽく見えて、背もひくかった。
威子は人から、どう見られるか心配していました。
威子には、もう一人妹がいて、そちらは、東宮(後一条天皇の弟)と結婚して、男子を産んでいました。
だから、威子は引け目を感じていたのでおすが、二人目の娘を産んだ頃には、後一条天皇は威子にとって心の支えになっていました。
もちろん、ここで、後一条天皇のもとに、他の女性が入内してくる可能性もあったから、威子は不安に思っていたことでしょう。
しかし、後一条天皇は、他に后を持ちませんでした。
その理由ははっきりとされていませんが、娘たちを溺愛していたために、もし、次に迎えた妃が男子を産んだら、威子が娘を連れて実家に帰ってしまうかも、
という不安に駆られた、という説も聞かれます。
この現象は、平安時代には、珍しいことだったのでしょうね。
後一条天皇の子供
年は離れていた、後一条天皇と 威子 でしたが、後一条天皇は 威子を大切にしていました。
威子が、中宮になったところで、藤原道長は「この世をば〜」という有名な和歌を読んで、藤原家の繁栄を願うのですが。
藤原家の繁栄、というのは、道長の血を引く親王が生まれること。
しかし、後一条天皇は 藤原威子の間には、内親王(女の子)二人しか生まれませんでした。
章子(しょうし、または あきこ)内親王と、馨子(けいし または かおるこ)内親王です。
内親王であるため、天皇位につくことはできなかったのです。
後一条天皇は、古代の女帝などのことを考え「昔は女性の天皇もいたのだから、女の子だからと言っって、残念に思ってはいけない」と言って、
娘たちを溺愛する様子が、「栄花物語」から伺うことができます。
どちらの姫も、結婚し、中宮とはなるものの、子供には恵まれず、結局、後一条天皇の子孫は残りませんでした。
後一条天皇の死因
後一条天皇は、1036年 4月 29歳で崩御します。
崩御とは、天皇の死亡を表現する、尊敬語です。
糖尿病と考えられています。
その根拠は、当時の歴史読み物「栄花物語」に出ています。
痩せてきて、大量に水を飲む、とあります。
そこから、現代の病理学者たちが推測するところでは、「糖尿病」とではないか、ということです。
糖尿病には、後一条天皇の祖父、藤原道長にもその症状は現れていました。
また道長の兄、藤原道隆にも糖尿で死んだのでは、という推測がされています。
糖尿病はその、体質が遺伝することもある、というのですが、それよりも食生活の方が原因として重要です。
道長にせよ、道隆にせよ、天皇もそうですが、飲酒の機会が多く、しかも裕福なため、ご馳走を食べることが多かったからです。
つまり、カロリー過多になっていた、ということもあります。
後一条天皇から後朱雀天皇への譲位
後一条天皇の死は突然のことで、次の天皇への譲位の儀式をきちんと執り行うことができないままだった、と「日本紀略」、「今鏡」に書かれています。
それはどういうことかというと、天皇は自分で位を降りて、上皇となって次の天皇へと位を譲り渡すのが、正式な手順でした。
ところが、後一条天皇は位を降りないで、崩御。
先例のないことなので、ここでは、帝(天皇)が亡くなったことを隠したままで、次の親王に天皇の位を授ける儀式をしました。
その天皇が、後朱雀天皇です。
後朱雀天皇は、後一条天皇の弟 敦良親王(あつながしんのう)です。
敦良親王が、新しい天皇になって初めて、後一条天皇を上皇として葬儀を行いました。
天皇の譲位 → 新天皇の誕生
という手順を隠して入れ替えた、ということです。
この例が、今後、譲位しないで天皇が亡くなった場合の、儀式のマニュアルとなりました。
どっちでもいいじゃない、と現代の私たちには思える手順ですが、穢れや忌を嫌う、平安人にとっては大切な手順だったのでしょうね。
もちろん、現代ではそのようなことは、もはや行われません。
まとめ
道長を祖父とした、天皇にしては地味な人生でした。
この天皇から出された、大きな政策は目につきませんので、そのためにむしろ一体どんな天皇だったろうか?と気になる天皇です。
そして、その性格なども、異母兄の 敦康親王ほど知られていません。
もしかしたら、後一条天皇の父 一条天皇の真意を知って、敦康親王の遠慮した人生だったのかもしれません。
そして権力よりも、家族の愛情を大事にした天皇、という気がしてなりません。
それはそれで、小さな幸せを見つけ出した、天皇、と考えられるのかもしれませんね。
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