田沼意次が、歴史上悪役と見られているのは、その政治のやり方からでした。
でも本当に悪い政治をいたのでしょうか?賄賂を取った政治が悪かったかわけで、政治そのものは悪くなかったのです。
では一体、どんな政治を行っていたのか?その目的は?
結果、どんなメリットとデメリットが出てきたのでしょう?
ここでは、田沼意次の政策を中心に見ていきます。
また、田沼意次と、蔦屋重三郎はどう繋がり、出るのでしょうか?
田沼意次の役職は?
1769年(明和6年)に老中に、10代将軍 徳川家治(いえはる)に任命されました。
その権力は1786年(天明6年)まで続きました。
老中をやりながら、徳川将軍の側近である、側用人(そばようにん)も務めました。
元は、田沼意次は将軍の側用人を務めていましたから、そのままの続きで務めを果たしていました。
生まれは、足軽の子だったので、大・大・大出世だったわけです。
老中というのは、国の政治に関われる、最高位の役職です。
同時に将軍の側用人までやっているのですから、将軍をどのようにも動かせる、立場にあった人物、ということです。
じゃあ、時折、時代劇で耳にする「大老」(たいろう)というのはどうなの?という疑問が出ますが、「大」とついている分、「大老」の方が偉そうですが?
「大老」というのは、日本の国に何か重大なことが起きた時に任命する、臨時の最高職なのです。
のちの世に出てくる、外国からの「開国要求」、「大政奉還」などという、国の一大事になるほどの大事件でもないと、任命されない役職です。
ですから、「明和」、「天明」の時代は、「老中」が一番偉い役でした。
田沼意次の政治、どのようなものだった?
田沼意次の政治を、一言で表現するには、スケールがとても大きいものですが、言うとすれば、大規模なプロジェクトが多かったということです。
下記に書きましたが、目的を果たすためのこと。
つまり、財政の立て直しに関する政治が、第一と田沼意次は考えていました。
そのためには、手段を選ばない、そんなところもありました。
といっても、当時の幕府の経済状態は極めて悪いもので、大きく制度を変えていかないと、どうにもならないところまで来ていました。
時代は1700年代 後半に差し掛かるところ、関ヶ原の戦いから150年ほど経った頃です。
江戸時代の封建制度、つまり、家柄・慣習・前例、などの制度が固まってきた頃です。
その制度を、田沼意次は「古い」と見て、「構造改革」を目指しました。
いつの時代でも、構造改革は必要ですが、周囲がどう受け入れるか、それが肝心なのだと思います。
構造改革が成功するか、失敗するか、それが田沼意次という人物を見る点だと思います。
田沼意次の政治の目的はなんだったのか?
どんどんと傾いてくる、徳川幕府の財政立て直しが田沼意次の政治の目的でした。
江戸幕府がどうやれば、お金を集められるか、その方法を考え出すことが政治だったわけです。
財政立て直しに、町人が大切だ、と田沼意次は感じていました。
これまでの幕府の方針は、農作物に税をかけていたのですが(これを年貢という)、農作物は、気候の変動によって変わるということに気がつきましt。
それなら、商品を動かす経済に目をつけ、商人がつくりだすものに税金をより多くかけることに、しました。
田沼意次は、娯楽を大切にすると、楽しみごとにお金が流れてきて、経済が賑やかになる、と考えていました。
田沼意次(たぬまおきつぐ)の才能を見抜いたのは、第9代将軍 徳川家重(とくがわいえしげ)です。
16歳の頃から、将軍 家重の元で、小姓として使えていた時からその実力が滲み出ていました。
特に活躍したのが、家重の次の将軍 家治(いえはる)の時代です。
この時代は、幕府は財政赤字が増え、町に目を向ければ、武士よりも町人の方がお金持ちで、力を持ち始めるようになってきました。
田沼意次は、町人のお金の存在を重要視した結果です。
お金を、町に流して、経済が潤うようにしよう、それが目的でした。
田沼意次の改革とは?
田沼意次が何よりも、力を入れた改革は、財政改革、そのためには幕政の改革です。
経済で大切なのは、貨幣、貨幣が滞りなく流れれば、国は発展する、田沼意次はそう考えました。
だから、商業によるお金稼ぎが必要、つまり重商政策です。
農業より商業を大切、としました。
株仲間の制度を作ったのも、改革の一つです。
株仲間については、こちらに説明を乗せておきましたので、ご参照ください。
そのほかに、開拓も行いました。
改革については、下に印旛沼改革について項目がありますので、下をお読みください。
田沼意次の改革のメリットはあったのか?
メリットは確かにありました。
商業に力を入れて、そこから税収を得る、貨幣鋳造も行う。
すると、貨幣経済が進み、歌舞伎、浮世絵のような娯楽が非常に活発になります。
市場は潤って、景気が上向きになり、幕府の財政も改善に向かい始めます。
株仲間、専売制は軌道に乗り始め、そこでまた潤ってきた資金で、新田開発を進めこれからの先行きが明るく見えてくるようになりました。
新田を作ることで、新たに収穫物が増え、そこからまた税金を集めることができるからです。
メリットはあった、と言ってもその後、田沼意次は失脚します。
これには飢饉が起きたことも関係していますが、田沼意次のやり方が武士たちに嫌われたことも関係あります。
それほど、田沼意次は、町人文化に力を入れていた、ということが考えられます。
田沼意次の失脚については、また、別なところでご紹介します。
田沼意次の政治、デメリットは?
田沼意次の政治政策としては、活気あるお金の流通をめざし、そのためには自由な経済を進めた、と言うことでした。
それによるデメリットが生じました。
それは、一攫千金を夢見た農民が、農業を捨てて、都会(江戸)を目指したため地方の農業が衰退しつつあった、と言うところでした。
江戸近郊では、農家の人がいなくなり、田や畑が荒れ放題となっていたのです。
また、江戸に出た人は、江戸の戸籍にあたる人別帳(にんべつちょう)に登録しないままでいました。
人別帳に名前が載っていないのだから、住所不定の人が増えてしまいました。
住所不定では、仕事など新たな収入源が決まらないと、浮浪者のような生活になってしまうことが予想できます。
田沼意次は、自由経済を進めたため、お金中心の世の中になってきて、貧富の格差が出てきたしまいました。
持てるものは、より一層の富を欲しがり、自分だけが有利になろうと思うあまり、賄賂を使うようになります。
貧富の格差は、庶民の不満にもつながります。
田沼意次の印旛沼改革とは?
印旛沼改革とは印旛沼の干拓と言うことです。
何ためにに干拓するか言えば、新田の開発です。
田沼意次は、新しい田を求めていました。
その理由は、農業の担い手が少なくなり、田を増やせば税収が増えるだろう、という考えに至ったからです。
農業よりも都会での商業中心の、職業を進めた田沼意次の考え方としては、矛盾していると思えるのですが。
印旛沼のある場所は、千葉県ですが、千葉県とその付近は、河川や沼地の多い地方です。
そのため、湖沼、河川の氾濫に苦しめられる地域でもあります。
水が多い地域を利用して、田を作る、川を利用して、水路(運河)を作ることを地元民は希望しており、江戸幕府も開拓の考えがありました。
過去にも徳川幕府は、印旛沼の干拓を始めていたのですが、挫折しており、田沼意次が初めて取り掛かった、というわけではありません。
田沼意次がせっかく取り掛かった、開拓も田沼意次の失脚によって、またもや中断してしまった、ということで、印旛沼周辺に住む人たちにとっては、がっかりしたことと思います。
現代の公共事業中断に近い、落胆感があります。
田沼意次の蝦夷地の調査目的は?
田沼意次は蝦夷地を開発することを考えていました。
なぜかというと、商業の動きがこれからの日本経済を左右することに気がついた、田沼意次は、蝦夷地(北海道)から来る海産物、に目をつけました。
蝦夷地の実態をもっとよく知ろうと思い、調査隊を派遣しました。
調査にかかったところ、1785〜6年にロシア帝国の存在と、その国の勢力が南下している、ということがわかったのです。
その詳細は、仙台藩の医師 工藤平助(くどうへいすけ)が「赤蝦夷風説考」(あかえぞふうせつこう)という著書に書かれています。
この著書には、工藤平助は、蝦夷地で金銀鉱山を開発し、ロシアとの交易し、利益を得て、ロシアの南下を防ぐ、という案が書かれていました。
田沼意次はその案を受け入れ、蝦夷地探検隊を実際に派遣しました。
探検隊は、ロシアとの交易はどのようなものか、当時の蝦夷地が所領だった松前藩がどのような仕事をしていたかの実態も、田沼意次に報告されています。
蝦夷地の調査から得た情報をもとに、アイヌとの交易を試験的に初めて見たものの、すぐ中止となりました。
田沼意次が1786年8月に失脚したからです。
田沼意次がここで失脚せずに、その政治が続いていたとすれば、蝦夷地を通して日本の目は、海外に向くことになったかもしれない、可能性が感じられました。
反対に、アイヌの反乱がもっと広がっていたかもしれない、可能性も感じられます。
そうであったら、日本は今とは形の違うものだったかもしれない、と自分は思うのです。
田沼意次の調査から、ロシアの脅威が幕府に認識されるようになった、というところに田沼意次の調査の意味はあった、とされています。
田沼意次はイケメンだった?
田沼意次は残されている肖像画から、イケメンだった、ということが見て取れます。
容貌が整っている、と言われても、現代の私たちと感覚が違うので、私にはいいとも、悪いともいうことができませんが、
田沼意次が一緒に持ち合わせた知性、教養、これらが一つとなって、田沼意次をイケメンに見せていました。
実際、足軽の子に生まれて、600万石の旗本となり、そこから50000石を超える大名に、老中にと次々出世していくのですから、周囲の注目を集めたことでしょう。
その出世の理由がイケメンだから、ということが当時は噂されていました。
イケメンぶりは、将軍様の奥方、側室の居住場所、大奥でも評判でした。
それはイケメンであるばかりでなく、田沼意次の気配りにも、人気が集まっていったからでした。
田沼意次の大奥でも気配りぶりは、こちらをご覧ください。
大奥のお年寄り(侍女頭のようなもの)につけ届けをしたのですが、それは、将軍のためでした。
田沼意次が使えた、最初の将軍は徳川家重(いえしげ)ですが、家重は身体が弱く、それに、知能的な障害があると言われ、幼少期より、大奥にこもりがちでした。
このまま引っ込み思案なままでは、徳川家の存続に関わってくるので、家重を盛り立ててもらうために、大奥に頼った、というわけです。
田沼意次の、こうした行動が後に大奥との癒着と見られて、ドラマで悪役と言われてしまう理由なのですね。
田沼意次、蔦屋重三郎とどんな絡みが?
田沼意次は、経済の発展のために、芸能文化を進めていきました。
当時の芸能と言えば、蔦屋重三郎なのですが、では田沼意次と蔦屋重三郎は、実際付き合いがあったのでしょうか?
実際の歴史では、田沼意次が直接、蔦屋重三郎に出会い、一緒に文化を作り上げた、なんていう絡みのある話はありません。
しかし間接的には関わり合いが、あることが考えられます。
田沼意次には、商業の発展 → 町人や、商人が金持ちになる → 歌舞伎を見る、浮世絵や本を買って娯楽を楽しむ、という構図ができていました。
蔦屋重三郎は、その政策に乗った、というわけです。
田沼政権の元では、流行れば、その内容には特にプロトコルは決められていませんでした。
蔦屋重三郎が関わって、作られた娯楽、本、浮世絵は大人気でした。
人気が出れば出るほど、蔦屋重三郎は人気で、それにまつわる税収も幕府に転がり込んでくる、という図式が出来上がっていました。
今度は田沼意次が失脚すると、蔦屋重三郎たちは、たちまち、風紀を乱す、などと理由づけられて、処罰されることになってしまいました。
田沼意次役は渡辺謙で、悪役ではない!
「べらぼう」で注目の田沼意次は国際的な俳優、渡辺謙さんがキャスティングされます。
渡辺謙さんだと、田沼意次が持つあらゆる可能性を表現することができるような気がします。
イケメンなところはもちろんのこと、新しい政策を取り入れようとするところも注目したいところです。
きっと、型破りで太っばらの人物でしょう。
渡辺謙さんご自身、これまでにない、田沼意次像を考えておられるようです。
渡辺謙さんが、NHKのインタビューで、
「『お主もワルよのう〜』というイメージがついていた、田沼意次のイメージを払拭したい」とおっしゃっていられました。
さらに
「歴史ってどんどん塗り替えられていくので、彼がやった功績よりも、彼がやった悪いことを後の人たちがどんどん塗り替えていったところがある。彼は“いかに貨幣経済に早く国を移すべきか”、要は“経済主義的な国にするべきだ”という発想を持っていた」
とも、言っておられました。
陰謀に巻き込まれた、田沼意次という流れになるような気がしまいす。
単なる「賄賂政治家」ではない、でしょうね。
まとめ
田沼意次の、政治、政策を見てみると、革新的で、効果あるものと思われます。
それでも、現在では悪く言われてしまうのは、その政策が、当時の人にはよくわからなかったから、なのだ、という気がします。
人は誰でも、自分が受けた傷の方が、良いことよりも強く感じるものです。
江戸時代も、成功しなかった者、格差社会に苦しめられるようになった人の、恨みの声の方が強く響いたのではないでしょうか。
また、田沼意次の経済政策はこの時代では、人々を折り合うには、時期尚早だったような気がします。
なぜ、田沼意次が、悪人扱いされているのか、その理由もいずれ追求してみるつもりです。
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