マリー・アントワネットの結婚式がついに行われます。
国と国との結びつきのための結婚ですが、国力を見せつけるため、豪華な式と祝宴です。
当時の結婚式のドレスや結婚指輪はどんなものだったのか、興味がありますね。
結婚式に至るまでの道中、結婚式の最中まで、のちのマリー・アントワネットの運命を匂わせるハプニングが起きてしまったのには驚きです。
国と国との結びつきとなる、結婚は、二つの国が離れているとなかなか、困難なものがあります。
ここでは、結婚式のドレスのハプニングを中心に、結婚式に先駆けた花嫁受け渡し、結婚式の様子を中心にお伝えしようと思います。
- マリー・アントンワネットの結婚式ドレスはどのような?
- マリー・アントワネットの結婚はいつ?
- マリー・アントワネットの結婚式
- マリー・アントワネットの結婚の理由は?
- マリー・アントワネットの結婚指輪
- ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚
- マリー・アントワネット結婚のまとめ
マリー・アントンワネットの結婚式ドレスはどのような?
14歳のマリー・アントワネットの結婚式ドレス姿…どんなに可憐でしょうねえ。
と思っても、ドレスを明確にした記録は、ありません。
何人かの作家、研究者が書いていますが、それぞれ違う内容が書かれており、どれが確かなのか不明です。
その例をご紹介しましょう。
マリー・アントワネットの伝記物語で有名な、シュテファン・ツヴァイクはドレスについては書かれていませんでした。
「マリー・アントワネットの衣裳部屋」より
服飾文化に詳しい人文科学の教授、内村里奈さんの著書「マリーアントワネットの衣裳部屋」では、『はっきりとはわかっていない』と書かれていました。
それには結婚式での衣裳はわからないが、その前に行われた、代理結婚式のドレスはわかっていることが書かれていました。
代理結婚式は銀色の糸で織られた生地のドレスで、裾が長く引くように作られていました。
その裾のことを裳裾(もすそ)というのですが、裳裾をおつきの女性が持っていた、ここまではわかっています。
代理結婚式と、本当の結婚式の衣裳がが同じとは、書かれていません。
王家の姫君だから、そんな同じドレスを使い回しするようなマネはしない、と私は思うのですが。
『異国に嫁した姫君たち』のマリー・アントワネット
著者は、マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌ。
この本には、
「バラ色(ドレスの色)に金・銀をあしらい縁にはダイヤモンドがずらりと縫い付けられた花嫁衣裳」
とあります。
ここで、登場するダイヤモンドは、18世紀の衣装のきらびやかさを表現していますね。
マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌはイギリス公爵夫人で、夫のマイケル・ケント公爵はエリザベス2世の従兄弟です。
この女性は、結婚後に、王家の物語に興味を持ち始め、ヨーロッパ各国の王家に関する執筆を始めました。
この作家が、マリー・アントワネットの結婚衣装の情報をどこから得たかは分かりませんが、貴族としての地位を利用して、19世紀の状況を調べての内容だと思われます。
マリー・アントワネットの結婚衣裳にダイヤ、の記述
結婚ようドレスにダイヤモンドを使った、と記述した文章がもう一つあります。
歴史関連を得意とするジャーナリスト アンドレ・カストロ の著書「マリー・アントワネット」です。
『ばら色とブロンドと銀の交響曲の中でダイヤモンドが燦然(さんぜん)と光りを放つ』とあります。
ここでは「ばら色」と「ダイヤモンド」のキーワードが、マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌと同じです。
アンドレ・カストロも20世紀の人物ですので、ひょっとしたら、マイケル・ケント公妃と同じ資料を見つけたのでは、と考えられます。
「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」の場合
この本の著者は、歴史学者 石井美樹子さんです。
「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」のなかでは、マリー・アントワネットの結婚ドレスのサイズが小さかった、ということを書いていました。
下記の方に書きましたが、マリー・アントワネットはオーストリアの衣裳を持ち出すことができなかったのだから、フランスで用意したものみたいです。
オーストリアから年寄せたデータを元に、衣裳を作成したのでしょうが、14歳という年齢を考えると、マリー・アントワネットのサイズの変化が一気にきた、そんな感じでしょうか?
ドレスは、白とピンクの絹地に銀で模様を織り出したものでした。
その衣装は丈が短く、二の腕が袖に収まらず引っ張ると、後ろが止められなくなって下着が出てしまう有様でした。
その様子は、結婚式に参列していた、イギリスから来たノーサンバーランド公爵夫人、エリザベス・シーモア・パーシーが回顧録に書いてました。
『花嫁はダイヤモンドがよく似合っていた。小柄でほっそりして12歳ほどにしか見えない。
衣裳のコルセットが小さすぎ後ろの下着が見えて、ダイヤモンドがついた縁飾りが台無しになっている。
とにかく宝石をたくさんつけていた。』
ダイヤがたくさんついていた、というのは衣裳のホック(当時はピンで止めていた)が止められないのを隠すために、
ダイヤモンドがついたレースで、なんとか隠そうとしたようですが、隠れていなかったのですね。
ダイヤモンドはもちろん、レースだって、この時代高価な服飾品でしたが、それを使ってもドレスが映えて見えない、というのはかわいそうです。
マリー・アントワネットが、ばら色で銀の刺繍をした衣裳、それにダイヤモンドがついていた、というのは本当のようですね。
それにしても、記念すべき結婚式なのに、衣裳が合わない、とは…とんだ結婚式でしたね。
マリー・アントワネット、結婚式の版画
マリー・アントワネットの結婚式の版画が何点か残されています。
それによると、マリー・アントワネットなはピンク色のドレスを着て、緑色のショールを使っているところが見えます。
違う版画では、マリー・アントワネットが持っているショールの色がピンクになっているものもあります。
この絵からは、ドレスが小さかった、かは見えません。
しかし、ばら色 イコール ピンク色というところで、ドレスの色は「あたり」と言えますね。
私たちのイメージでは、結婚式のドレスは白なのですが、歴史的に見て、結婚衣裳で誰もた白を着るようになったのは最近のことです。
ですから、18世紀のマリー・アントワネットがピンク系の結婚衣裳を着ているのは、普通のことだったのでした。
マリー・アントンワネットの結婚衣装、ブルーの説も?
服飾歴史家たちは、18世紀のフランスの結婚衣裳は、フルーが主流だった、という説を挙げます。
ブルーの説を挙げたのは、映画監督のフランシス・コッポラです。
フランシス・コッポラが2006年に撮影した映画「マリー・アントワネット」の中で、アントワネット役のキルスティン・ダンストは、薄いブルーの結婚衣裳を着て、フランスに嫁いできました。
なぜブルーだったか、と言うと主流の説は、ヨーロッパでは青は神聖な色とされていたからです。
聖母マリアのマントが色が青だった、と言われているところから来ています。
現代でも、ウェディングドレスを着るときには、何か一つ青いものを身につける(サムシングブルー、と言ってす)習慣がありますね。
ブルーを使う、聖母マリアの色を使う、ということは結婚は、厳粛な儀式だからなのしょう。
マリー・アントワネットの結婚はいつ?
マリー・アントワネットの結婚式は、1770年5月16日に行われました。
結婚式は、厳粛なものではありましたが、ハプニングも色々ありました。
結婚式の前に、は代理結婚式、というものも行わなければならないのが、当時の王国間の常です。
代理結婚式の様子は、下記に述べてあります。
そして、その後に、相手国に行っての結婚式となるのです。
マリー・アントワネットの結婚式
マリー・アントワネットとルイ16世の代理結婚式
マリー・アントワネットとルイ16世は、1770年4月19日に代理結婚式というものを挙げます。
場所は、オーストリア ウィーン 聖アウグスティン教会。
花嫁はマリー・アントワネットであるのは当然ですが、花婿の代理が必要です。
代理はマリーアントワネットの兄、次兄フェルナンドが務めました。
そもそも代理結婚式って何?ですが、
代理結婚は中世の頃からあった結婚に対して取り決めの一つで、特に王家同士の結婚では、よく行われていた形です。
結婚式は古今東西、結婚する当人たちと、その両方の家族・親族が出席して行いますが、国同士の場合だと、その全てが集まることは、不可能です。
国王が国を留守にして、結婚式で出かけるわけにはいきませんが、
国同士の大切なつながりを築き、国内外にも広く知らせる必要がある儀式なのだから、結婚式をしない、という選択肢もありません。
マリー・アントワネットがオーストリアで行った聖アウグスティン教会は残っており、
教会のパイプオルガンは1730年製作、というのだから、今日の私たちは、教会に行けば当時と同じオルガンの音色を楽しめます。
マリー・アントワネット結婚式に向かう行列は立派だった?
マリー・アントワネットは、本当の結婚式のため、フランスに向けていよいよ旅立ちです。
1国の王女が、他国に嫁に行くのですから、その行列は大層、立派なものになりました。
オーストリアの大国としての国力を見せつけなければならないからです。
起点はウィーン、終着地はヴェルサイユ。その距離 1260km。日本で言うと、東京→旭川くらいに距離です。(海は海底トンネルの長さで計算)
マリー・アントワネット一行は、25日の旅程でした。かなりゆっくりに見えます。
でも長時間、馬車に乗り続けるのだから、身体がしんどいですよね。だからゆっくり進まないと身体がもたない!
護衛を含めた随行員に、どんな人たちがいるかといえば、家臣、侍女、小間使、美容師、秘書、司祭、医師、料理人たちです。
275名、と言う記録がウィーンの王家にありますが、275人中200人がフランスから来た、メンバーでした。
なお、馬車は57台、馬は376頭、馬車の旅では、1日のうちに馬は4、5回取り替えないといけませんから、
泊まるところを決めて、あらかじめ、馬もそこに用意しており、合計2万頭以上の馬が準備されました。
馬車のうち豪華な2台は、ルイ15世から贈られたもので、それがマリー・アントワネットの専用車両となりました。
一台の内装はブルーのビロード張り、もう一台は真紅のビロード張りになっていました。
なぜ2台あるかといえば、一台の馬車が調子が悪くなった時の、代わりの馬車にするためです。
出発は4月21日、朝9時半。朝の礼拝はウィーンで済ませ出発です。
出発に際して、マリー・アントワネットはどんな気持ちだったでしょうか?
マリー・アントワネットは家族とここで別れます。永遠の別れになる、と覚悟を決めていたのでしょうね。
母 マリア・テレジアは娘に、別れの印として金時計を送りました。
この贈り物の金時計はマリー・アントワネットを生涯支え続けます。処刑される朝まで持ち続けていた、と言うことです。
マリー・アントワネット、結婚式のための引き渡し場所は?
マリー・アントワネットの行程は、ウエディングロードなどと呼ばれています。
引き渡し場所は、ライン川の真ん中、中洲のベックリングアウ島です。(違う本ではエビ島と書かれているものもあります)
引き渡しの仮御所
島はマリー・アントワネットにとって、ドイツ最後の地ケール、そしてフランス領ストラスブールの間にあります。
国境地帯ということですね。
ライン川では川の氾濫が度々起こったので、ケールの街を流れるライン川は18世紀と流れが変わってしまい、マリーアントワネットの引き渡しがあった島は分からなくなっています。
引き渡しの島には、新たに5部屋からなる小さな仮御所が建てられており、
2部屋づつ、フランス側とオーストリア側に分かれて、中央に中立の部屋がありました。
引き渡し場所で着替えさせられたマリー・アントワネット
オーストリア側の部屋で、マリー・アントワネットは、故国から着てきたもの、ドレスはもちろんのこと、装飾品と下着まで脱いで置いていかなければならなかったのです。
そして、フランスから持ち込まれたものに、着替えさせられました。
着替えるために、マリー・アントワネットは丸裸にされた、ということがフランスから、マリー・アントワネットの世話係として連れてこられた、カンパン夫人が「回顧録」の中で書いています。
「回顧録」では、さらに、オーストリアからのものは、絶対にフランスに持って入ってはいけない、とありました。
ただし、マリー・アントワネットが母 マリア・テレジアからもらった金時計だけはかろうじて、持っていくことを許されました。
マリー・アントワネットの丸裸の話は、「回顧録」があるというものの、「そうでなかった」という話も出ています。
フランス文学者 窪田般彌(くぼたはんや)が、作家 カストロの著書からの文を引用して、
「着替えるという古い習慣はすでに行われていなくて、一国の皇女が『裸にされる』風習はあり得ない」と書いてありました。
一方では着替えた、もう一方はそうでなかったという、では真相は?
私は、本当のところ、着替えはしたものの、人目に晒しての着替えではなかったと思います。
では、ノワイユ夫人はなんで、あんな「回顧録」を書いたかというと、慣習の記録として残したかったからではないか、と思われます。
ノワイユ夫人は、フランスのここでの大使役をしたノワイユ伯爵の夫人で、のちの、マリー・アントワネットの女官長です。
女官長という役職から、過去の慣習を将来に伝えていく役割もある、と思ったから、「着替え」の習慣を書いたのだと、私は思うのです。
マリー・アントワネット、フランス人となって
着替えが終わった、マリー・アントワネットはついにフランス側の手にわたり、ここからフランス人としての生活が始まります。
マリー・アントワネットがフランス側に進んだ途端、ここで、オーストリア側の随身、侍女たちはシベて、背中を向けてオーストリアに帰っていきます。
これをみたマリー・アントワネットは一気に、寂しさと心細さが込み上げてきたのでしょう。
フランスの女官長、ノアイユ伯爵夫人が、うやうやしくマリー・アントワネットの挨拶したのですが、
マリー・アントワネットは、心細さのあまりノアイユ夫人の胸に飛び込んで、泣きじゃくってしいました。
ここは本当は、威厳を持って挨拶を返さなければならない場面です。
ですが、14歳の少女には心細さに耐えられなかったようでした。
フランスのエチケットでは、人前で、悲しさのあまり泣くことは許されず、ノアイユ夫人はこのようなマリー・アントワネットの行為を良いものとは思わず、
たしなめるように、相手をしっかり立たせました。
しかし、その後は気を取り直して、しゃんとして、他の家臣、女官たちに挨拶をした、というのですから、さすが、生まれながらの姫君の根性は見上げたものです。
引き渡し仮御所のタペストリーには…
ここにもまた、不吉の前兆があったのは、タペストリーの絵柄でした。
引き渡し仮御所の中央の間にあったタペストリーで、近隣の貴族から借りたものです。
結婚の契約書にサインするテーブルの後ろにかけてありました。
それはギリシャ神話の絵柄、「王女メディア」、下絵は、ルネサンス期の画家ラファエルです。
ギリシャ悲劇で、王女メディアが、不実な夫への復讐として、夫の新しい妻と自分の息子を殺してしまう物語です。
タペストリーは2対になっており、片方には、新しい妻がメディアに毒殺されて苦しむ場面が、
もう一方には、息子が殺され神に捧げられるのをみて、呆然とするイアソンの姿が織り出されていました。
結婚の裏切り、復讐、殺人、と結婚には全く相応しくない絵柄でした。
このタペストリーを実際に見た人物が、ドイツの文豪、ゲーテです。
ゲーテはこの頃、ストラスブールに留学しており、花嫁の引き渡しに使われる仮御所ができた時、特別にチップを払って見せてもらっていました。
自分の手記に、この時の様子を「この図柄は結婚に相応しくない、禍々しい」と書いてあります。
マリー・アントワネットは実際にこのタペストリーに気がついたのか?は、マリーアントワネットの物語を書いた作家によって違います。
この時のマリー・アントワネットは、着替えをしたり、結婚に関係する書類にサインしたり、と忙しく、
タペストリーを、じっくり鑑賞するヒマはなかったのでは?と思います。
マリー・アントワネットの結婚式、どのようにおこなわれたの?
マリー・アントワネットもルイ王太子(ルイ16世)もカトリックを信ずる国に生まれているので、カトリックの儀式に則って、行われました。
結婚式を執り行う司祭はランス大聖堂の司教でした。
ランス大聖堂は、歴代のフランス国王の戴冠式をおこなう需要な場所で、そこの司教といえば、フランスではでかなりくらいが高い、聖職者です。
ルイ王太子、マリー・アントワネットは次期 国王と王妃ですので、権威ある聖職者の手で行われるのが相応しいです。
朝から快晴でした。結婚式にはもってこいですね。
参列する貴族たちは、皆着飾って、やってきますが、身分により、礼拝堂まで入れる人と、そうでない人の区別はありました。
結婚式が始まったのは午後1時から、式部官に先導され、新郎新婦が礼拝堂に入ってきます。
礼拝堂で、スイス兵が太鼓を連打すると、ルイ15世が入場し、ルイ15世、ルイ王太子、マリー・アントワネットと、祭壇前の位置につきます。
13枚の金貨と指輪に祝福を与えた後、王太子ルイが、妻となるマリー・アントワネットの指にはめることになっています。
花婿が花嫁に指輪をはめる結婚式のクライマックスシーンは、花婿の方が、消極的だったと、
イギリスのノーサンバーランド侯爵夫人は自分の手記に書いています。(先程の、マリー・アントワネットの衣装の感想を述べていた人)
指輪は交換ではありません。夫が妻に一方的に渡します。
指輪の儀式が終わると、聖堂のパイプオルガンが鳴り響き、二人の頭上に銀色の天蓋が掲げられました。
なかなかに、神々しい結婚式だと思います。
マリー・アントワネットの結婚式での不吉な出来事
マリー・アントワネットの結婚式では、将来に不吉を感じさせたエピソードがいくつかあります。
一つは、マリー・アントワネットの結婚契約書、残りは結婚式後のことです。
マリー・アントワネットが落とした結婚契約書のインクしみ
結婚式は、いよいよ最後の仕上げ、結婚契約書への署名となりますが、その時事件は起きました。
契約書は現代日本の、婚姻届みたいなものです。
マリー・アントワネットは自分の名前を、羽ペンで羊皮紙に書き入れるのですが、
その時、ペンが羊皮紙に引っかかり、黒いインクが必要以上に、紙に染み込んでしまいました。
署名は『マリー=アントワネット=ジョセフ=ジャンヌ』とフランス語で書きます。
この日からオーストリア人からフランス人になるので、フランス語を使うのが必須です。
フランス語はマリー・アントワネットには、書きにくい書体だったらしく、ペンが引っかかり、速やかに次の文字に進めなかったのでしょう。
引っかかった文字は、「ジョセフ」のところで、さらに次に来る「ジャンヌ」の最後の文字「e」もうまく書くことができませんでした。
その署名は現在に残って、展覧会のある時には展示されることが多いですので、目にする機会もあるでしょう。
当時の記録では、インクが黒々と落ちた様子を見た、結婚式の参列者たちはこの様子を『不吉な』と口にした、とありました。
マリー・アントワネットの、ギロチンでの最期を知っている私たちにとっては、予言のような気がしてゾッとします。
マリー・アントワネットの結婚式後の悪天候
結婚式が終わると、一般庶民もヴェルサイユ宮殿への入場が、庭までですが、許されました。
この後、花火大会も予定されており、王宮の庭は賑わいを見せていました。
が、午後に空が曇り、雷、稲妻が鳴り響く豪雨となってしまいました。
せっかく楽しみにしてきた、人々は皆逃げるように帰っていきました。
マリー・アントワネットのお祝い花火の惨劇
悲劇はそれだけではありません。
結婚式から二週間後にお祝いの花火が、パリ市内で行われたのですが、その花火が暴発して火事が起こり、132名の市民が死亡する大事故になっていまいました。
花火の場所は、当時はルイ15世広場、と言われていたのですが、革命以降ここはコンコルド広場と呼ばれます。
そう、革命時にはここにギロチンが設置されました。
全く、不吉な事件が続いたマリー・アントワネットの結婚でした。
何か、見えない力で運命の歯車が回されていたのでは?と疑いたくなります。
マリー・アントワネットの結婚式後の祝宴
聖堂での結婚式が終わると、今度は晩餐会です。これは今日の結婚披露宴に当たりますね。
場所は「大膳の間」(または、大膳式の間)と呼ばれているところで、改装が終わったばかりの大広間です。
「大膳」とつくのだから、大勢での食事に特化した部屋でですね。
ルイ16世は大食漢?
座席は、どんな様子だったかというと、中心に王族が座り、王族の周りを貴族が囲み、その周りを招待客が座って、ものすごい人の数で、混雑していました。
食事は豪華なものでしたが、マリー・アントワネットはあまり食べることができず、ただ微笑んでいるだけでした。
それも当然です、ただでさえ花嫁は緊張するのに、それも知らない人ばかりの大勢の人の前に置かれたら、食事も進まないでしょう。
マリー・アントワネットと対照的たっだのは、新郎 ルイ王太子(ルイ16世)。
ご馳走を出されるまま、食べ続けていました。
ルイ16世の、大食いは、将来ずっと続きます。革命が起きて、逃亡の最中でもとにかく食事第一な人でした。
マリー・アントワネットへの贈り物
晩餐会の最中の、レセプションの一環として、新婦 マリー・アントワネットに贈り物として、高さ1メートル、幅1.8メートルもある宝石箱が渡されます。
この宝石箱は、フランスの皇太子妃に代々渡されてきた宝物です。
箱の鍵は黄金で、渡された、マリー・アントワネットが開けたところ、中は青色の絹で裏打ちされた引き出しがあり、
山のようにたくさんの豪華な、首飾り、イヤリング、ブレスレット、宝石で装飾された匂い袋、ダイヤのボタンなど宝飾品であふれていました。
そのほかに、昔の王妃 アンヌ・ドートリッシュ(ルイ14世の母)の持ち物だった、大粒の真珠2連のネックレス、3連のブレスレットのセットが入っていました。
マリー・アントワネット・ルイ王太子 最初の夜
結婚式が終われば、結婚して最初の夜、つまり初夜を迎えなければなりません。
これは愛してるとかそうでない、と言う問題でなく、オーストリアとフランスの両方の国の友好関係のために、きちんと夫婦にならなければならない、と言うことが大切なのです。
これが契約であり、契約がきちんと結ばれるために、立ち合いのものに確認しなければならない、事項です。
そのため、新郎新婦は大勢の立会人野本で、衣服を寝巻きに着替え、寝所に入る手順を踏みます。
新郎新婦、それも特に新婦にとっては屈辱的な瞬間ですが、王女と生まれたからには通らなければならない道でした。
先ほどの結婚式を取り仕切った、ランスの司教が、二人のベッドに聖水をかけて祝福した後、ベッドにカーテンをおろし、結婚の儀式は全て終了しました。
ここで、国王ルイ15世や他の親族も、寝室から去ります。
しかし、この結婚は、この点では完全な成立とはいきませんでした。
この夜は、肉体的に夫婦となることができなかったのです。
王太子もマリー・アントワネットもまだ幼かったことが、理由ですが、この結びつきはしばらくありませんでした。
これが、マリー・アントワネットのこれからの行動を左右させる原因となりました、が、
この話は、また次の機会に。
マリー・アントワネットの結婚の理由は?
なんといっても、オーストリアとフランスの同盟のため、なのです。
オーストリアもフランスとは敵対関係にあったのですが、その負の関係を捨て去るために、オーストリア、フランスの王族同士の結婚がベスト、というわけでした。
王女様や、王子様、そんな生活に憧れる、なんて話はよくありますが、実は、王女様も王子様も、よく見るとそんなに羨ましい、人生ではないのです。
なんといっても、自分が好きともなんとも分からない人と結婚しなければならないところが、その理由です。
王家の名前が有名であればあるほど、王女に生まれた途端に結婚という制度に縛られることが運命付けられています。
独身時代に、仮に好きな人ができたとしても、その人と結ばれる可能性は極めて低い、と思ってください。
素敵な騎士と思い合って…というシチュエーションは、夢また夢なのです。
当時のオーストリアとフランスの関係がどうであったかかは、こちらの記事をお読みください。
マリー・アントワネットの結婚指輪
ルイ王太子がマリー・アントワネットの指にはめてあげた、とあるところから、存在はしていたのですが、
現在では、どのようなものだったのか、全くわかりません。
マリー・アントワネットの宝飾品を、今日私たちは、美術展などでお目にかかる機会はありますが、結婚指輪が出品されていたのは、見たことがありません。
美術品カタログにも、写真がないので、現存してないものと思われます。
マリー・アントワネット自身の、髪の毛を入れて人にメモリアルとして贈った、という指輪は残っていますが。
マリー・アントワネット自分の宝石を、行為びとでスェーデン人のフェルゼン伯爵に預けましたが、フェルゼンはそれをのちに、アントワネットの娘 マリー・テレーズに渡しました。
それでもその中にも、マリー・アントワネットの結婚指輪というものは出てきていません。
マリー・アントワネットの肖像画の一つに、子供二人を連れているものがありますが、そのアントワネットの左手薬指に指輪が光っています。
「ダイヤモンドとエナメルの指輪」と書かれています。青いエナメルの上に、ダイヤが点々と配置されています。
左手薬指、というともしかしたら、これが結婚指輪かしら?と思うのですが。
ルイ16世とマリー・アントワネットの結婚
王家同士の結婚というのはなかなかめんどくさいもので、色々と手順というものがあるのです。
マリー・アントワネットのあいてはなぜルイ16世だったの?
国の発展と平和のために結婚するのだから、どこの国の王子でも構わないと思えるのですが。
マリー・アントワネットの生まれた国、オーストリアとフランスは長年にわたり戦争を繰り返してきました。
オーストリアとフランスはここで仲直りをして、ヨーロッパの秩序を自分たちでつかもう、と思ったからこそ、二つの国が結婚により同盟を結ぶのが大切、と思ったからでした。
他の国の王子ではなく、フランス王太子である理由いついては、こちらの記事で説明してありますので、ご覧ください。
マリー・アントワネットの結婚が決まるまで
結婚を申し込むまでの手順については、アントニア・フレイザーの「マリー・アントワネット」、
シュテファン・ツヴァイクの「マリー・アントワネット」に書かれています。
まず、1769年6月6日 フランス側からの結婚申し込みがあり、その特命使大使になったのが、デュルフォール伯爵。
これをもって、正式に婚約成立となりました。
申し込む、というのは形式的なものでしょう、ここに至るまでに水面下でフランス・オーストリア両方のチームが動いたと思うのです。
現在、ヨーロッパの王国では、王子や王女がある年齢になると、親(国王)たちは子供の婚活に励みます。
お見合い写真がわりの肖像画を各国にばら撒いて、息子、娘の宣伝をします。
当時、オーストリアはヨーロッパの国々と戦争を行なっており、味方にしたい国がフランスだったため、フランスのルイ王太子がちょうどいい相手でした。
マリー・アントワネットに渡された肖像画
結婚の申込として、フランスの特命大使デュルフォール伯爵は、フランス王太子(ルイ16世)からの手紙と、2枚の肖像画を渡しました。
そのうち一枚は、マリー・アントワネットがいつも身につけていられるようにペンダント(メダイヨンと呼ばれています)の形に作られていました。
メダイヨンの周りにはダイヤモンドが散りばめられていました。
マリー・アントワネットは小さい肖像画を、自分の胸元につけた、コサージュの中に止めました。
いつも、その肖像画を身につけていたとしたら、ロマンチックな話ですね。
マリー・アントワネットとの結婚生活はまた、別のお話となります。
マリー・アントワネット結婚のまとめ
マリー・アントワネットとフランス王太子ルイとの結婚式が終わりました。
フランスとオーストリアは、両方の国にとって良かれ、という気持ちで二人を結婚させました。
二人の結婚が、吉と出るか凶と出るか?
これまでの時代のような流れなら、ありきたりの結婚、で終わっていたと思うのですが、
フランスには、フランス革命の嵐が吹き荒れます。
それを見ると、この結婚の意義てなんだったのでしょう?と考えたくなります。
そのお話は、また次の記事に書きましょう。次回もお楽しみください。
マリー・アントワネットの生涯につきましてはこちらの記事もご参照ください。
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