一橋治済、サイコバス?性格は?毒の真相?息子は将軍に。家系図では?最後は?田沼と松平との関係?生田斗真の怪演。?

一橋治済は「べらぼう」の中で、大切な役割を果たしそうです。

それはかつての、よしながふみ原作のドラマ「大奥」の一橋治済を思い出させます。

サイコパスだったのか?毒殺?暗殺?と疑惑の絶えない人物です。

悪役に見えますが、そんな一橋治済の魅力をここで追ってみました。

一橋治済はサイコパスか?

一橋治済(ひとつばしはるさだ)は、サイコパスのイメージがあります。

が、こちらについては、それを証明する文書が残っていません。

一橋治済 本人よりも2023年に、NHKで放映された よしながふみ原作漫画「大奥」のドラマ化から、サイコパス一橋治済 説が来ているのではないでしょうか?

現在放映中の大河ドラマ「べらぼう」でも、一橋治済には何かありそうに見えます。

ドラマのここだけを見ると、松平武元を死に追いやった?という予感を感じさせます。

史料こそありませんが、

将軍 徳川家斉の父親ということで、非常に権威ある人物に見えたところから、その地位に上り詰めるまでに、何かやったのかもしれない、という推測が、物語を作り上げました。

その結果、一橋治済はサイコパスという設定ができたのです。

この設定は、「大奥」の中で、発揮された設定ですが、今回の「べらぼう」の中でも、この一橋治済、何か一波乱起こしそうです。

一橋治済の性格は?

一橋治済のこののちの行動を見ると、自分の息子を将軍に立てたり、で影に回る性分に見えるかと思うのですが、かなり直情的な性格にも見えます。いえ、両面を持ち合わせた人物なのでしょう。

一橋治済、直情的?

というのも、治済は 第10代将軍 家治の大奥に奥女中として務めていた、お富の方(おとみのかた)に惚れ込み、家治に頼んで、自分のもとに側室として貰い受けました。

江戸時代の、武士としてはかなり大胆な性格だと思いませんか?

お富の方、との間に生まれた男子こそが、のちの徳川家斉となるのです。

大胆さが、一橋治済に幸運をもたらしたのですね。

これで、一橋治済は大奥に顔も効くようになったのではないでしょうか?

大河ドラマ「べらぼう」で見る、家基(いえもと)の毒の手袋事件、もしかしたら、一橋治済が関わっている?と思わせる人間関係です。

そこで、高岳らしき人物が?

一橋治済、影の大物がお好き?

自分以外の人を通して、影からあやつる役目になる、というところに喜びを見出す人物ではないか?と思えるのです。

だから、一橋治済には自分が将軍になれる立場にあるのに、あえて、ならず息子を将軍にたてた。

将軍になった息子 家斉はまだ15歳、自分で全てを判断するにには、まだまだという年齢です。

このような事実から、一橋治済は、表立って行動せず、裏の大物に徹する、というイメージが出来上がってきました。

かつての、よしながふみ 漫画原作の「大奥」では、「影の悪役」の役が強く印象に残っています。

今度の、NHK大河ドラマ「べらぼう」でも、得体の知れない、それでいて、こっそりと悪事を働く人物に見えています。

一橋治済は、悪の魅力の人物として描かれるのが、ぴったりなのかもしれませんね。

一橋治済は毒を用いた?

「べらぼう」を見た方は、一橋治済が、徳川家基暗殺の毒を持ったのではないか?と推測していらっしゃるかもしれません。

その真実は?

資料には、毒を塗った手袋のエピソードは一切ありません。

ドラマでは非常に思わせぶりな、シーンが出てきます。

これをみると、もしかしたら…一橋治済が、という疑惑が起こってきます。

もし毒殺の犯人として、一体どんな毒を使ったのか、どんな即効性のある毒があるものかどうか?

疑問点も持ち上がってきます。

そして、一橋治済は一体、何をしたかったのか?

単にこの時点では、田沼意次を排除したいだけだったのか?

では松平武元についてはどうだったのか?田沼意次の無実を信じたからか?

まだまだ、続けてみていかないと、はっきりしないことばかりですね。

一橋治済の息子が将軍様?

一橋治済には、家斉(いえなり)といい、徳川家の第11代将軍になります。

治済は家斉の父なのだから、一橋治済が将軍になればよかったのに、と思われるのですが、実際は息子の家斉が将軍職につきました。

治済は、徳川家の子孫というものの、徳川吉宗以降に建てられた家。

そして自分の息子の家斉を、10代将軍 徳川家治の養子としました。

一橋治済が将軍にならなかったのはなぜ?

ではなぜ、治済が直接将軍にならなかったのでしょうか?

これは徳川将軍の養子になれる、ということで次期将軍が決まってくるので、年齢的なものから来ている、と思われます。

家治の次の将軍と言われた息子 家基が急死した時は、一橋治済は28歳。

十分に次期将軍の資格を備えています。

家基の死後 3回忌の時、後継者を家治が取ることとなって、協議した結果、徳川治済の息子 豊千代(とよちよ、のちの 家斉)に決まりました。

この時、家斉は9歳〜10歳で、他の家に養子に行くにはちょうどいい年齢だったわけです。

しかしそれだけではなく、養子人選係であった、田沼意誠(たぬまおきのぶ)とその息子 意致(おきむね)が、一橋治済に影で協力していたのでは?

という疑いを、近世日本史の学者、北島正元は持っており、研究しています。

一橋家斉の養子選定には、田沼意次もOKサインを出しています。

田沼意致は、意次の弟なので、のちの田沼意次の失脚は、田沼家の内部から崩された出来事ということになります。

一橋治済の息子将軍になった後は?

一橋治済 本人が望んだのは、大御所(おおごしょ)になることでした。

大御所とは、何かというと、江戸幕府ではかつて征夷将軍だった者が、将軍職を息子に位を譲って隠居した時に呼ばれる名前です。

例としては、徳川家康や徳川秀忠が有名です。

家康などの場合は実際に将軍職を務めたから、隠居後は「大御所」となっても、何の問題もありませんが、一橋治済の場合は、将軍になっていないのです。

ですから、将軍になっていない一橋治済が「大御所」という地位につくのは、無理があります。

大御所になって、もっと思うままに自分の権力をふるいたい、と思ったのでしょう。

どんな政策を心に秘めていたのでしょうか?

一橋治済の大御所就任の話は、将軍 家斉の口から出てきた、ということなのですが、実は、治済 本人が希望した、のです。

親の希望を叶えてやりたい、と家斉は思っていたのでしょうね。それが親孝行、と考えていました。

しかし、そこを真正面切って反対を唱えたのが、松平定信でした。

一橋治済の家系図は?

一橋家治済は、8代将軍 徳川吉宗(よしむね)の孫です。

治済の父 一橋宗尹(むねただ)は吉宗の四男でした。

一橋家というのは、徳川吉宗が徳川家の血筋を絶やさないように、御三家(本家、紀州家、尾張家)にもし男子がいなかった場合、に将軍になれる資格を持つ家を、3つ建てました。

それは、吉宗の息子たちで、田安家、一橋家、清水家という3つの家を作りました。これが御三卿(ごさんきょう)です。

治済は一橋家の四男ですが、7歳で、後継者と決まり、13歳で当主になりました。

一橋家の長男と三男は、他藩の藩主になっており、次男は早くに亡くなっていたからです。

一橋治済のことを運が良かった、と見ることもできますが、江戸時代では、幼少期のうちに死亡する子供が多かったので、四男に当主、という例はそんなに珍しいことではありませんでした。

吉宗の孫、ということで、将軍 家治、松平定信これみんな 徳川吉宗の孫です。

一橋治済も松平定信も、自分に将軍職が来てもおかしくない、という気持ちがあったことが予想されます。

一橋治済の最後は?

一橋治済の最後は、よしながふみ原作「大奥」では、毒を盛られて動けなくなり、死んでいく、という衝撃的な最後でした。

実際も、そうだったのかな?と半ば期待していたのですが、毒殺など、された形跡も記録もありません。

亡くなったのは、1782年70歳半ば。というと、普通に老衰で亡くなったことと推測されます。

1799年には、従二位権大納言の位を授けられたのち、家の当主の地位を息子に譲り、隠居生活を送ります。

隠居と同時に、出家もし、亡くなる2年前には准大臣の位にまで上り詰めます。

一橋治済にとっては、満足のいく人生だったのではないでしょうか?

一橋治済の、記録が少ない割には、何かことがあるたびに陰謀の噂に上がってきていた人物なので、小説、漫画、ドラマの題材には、面白い対象です。

そこで、ドラマチックな陰謀の中心として書かれ、それに相応しい結末を用意した、ということでしょう。

一橋治済と田沼意次は敵対関係?

実は、家斉を徳川家養子を後押ししたのは、田沼意次(たぬまおきつぐ)でした。

一橋治済と田沼意次が敵対関係にある、とはあまり見えない話ですが、一橋治済には、日本の国を動かそうとする、野望があったのでは、と考えられています。

一橋家斉の将軍家への養子を進めると同時に、進行していた話は、田安家の賢丸を松平家に養子に出すことでした。(のちの松平定信)

松平定信は、幼名 賢丸(まさまる)というその名の通り、聡明で頭の良い子供でしたため、将軍徳川家治は、賢丸を養子に望んでいました。

しかし、その賢さのことを田沼意次が用心したことから、田沼は賢丸の松平家への養子を勧め、一橋家の子息、家斉を将軍の養子としました。

徳川家治死後、一橋治済の息子、家斉が将軍となりました。

それなら、一橋家は、田沼意次に感謝してもいいはずに思えるのですが、実は違いました。

徳川家治は、水腫のため亡くなったのですが、治療に使う薬を田沼意次が知り合いの医師に毒を入れさせた、ということにして、田沼意次は、老中から追放となってしまうのです。

田沼意次を追い落とす計画の中心にあった人物が、一橋治済ではないか、という説が一般的です。

実際、新しい将軍 家斉に、田沼意次を排除させたのは、いうまでもなく一橋治済です。

これを見ると、一橋治済はかなりわがままな人物だったように思えますね。

一橋治済と松平定信とは協調関係?

一橋治済も松平定信のどちらも、田沼意次嫌いということで、双方が強調して、田沼意次に対抗した、というイメージですが、実はそうでもありません。

田沼意次を失脚させようとしたことでは、二人の意見は一致したところですが、それだけでした。

一橋治済の息子 家斉が征夷大将軍についたとき、家斉は15歳だったので、しっかりした家老が必要となり、老中の中心になるよう任命されたのが、松平定信でした。

これも、一橋治済の計画の一環だったのです。

しかし、のちに、一橋治済は大御所になりたいと願ったのですが、松平定信に大反対されます。

反対の理由について、書かれたものはあまりありませんが、天皇家の事情と関係を匂わせるような事件がありました。

光格天皇(こうかくてんのう)が自分の父の典仁親王(すけひとしんのう)を、太上天皇にしようと思いましたが、天皇についていない人に太上天皇の位を授けるのはどうか?

という問題が起こっていました。

この相談を受けた、徳川幕府では、太上天皇の位を授けることを、反対していました。

ちょうどこれと同じ事態が、一橋治済の大御所希望事件だったので、松平定信は天皇家のことを反対した以上、幕府でも、同じように大御所問題をきちんとしなければならない、と考えていました。

それがきっかけとなって、松平定信は、老中を降りることになるのですが。

治済は、定信が自分の思い通りに動いてくれなかったから、そして、いずれ定信が田沼意次のようになるのではないか、と用心したこともあって、松平定信を解任する、手段をとったのでしょう。

一橋治済 生田斗真!

2023年にNHKで放映された、よしながふみ原作のドラマ「大奥」では、仲間由紀恵が好演していました。

今思い出しても怖い一橋治済 でしたね。

今度の「べらぼう」は、生田斗真がキャスティングされています。

こちらも怪演、とこか恐ろしい、とか前評判が高いです。

生田斗真は以前「鎌倉殿の13人」でも出演されており、そこでも、源仲章(みなもとのなかあき)という裏表のある役を演じておられました。

視聴者としては、きっとまた、という期待があります。

そして、強烈な印象の一橋治済 役だった 仲間由紀恵さんの上を行ってくれそうな人物に見えます。

一橋治済も、「べらぼう」の幕府側を描く展開から目を離せない人物になりそうです。

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