松平武元、白眉毛の石坂浩二は活躍する。死因?どんな人、何をした?役職は?田沼意次と協力。松平定信とは違う。

2025年 NHK 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華之夢噺〜」で幕府用人 松平武元が登場します。

江戸時代の、享保(きょうほう)年間の政治家で「松平」というと、松平定信の名前が出てきますが、定信とは、関係がある人物でしょうか?

どんな人物で、どんな役職についていたか、その仕事ぶりが気になります。

田沼意次とタッグを組み江戸幕府の財政を立て直すところが、見どころです。

「べらぼう」では石坂浩二がキャスティングされており、どんな人物を演じてくださるか楽しみです。

そこで松平武元を調べてみました。

松平武元の白眉毛の意味は?

松平武元という人物を「べらぼう」で見ると、誰もがその白眉毛にびっくりするでしょう。

白眉毛というより、白が混じった、灰色の眉毛なのですが、眉の印象が強すぎて、石坂浩二さんとすぐには気づかないほどです。

実際にどうだったかというと、松平武元の肖像画、というものが見つからないので、不明、というところが残念です。

これだけ、見事な眉毛なら、どこかに記録もありそうなのですが、そういうものも見当たりません。

松平武元 白眉毛、発想は村山富市首相?

松平武元に関しては、「西の丸の爺」(にしのまるのじい)と呼ばれていましたから、長老的イメージのあった人でしょう。

白眉毛の設定を考え出したのは、実は脚本の 森下圭子さんだと、べらぼうのプロデューサーが言っていました。

白い太い眉毛の発想は、日本の首相 村山富市のイメージから思いついたのだそうです。

村山富市氏は、1994〜1996年 第81代の首相を務めました。

そういえば、村山首相も質素でクリーンなイメージを売り出した政治家でした。

ちょっと松平武元と、イメージが似ているところがありますね。

松平武元が仕えた3人の将軍、吉宗、家重、家治 たちからは信頼されており、特に家治からは「西の丸下の爺」と呼ばれていました。

ということは、家治は、松平武元のことを非常に信頼し、慕っていたのではないでしょうか。

その長老っぽいイメージを作り出すために、眉毛を思いっきり長くして見せたのだ、と思います。

つまり、大河ドラマでの演出です。

眉が太い、というだけで、頑固そうなおじいさんのイメージができますね。

松平武元の眉毛、江戸時代に見ると?

「べらぼう」に出ている、松平武元の年代を考えると、眉毛が非常に長く、長老っぽく見えるのは、貫禄になってきますからいいとして、

江戸時代の、眉毛事情はどうだったのでしょう。

女性だけではなく、男性も眉毛の流行には敏感でした。

江戸時代中期は、それも天明時代(1780年代、ちょうど「べらぼう」の時代)は、男性の眉毛は薄くする傾向でした。

特に町人の若者達は、眉のお手入れとして、眉を抜いて薄くしたのが、「粋」と言っていました。

では武士はどうかというと、武士も身だしなみに気を遣っていました。

平安時代の貴族のようではありませんが、ある程度メイクをしていたようです。

日本の武士道を書いた書物「葉隠」(はがくれ)鍋島藩士 山本常朝(やまもとつねとも)著、に、身だしなみの必要性が書かれていました。

男性が化粧をするのは、そんなに変なことではありませんでした。

男にしろ、女にしろ、自分をよく見せたい、という欲望は時代を超えて存在するのですね。

松平武元の死因は?

NHK 大河ドラマ「べらぼう」では、松平武元の暗殺を匂わすシーンがありました。

田沼意次との絡みがあるから、まさか他殺?と見えてくるのですが、そのよすな記録はもちろんのこと、当時でも他殺の噂もありませんでした。

松平武元は老衰、過労死?

松平武元は老中職を、32年もの間務めており、老中のままで死亡しました。

過労死、と見るのが一般に言われているところです。加えて高齢であったことです。

松平武元のこととして残されている、話としては、晩年 松平武元は確かに体調を崩していました。

そのために、老中職を降りたい、と将軍 家治に申し出ていましたが、却下され続けていました。

そして、その時の年齢は60歳。(当時の年の数え方、つまり数え年では61歳)

今でこそ、60歳なんてまだまだ働ける年ですが、江戸時代ではかなりの高齢の部類に入ります。

過労や老衰だ、と言われても不思議ではない年齢です。

ではなぜ、そんな過労死、とも言える死に方をしたのか?松平武元の職は激務だったのか?

ある意味、激務だったといえます。

というのも、田沼意次という新進の家老が台頭してきて、次々と新しいことを考えつくものですから、古き秩序を重んじる松平武元にとっては、気の休まることがありません。

しかも将軍 家治は、その父 家重の遺言「田沼意次を重んじるように」を守っていたものだから、「じい」としての松平武元は、気の休まる暇がなかったことでしょう。

これは推理でしかありませんが、田沼意次の存在そのものが、松平武元のストレスになっていたと言えるでしょう。

今も昔も、部下と上司との関係、気の使いようが人のストレスとなり死因となりうるのだ、と思わせるストーリーでした。

松平武元はなぜ暗殺に見える?

これが今後のストーリー展開に影響してくるでしょう。

まず、田沼意次は松平武元の死により、自分の主張をどんどん出していきます。

田沼意次の賄賂政治、と言われるのも松平武元の死後です。

そして、これから田沼意次の運はだんだんと下降してきます。

田沼意次にどんどんと悪い噂がついていきます。

次期将軍予定だった、徳川家基暗殺疑いも、田沼意次にかかってきます。

松平武元は、田沼意次の政策を守ろうとする姿勢を見せていました。

そうされることは、田沼意次の敵対勢力にとっては、厄介なことでした。

ここで、田沼意次を失脚に向かわせるための下準備として、松平武元を、去らせる必要があったのです。

同時に、松平武元もここで暗殺の疑いを残して、田沼意次を一気に悪役へと仕立て上げる、これが狙いでしょう。

「狙い」のため、松平武元の死を筋書きの一部として、上手に使っている、と思います。

松平武元役は石坂浩二に

2025年 NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃」では、石坂浩二がキャスティングされています。

大物俳優だけに、松平武元は、ビッグな政治家という設定のような気がします。

松平武元とタッグを組む、田沼意次は、渡辺謙が演じることになっていますので、両方のやり取りが非常に緊迫したものになるでしょう。

NHKのHPで、石坂浩二さんは

『「大河ドラマ」、この響きは本当に特別で懐かしいもので私の心を揺さぶります。 徳川幕府を守ろうと昔ながらの手法に固執する松平武元。 その古さと我ながらの年の積み重ねを演じたいと思います。 久しぶりに大河ドラマの撮影に臨みましたが、昔から変わらない独特な雰囲気と、伝統的な熱気を感じ感動しました。 また、約15年ぶりに渡辺 謙さんと新しい作品でご一緒できるのが楽しみです』

とおっしゃておられます。

となると、これまで、松平武元をドラマで、大きく取り上げたことはありませんでしたが、ここで一気に、松平武元、という人物がクローズアップされると思います。

松平武元、どんな人?

何度も養子に出された子供時代を送り、藩主となり幕府の要職についた人物です。

そして、徳川吉宗(よしむね)、家重(いえしげ)、家治(いえはる)の3人の将軍に信頼されました。

松平武元(まつだいらたけちか)は、1719年、常陸国府中藩(現代の茨城県)に生まれ、館林藩の養子に落ち着き、館林の3代目の藩主になります。

現代の目で見ると、養子に出されて複雑、と思えますが、当時はそれほどのことではなく、男の後継者が生まれない家に、血縁関係のある男子が養子に出されるのは、珍しくありませんでした。

館林家は、徳川家と繋がりの深い家だったため、松平武元も20歳の時から、江戸城で役職を命じられました。

寺社奉行を経て、27歳の時に老中となり、1779年 亡くなる時まで勤め上げました。

それだけ長く幕府の要人でいられたのが、将軍からの信頼のおかげだと思います。

吉宗の孫である、10代将軍徳川家治(いえはる)には、家治がまだ幼い時から仕えていたので、松平武元は、絶対的信頼を寄せられていて、

「自分に何か、過ちがあれば、諌めてくれるように」と家治に頼まれたほど。

そのような、家治の思いが、家治のことを書いた記録書『浚明院殿御実紀』(しゅんめいいんごじっき)に書かれています。

「浚明院」は、家治の戒名の頭の部分です。

松平武元は非常に信頼性のおける、実直な人物だった、というのはこの記録書から、読み取れるからでした。

松平武元、何をした人?

江戸時代中期、1700年代中頃の政治家です。

どのような政策をとった人かというと、幕府財政立て直しのために財政政策を立てた人です。

田沼意次(たぬまおきつぐ)と協力することで、江戸幕府の財政を取り仕切っていました。

財政立て直しのために、田沼意次が推す、商業を重んじる、重商主義をとりました。

ここで、もう一つある説では、松平武元が、田沼意次を抑えていた、ということです。

というのも、田沼意次は後世、「悪徳政治家」、と言われましたが、そう言われるようになったのは松平武元の死後でしたので。

松平武元のもう一つの構成機は、一揆を収めたことです。

それは中山道沿いで「中山道伝馬騒動」1764〜1765年の事件です。

一揆を起こした人々の出す要求を飲むことで、江戸への侵入を防ぐことに成功したのでした。

財政を支えた、一揆を収めたというのも、裏方的な働きで、あまり表舞台に現れなかったので、それほど有名になっていない政治家というのは、残念な気がします。

  ※ 中山道伝馬騒動(参考として)

江戸時代に中山道沿いの宿場町で起きた反乱です。幕府が課した伝馬役(人や物資を運ぶための馬や人足の提供)が住民に重い負担となり、これに不満を抱いた人々が一揆や騒動を起こしました。信濃国岩村田(現在の長野県佐久市)や武蔵国板橋宿(現在の東京都板橋区)などで特に有名なように、いくつかの町で起きた、ということが特徴的です。

 

松平武元の役職は?

役職は、老中首座という役職についていました。

どんな役職かというと、江戸幕府で、政治を執り行う老中(ろうじゅう)たちの「長」です。

活躍した年代は、第10代将軍 徳川家治(とくがわ家治)の時代、〜年代です。

松平武元、徳川吉宗に見出される

最初に、松平武元を幕府の役職に就けたのは、第8代将軍、徳川吉宗(とくがわよしむね)でした。

それは 1739年で、「奏者番」(そうじゃばん)と言われる、礼儀作法に関する仕事でした。

どのようなことかというと、将軍に謁見する武士たちに、しかるべきところでの礼儀作法を指南する役です。

と同時に、「寺社奉行」も兼ねるようになりました。

寺社奉行というのは、江戸の町奉行よりも権威のある役職だったので、松平武元はかなりの実力者であることが、うかがえます。

松平武元、徳川家重の時代に出世

吉宗の息子、徳川家重(とくがわいえしげ)の時代になると、さらに身分が上がり、1746年に「西の丸老中」の役を与えられます。

まだ、28歳、ということは早い出世ですね。

この役職は、直接将軍に仕えるのではなく、次期将軍を支える役割です。

これにより、次期将軍 徳川家治(とくがわいえはる)から、絶対的な信頼を寄せられ、1747年には、ついに本丸老中となります。

松平武元は徳川家治の時代、力を持つ!

徳川家治が、将軍に就く前から、頼りにされていた松平武元は家治将軍になると同時に、大きく政治力を持つようになりました。

家治が将軍になった時は、特に、将軍 家治からは絶対的な信頼を寄せられていました。

田沼意次とタッグを組んだ改革を行なった、ということは二人で新しい日本づくりを目指した、ということなのでしょう。

松平武元の家系図は?

「松平」と名乗っている以上、徳川家の原点の「松平家」とどんな関わりがあるのでしょう?

松平武元は「常陸国」の生まれ

生まれは、1719年 常陸国府中藩(ひたちのくにふちゅうはん)第3代目藩主 松平頼明(よりあき)。

頼明の父は、水戸藩の家老の松平氏、で水戸光圀との血縁関係があります。

頼明の父は、その後、養子として、常陸国府中藩(現代の 茨城県石岡市)に行きます。

頼明、武元親子の、家名は 石岡松平家と呼ばれています。

息子の 松平武元は四男であるため、1728年 上野国館林家(こうずけのくにたてばやし)の藩主 松平武雅(まつだいらたけまさ)の元にに養子に出されます。

こちらもまた松平家、ここは越智松平(おちまつだいら)家と言われ、6代将軍 徳川家宣の弟 松平清武(まつだいらきよたけ)が先祖です。

松平武元、出世へ

1728年、松平武雅の死去により、越智松平家を継ぎましたが、すぐに陸奥守棚倉(むつのかみたなくら)に、国替となりました。

陸奥国は、東北地方で、宮城から青森にかけての範囲ですのが、当時の江戸からはとても離れています。

でも、松平武元の場合は、左遷、ではありません。というのも石高が、移動前とは変わっていないからです。

1946年にまた、館林に戻され、後 1769年に7000石の加増がされ、元54,000からもらっていた、54,000石と足すと61,000石になった、というので、なかなかの高待遇ですね。

松平武元は、1779年の死亡なので、生きている間に加増されたことは、幕府からの大きな信頼があったと考えられます。

松平武元は田沼意次の盟友?

松平武元は田沼意次と、ともに商業を通信とした経済を作ることを目指しました。

田沼意次と松平武元はどちらも、1719年生まれで、同い年です。

となると、同じ政策を目指す盟友のように見えますが、実際はどうだったのでしょう?

松平武元、田沼意次と本当に仲が良かった?

でも、ここで疑問を感じてしまうのです。

本当に、松平武元と田沼意次は仲良しだったのでしょうか?確執はなかったのでしょうか?

というのも、松平武元が亡くなってから、田沼意次の独裁ぶりが目立つようになった、という説があるからです。

先ほど、「『松平武元』はどんな人」の項で、松平武元は、信頼のおける人物で、実直に見える、と書いたのですが、

それなら、田沼意次とは少し性格が違うようです。

というと、日本の経済を立て直そう、という共通の目的だけでつながっている二人、と見えます。

本当は仲が良くなかったのではないか?そう思えてきます。

松平武元と田沼意次とは、家の格が違う!

田沼意次は、思いっきりがよく、町人文化を楽しんでいる様子も見え、イケメンとも言われ、明るいイメージの人です。

松平武元は、田沼意次の行き過ぎを抑えるような、イメージが思い浮かびます。。

松平武元は、その苗字「松平」が示すように、徳川家と親戚関係、名家の出身です。

一方の、田沼意次は足軽の身分からの出世。

松平武元から見ると、田沼意次は成り上がり者です。

すでに、「べらぼう」をみた視聴者さん達は、松平武元を「陰湿」、「嫌味」などど、批判する声が上がりました。

また、将軍の日光参拝の話が出た際には田沼意次に「田沼殿の家中に馬に乗れるものはいるか?」と田沼を下に見るような言い方もしています。

松平武元と田沼意次が、家柄からくる対立、という史実は残されていませんが、古参の幕臣なら、家柄重視するだろうな、ということは納得できる設定です。

ほんとうにそうだったかもしれないと。

松平武元は、田沼意次と財政改革に力を入れる

松平武元と田沼意次が、仲良く政策を立てていく様子が想像つかなくても、

経済政策は、田沼意次の考えるままに進んでいきました。

これは松平武元が家柄、成り上がり、という面で、田沼意次をあまりよく思っていなかったとしても、田沼の政策にはOKを出して、進めていったのですから。

田沼意次が、政治を一人で取り仕切ったとのちに言われるようになるのですが、

こう言われるようになってのは、松平武元の死後なのです。

松平武元の生存中は、田沼意次と二人で、日本経済を立て直す改革を進めていました。

ということは、松平武元は、田沼意次の家柄にケチをつけていたにもかかわらず、その采配を認めていた、のではないでしょうか?

松平武元と松平定信

ここでもう一人の松平家の人物が上がってきます。松平定信です。

松平武元と田沼意次が作り上げた、二人の死後、改革を否定し違う政策を取りました。

いわゆる、松平武元、田沼意次の天敵、になる人物です。

この人のおかげで、田沼意次は失脚したのですが、松平武元のほうは、もう亡くなっていたので、敵対相手とは言えません。

松平武元も松平定信のどちらも、「松平」姓ということは、縁戚関係である、ということです。

松平武元は、水戸藩の生まれです。

それに対して、松平定信は、8代将軍「吉宗」の孫に当たるわけですから、定信の方が権力の座に近い、ことになります。

血筋でいったら、松平武元は定信にかないませんね。

松平定信より、少し早い時代で過ごした、ということが、松平武元にとっては良かったことと思います。

松平武元、「べらぼう」で、どのような役に?

石坂浩二さんが演じられるなら、かなりの有能で大物政治家として作り上げられるでしょう。

石坂浩二さんの、これまでの色々な役から推測すると、真面目一方ではなく、ちょっと裏の顔(?)もあるような、奥の深い役になりそうです。

それでいて、徳川幕府の、根本を支えるバックボーン的な政治家の顔が、それも時には頑固に思える性質として、出ると見ています。

主役、蔦屋重三郎を認めるのか、どのような絡みを見せるのでしょう?

田沼意次役の渡辺謙さんとは、政策を作り上げていく上で、妥協せぬ戦いをすることが予想されます。

それは、バトルでもあり、そこから作り出されるものに、私たちは惹きつけられることでしょう。

まとめ

幕府の要人でありながら、大きく注目を集めてこなかった人物、松平武元ですが、「べらぼう」では非常に良い役を果たしてくれそうな登場人物です。

役としても、長老的な役割を果たしてくれるかも?

そして、田沼意次をはじめ、主人公の蔦屋中三郎とも、バトルを交わしながら、江戸幕府を良い方向に導こうとする様子が注目されると思われます。

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