淀殿は本当にワガママな悪女だったのか。史料をたどると、侍女を守り、戦を避けようとした素顔が見えてきます。
悪女像は徳川の世が作ったものでした。
ここでは、淀殿が悪女でなかった証拠を探しました。
淀殿は、なぜ悪女と呼ばれたのか
それは何よりも、豊臣秀吉が人気があったからです。
江戸時代、徳川の世になっても豊臣家ではなく、一代で立身出世した秀吉は人気がありました。
戦国時代もそうですが、江戸時代、そして第2次世界大戦の頃まで続く女性への偏見も理由の一つになっています。
「女は政治に口を出すものじゃない!」と。
淀殿は、まだ幼い秀頼の補佐をしていました。その行動が政治を掻き回しているように見えたのでしょう。
それが淀殿をワガママに見せていたのでしょう。
また江戸時代ですから、徳川様は将軍様で尊敬されるべき存在です。
淀殿は大坂の陣で、家康に逆らったことで豊臣家を滅亡に導いてしまったから、悪女なのです。
淀殿と、石田三成や大野治長との不義の噂があり、その噂も悪女のイメージを植え付けています。
男性とは違い、女性が夫以外の男性に心を寄せるのはすごく悪いこととしてみられました。
これは西洋でも東洋にもある見方で、男性の場合は「悪い」とみられないのが実に、不公平ですね。
徳川が、豊臣を滅亡させた理由を正当化するには、淀殿が悪女である方が都合が良かったのです。
淀殿、悪女ではなかった!
徳川家に都合の良い歴史のために、淀殿は悪女のレッテルを貼られてしまいましたが、実は気配りができる人だった、というエピソードがいくつかあります。
最近、発見されている資料には、淀殿の別の面が表れています。
- 大坂冬の陣の和議交渉では、人質になって江戸に行くことに同意していた
- 当時、大阪城にいた牢人(浪人とも言います)を養うために、禄(給料)の加増を徳川に頼んでいた
- 信長の側室たちが、生活に困らないよう生活を援助した
- 大坂城が落城するときに、淀殿は侍女たちを逃した
これらの内容は、「駿府記」、家康に仕えた儒学者・林羅山(はなしらざん)著の「大坂冬陣記」に、
大坂城の浪人たちの生活などを守ろうとしたことは、大坂冬の陣の「起請文」に、信長の側室の生活を援助していたのは、側室・お鍋の方を診察した医師の記録にそれぞれ残っています。
淀殿、侍女に優しかった!
また、大坂城落城で、侍女たちを逃したのは、侍女であった「おきく」の話を聞き取りで書かれた物語の中に見つけることができます。
そこから読み取れるのは、淀殿は細やかな気配りができる女性だったのです。
淀殿近くに使える侍女たちには慕われていました。
それを示すように、淀殿墓前には、命日には白ゆりが備えられました。淀殿が好きな花でした。
侍女たちが、死んでもその子孫が淀殿の墓に白ゆりを供え続けました。
江戸時代では、監視の目が厳しかったので、淀殿の名前を出さずにひっそりと行われていました。
白百合を供えるお寺は、大阪の太融寺で、淀殿の命日である5月8日に、今でも行われており、私たちも参加することができます。
大坂城の淀殿は、女性たちの憧れの的?
案外、権力を持つ女性は、戦国時代でも、女性たちからも憧れの目で見られることもあったのかもしれません。
本当に憧れの的であったかはわかりませんが、大坂城の最後に淀殿が、侍女たちを逃した事実から、淀殿がどのような人物かよく見えてきます。
決してわがままなお姫様ではない。
母や父の悲劇を自分の目で見てきたからこそ、大坂城で采配を振るうのは、決して権力が欲しいだけではない。
苦労を見つめてきたからこそ、周囲に対する思いやりが生まれてきたと私は思います。
それと同時に、国と城を切り盛りするのが淀殿なのだ、と私は改めて理解することができました。
淀殿、権力が欲しかった?
淀殿は、秀吉死後、息子・秀頼(ひでより)の摂政の役割を果たしていたので、世の中を牛耳る悪女、というイメージがついてしまったのだと思います。
しかし、考えてみると、豊臣秀頼には、政治を仕切ってくれる大人の身内の男性がいなかった、のです。
任せられる人がいないから、淀殿が仕切ることになったのですが、それを「女だてらに」とか「一人で好きなように取り仕切っている」と
淀殿は、後世、これで、悪女と呼ばれることになったのだろうな、と私には想像ができます。
豊臣秀吉が、農民から身を起こして一代で築いた政権だから、まだ家をささえてくれる家老はいないのも当然です。
もちろん、豊臣秀吉が、『自分亡き後、秀頼を頼む』と家康たちに遺言していたが、権力を狙う彼らは、そんなもの本気で守るつもりの者などいない。
必然的に、母親である、淀殿が摂政役を務めなければならなくなったのです。
淀殿は、国を仕切る権力が欲しかったのではなく、やむおえず仕切らなければならない立場になったのした。
もちろん、淀殿にもブレーンになる家臣はいました。
秀吉も、生前から、世の中がまだ秀頼のためにまとまっていない、と感じていたのでしょう。
だからこそ、奉行、大老を立てたのですが、頼りになる前田利家はなくなり、石田三成も、関ヶ原の戦いで早々に歴史の舞台から退場しました。。
石田三成は、頭のよく、政治的手腕は優れている、と私は感じていましたが、何しろその性格からでしょうか、多くの武将たちからは嫌われていました。
片桐且元、大野治長がいましたが、そんなに力を発揮するような人たちではありませんでした。
結局、淀殿は、孤立無援状態になってしまいました。
淀殿、大坂城を支配した?
淀殿が大坂城に住み始めたのは、豊臣秀吉が亡くなった後。息子・秀頼が秀吉の後継者になってからでした。
淀殿、後見人に
後継者になった豊臣秀頼は、まだ幼いので、淀殿が後見をしなければならないからです。
こんな淀殿の様子が、徳川時代になって、淀殿は大阪城を牛耳っている、我が物顔振る舞っている、と見られることになるのです。
淀殿は、秀吉の性質であった、ねね(北政所)を追い出して、大坂城に居座った、とまで思われていました。
ところが、実際は、
政治的判断をしなければならないときは、一人で決めたのではなく、豊臣家に使えていた家臣たちの合議制で決定されていました。
それに大坂の陣の頃には、秀頼だって20歳ほどになってきていました。
つまり、淀殿は、秀頼が一人前の判断を下せることができるよう、成長を助け、見守って良いように導いていた、と私は考えています。
淀殿とねねは、協調関係にあった?
ねね(北政所)との関係だって、後世の人々が想像するような対立関係ではなく、共に豊臣家存続のため、役割を分担しながら協力していました。
二人の役割がどのようなものだったかは、当時の公家の日記「時慶記」や「言経卿記」などか知ることができます。
それら日記には、
秀吉亡き後、ねねは京都の公家や朝廷との交渉役を務め、茶々(淀殿)は、大坂城で秀頼の後見・内政めんを担当していた、ということが書かれています。
二重政権のように見えますが、これで、二人の役割分担がうまく機能していた、と私は考えています。
秀吉も生前、自分が朝鮮出兵で遠征していた時に家族に宛てた書状(手紙)で、茶々(淀殿)とねねの両方で、息子の養育を二人で行うよう指示していました。
これは、権力者(大名も含む)が側室を持つのが当然とみなされていた時代には珍しいことです。
というのも、当時は奥室が産んだ子は、家の跡取りなら、正室が育てるのが当たり前だったからです。
茶々とねねと一緒に、豊臣家の跡取りを育てるのは、珍しい例だったということなのでした。
淀殿、大坂の陣(冬)での覚悟?
大坂城は、淀殿の最後の地です。
大坂城では、「大坂冬の陣」(1615年11〜12月)と「大坂夏の陣」(4〜5月)の二つの戦いが続けて行われ、豊臣家は終わりを迎えます。
大坂冬の陣
大坂城での戦いを始めたのは、淀殿は、大坂城が難攻不落なことを信じ切っていたからです。
大阪城の難攻不落さは、秀吉が生前から語っていました。
特にその話を、秀吉はこともあろうか、徳川家康に話していた、ということが、江戸時代に書かれた「武功雑記」に書かれています。
秀吉が大坂城が強いことを、家康に漏らしてしまったのは、ちょっと不注意だと私は思いますけれど。
大坂城が負けない、と淀殿が思っていたもう一つは、豊臣家には金銭的に裕福だったということです。
というのも豊臣家は大坂城が先頭状態に入る以前から、多くの軍人(真田幸村がその代表格)をや雇い入れていたからです。
大坂城が裕福だったのは、「豊臣兄弟」を見て、豊臣秀長がしまりやだったため、貯蓄をいっぱいすることができたのではないかと、自分は思っています。
冬の陣では、徳川方は大軍を率いて、大砲などを使い昼夜攻撃を繰り返し、淀殿をはじめとして、豊臣方の神経をすり減らしました。
ここで和睦となったのですが、大砲の攻撃音が凄まじく、淀殿の居間の櫓が倒れたことから、侍女た九人ほどなくなり、淀殿は激しく動揺し和睦を強く望んでいました。
淀殿、堀を埋めることに同意?
冬の陣が終わり、講和となるのですが、徳川側が大砲を使い、どんどんおしていったので和平の講和というより、豊臣にとっての降伏条件と言ったほうがいいです。
講和条件に、淀殿は応じたのでした。
その一つが、大坂城の外堀を埋めると言う条件に淀殿は、同意しました。
、この淀殿の堀を埋めることに同意したことが、愚かなこと、と江戸時代では言われていましたが、今ではそうではありません。
大坂城の守りは幌があることで鉄壁になっていたのに、淀殿が、堀を埋める条件に同意した、それが悪女と呼ばれるようになった理由の一つでした。
淀殿が、堀を埋めることに同意した理由は、三つあります。
家康が打ち込んだ東方の音と威力を淀殿が恐怖と感じたこと。
淀殿は、過去に2回自分の居城を戦争で失っています、ですから、現在いる城に、連続して爆弾を投げつけられた音は、淀殿にとって、PTSDになってしまっていました。
もう一つの理由は、家康が、秀頼の命と、豊臣家の領地を保障するという申し出があったから。
大阪城の蓄えが尽きそうになっていた。
この時、淀殿が、大坂城に不利なことに同意したのは、当時73歳になっていた、徳川家康の命が、老衰のために、尽きるのを待っていたのではないか、という推測がされています。
とういうのも、内堀を埋める作業をしていたのは、大坂側でしたが、その作業がノロノロとしていて進まないのです。
どうしても時間稼ぎしているようにしか思えません、その不満を言う声が、徳川や、その周辺んいた大名たちの書状などから知ることができます。
こうしてみると、淀殿もなかなか、食えないヤツ、なのではないか、と私は感じました。
淀殿夏の陣を避けたかった!
最終決戦、夏の陣が始まると、淀殿は戦に勝とうと言う気持ちよりも、「豊臣家の誇りを守って最後まで戦い抜く」と言う気持ちになってきていたのではないでしょうか。
でも本音は、戦いを避けたかった、と考えたのでは?と言うのが私の感想です。
戦を避けたかった淀殿
「豊内記」、別名「秀頼事記」または「豊臣秀頼記」、では豊臣秀頼本人が、徳川と戦を構えることを強く望んでいたことが書かれています。
以前、通説になっていたのは、淀殿の狂気が戦を急ぎ、「大坂夏の陣」の戦いに突入していき、豊臣家を滅ぼした、と言うことでした。
しかし近年の研究では、淀殿はもう戦争を避けたく思っていたのではないか、と言うことが言われています。
冬の陣の後、淀殿は和平工作に取り掛かりました。交渉に選んだメンバーは、淀殿、徳川からは阿茶の局、常高院(じょうこういん、淀殿の妹)。
これは女性が主役を務めた、和平会議で、淀殿をはじめとした日本の女性陣の意識の高さに、私は感動を覚えました。
それに、淀殿は、冬の陣の後、堀を埋めたことで、もはや勝算なし、とみていたのでは、と私は想像します。
では淀殿の想いとは別に、なぜ夏の陣は始まってしまったのか、というと、秀頼の強い希望のほかに、徳川家康の策略にハマってしまった、と言うのが大きな原因でしょう。
淀殿、家康の策略にハマる?
どこから家康の思惑がわかるかというと、
冬の陣の原因の一つななった、方広寺の鐘の銘の事件(国家安康)によって戦に持っていく、と言うのは家康のいちゃもん以外に考えられません。
夏の陣への、導入としても、豊臣方に
- 秀頼は国替をして大阪城を出ること
- 徳川の一大名として参勤交代をすること
- 淀殿を人質として江戸に送る(これは淀殿は応じるつもりでいた)
と、豊臣方のプライドを傷つけるような内容満載の難題を送りつけた、それに豊臣が耐えられなくなり、淀殿にも抑えることがきなくなりました。
さらに、大阪城に仕えた浪人たちの不満、その全てが一気に戦に向けて進み出した、と言うところだと私はみています。
結局、豊臣家は滅ぶべくして滅んだ。としか見えません。
まとめ
淀殿が悪女と呼ばれたのは、秀吉の人気や女性への偏見、そして徳川家に都合がよかったからです。
でも史料を見ると、侍女を逃がしたり、牢人の生活を守ろうとしたりと、気配りのできる人だったとわかります。
夏の陣も本当は避けたかったのでは、と私は思います。
悪女の姿は、後の世が作ったものだったのですね。
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