豊臣秀次は美形だった?肖像画はどう語ってくれるでしょう?
女好きの逸話、の一方高い能力、を持つ。
それなのに心の病からやがて悲劇へ。「豊臣兄弟。」で注目の人物の知られざる素顔に迫ってみました。。
豊臣秀次、美形?
豊臣秀次役が、山田涼介で盛り上げっています。えらく美形な秀次さんですね。
実際の、豊臣秀次が美形かどうかは、わかっていません。
私の結論では、実物の豊臣秀次は大して美形ではない、と思っています。
残されている、豊臣家の肖像画、その他の判断材料からそう思えます。
まず、伯父の豊臣秀吉ですが、秀吉の残されている肖像画は「猿」と言うあだ名の通り、美形とは言えない。
秀次の母親は秀吉の姉で、秀吉とは同じ父母をもつため、その容貌には、あまり期待できそうもない。
母・ともの夫も、農民の出身で、そんなに顔のいい、と言う評判はないので、両親に似ていたとすれば、そんなに美形になるとは、思えません。
もし、秀次に美形の噂があるとすれば、それは成長してからの生活環境が影響したのだと思います。
武将たちの間で育ち、それ相応の扱いを受けていれば、必然的に美しい所作、教養が身に付いてくるものです。
顔立ちもそれなりに、高貴になっていくものです。
豊臣秀次に「もみあげ」がある?
豊臣秀次のものと伝わる肖像画でよく見かけるのが、長いもみあげです。
特に有名な肖像画は、京都三条にある瑞泉寺に模写で残されている「豊臣秀次、及び眷属像」に見られます。
京都の地蔵院にも、豊臣秀次の肖像画がありますが、こちらには、もみあげは描かれていません。
瑞泉寺の肖像画を見て、歴史作家の吉川英治(よしかわえいじ)は、小説「新書太閤記」の中で、秀次の顔立ちの特徴の一つとして、「もじゃもじゃと長いもみあげ」と書いています。
武将のもみあげは、当時流行していたようで、秀次以外にも、蒲生氏郷(がもううじさと)の立派なもみあげが描かれた肖像画もあります。
もみあげは、流行していただけではなく、人を強そうな武将に見せるという効果もあるので、絵画の場合は、実際以上に盛って描かれている部分もあると思います。
もみあげは、瑞泉寺と地蔵院の両方の肖像画に共通する要素ではありません。
もみあげは、人を強そうに見せる効果がある一方、悪人っぽく見せる効果もあります。これじゃあ、イケメンにならないですよね。
瑞泉寺の肖像画は江戸時代に入って描かれたものなので、豊臣秀次、イコール悪人というバイアスが働いてしまい、悪人ヅラに描かれてしまった、と私は考えます。
実際は、普通だったのではないでしょうか。
豊臣秀次の肖像画
京都の瑞泉寺にある『豊臣秀次、及び眷属像』をくわしく見ていきましょう。
豊臣秀次の肖像画、徳川時代に描かれる?
肖像画に見られる、豊臣秀次の様子は、目は切れ長で吊り上がった顔立ちで、見る人に知的で凛とした印象を与えています。
そして服装も烏帽子をきちんと被り、関白を示すような直衣(のうし)を着用しています。
この肖像画が書かれた時期は、瑞泉寺の記録によると、豊臣秀次の死後150年忌が1744年に行われ、その時期に描かれたとあります。
その絵師は狩野正楽(かのうしょうらく)が描いたと、伝わっています。
秀次の死後150年ということは、もう徳川の時代になっていますね。
豊臣秀次の肖像画と法要の意味
150年にもなって、徳川の敵だった豊臣の記念の回忌法要をなぜ行ったのでしょう?
徳川は、豊臣政権を滅ぼして、自らの政権を作り上げたので、豊臣は悪者として扱っていました。
豊臣家の残虐性を、徳川は証明したかったので、豊臣秀次が「殺生関白」と呼ばれたのは豊臣家を貶める一つの材料です。
その秀次が、実の伯父の手にかかって、処罰され、秀次の身内までも処刑されてしまいました。
一方、この事件の首謀者は実は秀吉である、ことを江戸時代の人々に徳川家は印象付けることを、徳川幕府は狙っていました。
そのために、秀吉が禁じていた、豊臣秀次への供養をあえて徳川家が行い、徳川は正当である、と人々に見せつけたかったからです。
それと同時に、汚名を着せられて処罰され非業の死を迎えた、豊臣秀次が怨霊とならないように、その菩提を弔う、という意味もありました。
過去に、非業の死を遂げた人々は、日本を脅かす怨霊となり国に災いをもたらす、と信じられていたからです。
豊臣秀次、女好き?
秀次が女好き、と見えるのは、側室が約30人もいたからではないでしょうか。
秀次処刑の後に、側室や子供たちもすべて、連座責任で処刑されました。
戦国時代では側室がいっぱいいるのは女好きだから、と言う結論にはなりません。
戦国時代は、武将は子孫を増やし家名を残すため、子供は大勢いたほうがいい、大勢の子供を望むには、たくさんの妻がいたほうがいい、という考えがありました。
また、武将同士の結婚には政略的意味もありました。同盟を結ぶ、などが大きな理由で、側室をたくさん持つ傾向がありました。
例えば、徳川家康には側室が20名ほどいました。
そのせいか、徳川の時代は270年近く存続しました。
ですから側室の数だけ見る限りでは、決して女好きとは言えません。
女好きの放蕩ものと言う話は、捏造されたもので、その目的は、豊臣秀次を貶め、処刑されても仕方がない、というイメージを植え付けるためでした。
これは秀吉が秀次から人民の心を引き離したいために流した話でした。
「豊臣兄弟」の豊臣秀次像は?
2026年大河ドラマ「豊臣兄弟」では秀次は、山田涼介がキャスティングされています。
豊臣秀次、「戦国の王子」?
山田涼介、確かにイケメンで、豊臣秀次の衣装・メイクをした姿はまさに「美形」です。
NHKの「豊臣兄弟」制作側は、豊臣秀次のような人物を、戦国時代のZ世代と位置付けています。
戦国時代にいながら、現代でもこんな若者いるかも?と思わせるようなキャラクターに、作られています。
では、山田涼介版豊臣秀次はどんなタイプになるかというと、合理性を大切にし、多様な価値観を持ち、一つのことに縛られない、が失敗やリスクは避けたい、人物かと予想します。
今回の「豊臣兄弟」の豊臣秀次は外見から判断すると、チャラい感じに私は見えます。
イケメンでチャラっぽく見えるから、女性にモテるタイプでしょうか?
豊臣秀次の両親は、とも(秀吉の姉)でその夫も農民の出身なので、もとより公家のような高貴な身分ではありませんが、
幼い頃に伯父・豊臣秀吉が出世してなのある武将になり、秀次はその養子になるため、高貴な身分となるので、いわゆる「王子」タイプになるでしょう。
すでに、公式のSNSで公表された、山田涼介の豊臣秀次のスタイルは「大河ドラマ史上最強に美しい」とか「戦国時代の王子」と評判が高いです。
美しすぎる関白・豊臣秀次の運命?
美形であった、ということは女性たちが放っておかない?という予想ができます。
豊臣秀次が美形すぎたがことが、秀次の運命を決定づけることになるのでは、と想像しています。
美貌にはまったく無関係だった、秀吉の秀次に対する嫉妬心が起きる事態は来るのか?
「豊臣兄弟」の中では、何事にも恐れず自己主張が強くそれでいて、軽やかな面を持ち合わせてリる、という設定です。つまりボンボンなのですね。
男子がなかなか生まれない豊臣家、特に秀吉が後継者を欲しがっていたため、秀次は秀吉の養子となります。
そして、秀吉の天下取りの夢を引き継ぐ者になります。
秀吉や豊臣一族からの期待が、秀次には重くのしかかっていたのでしょうか?
そんな、豊臣秀次を秀吉が、はがゆく思っていた中に、秀吉に実の息子秀頼ができた、という流れです。
秀吉は、秀次にではなく秀頼に未来を託したくなります。なんといっても実の息子ですから。
しかし天性のものでしょうか?秀次には人気があります。イケメンの威力は素晴らしいですね。
が、やがては、秀次は秀吉から、関白の地位を奪われ、死、という最後を迎えます。
豊臣秀次の美貌に嫉妬した、秀吉という流れも見えそうですね。
豊臣秀次の能力は?
関白のくらいについた豊臣秀次ですが、統治者としての能力は優れたものがありました。
関白になって秀次は、朝廷や公家たちとの、交渉・政治的やり取りはそつなくこなしていた、ということが、朝廷の官僚・吉身兼見(よしみ兼見)が『兼見卿記』に詳しく書かれています。
豊臣秀次は自らの領地・近江八幡の城下町の整備のための政策を、的確に行ったことが、現在にも残っている、朱印状、書状から伺うことができます。
豊臣秀次の武将としては、非常に強い武将、ではありませんでした。
しかし「小牧・長久手の戦い」では苦戦しましたが、そのほかの小田原征伐、四国征伐では、そこそこの成果を残しています。
歴史上の結果から作られた歴史シミレーションゲーム『信長の野望』シリーズでは、政治・知略ともに数値が安定しており、バランスの取れた武将として描かれています。
こうしたゲームは創作ではありますが、個人の実際の能力、当時の人気をベースに作られているので、侮ってはいけない、と思っています。
豊臣秀次は病があった?
豊臣秀次は、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)という医師の診察を受けていました。
曲直瀬原作自身が、「医学天正記」という医療記録の中に記されています。
その中によると、豊臣秀次には喘息など、持病があったとのことです。
豊臣秀次は「うつ」か?
豊臣秀次は時々、情緒不安定、心身の不調というような鬱症状を疑われることがありました。
それは、当時の公家の日記「言経卿記」(ときつねきょうき)、「時慶記」(ときよしき)、また秀次の側近の日記「駒井日記」(こまいにっき)に記載があります。
結果として、今日言われる、鬱という症状に陥ってしまっていた、とここから推測できます。
ですから、のちに豊臣秀次は、高野山に蟄居を命じられたときに、誰もそばにいない苦しみに耐えきれず、自害を企てた、という推測も最近ではされるようになりました。
「言経卿記」、「時慶記」にある記述
公家の日記には、1593年ごろから情緒不安定な様子が見られていた、とあります。
周囲が驚くような、軽率な行動、おかしな行動が目につき始めました。
1593年、正親町上皇が亡くなり、関白であった豊臣秀頼は、喪に服さなければならなかったはずなのに、それを怠り、しかも狩猟に行ってしまった。
狩猟に行って、さらに肉を食べたというのだから、秀次がとった行動は常軌を逸していると言われるのでした。
当時では、天皇、上皇のような尊い身分の人が死んだ場合は、殺生・肉食を禁じるという風習があったからです。
この史料から読めるのは、豊臣秀次が、上皇に対する弔意を怠った行動そのものを「おかしい」と朝廷側からも秀吉側からも見られていた、ということです。
「駒井日記」の記述
駒井日記は、豊臣秀次の家臣・駒井重勝(こまいしげかつ)が書いていたものです。
これによると、確かに、豊臣秀次は体調不良になって、政務が疎かになることもあり、寝込むこともあった、ということです。
この理由は、日記には「気鬱」から来るものと書かれており、秀次に過度なストレスがかかっていることの現れでした。
豊臣秀次は1595年に医師の、曲直瀬玄朔を呼び寄せて診察を受けていることから、1793年の秀頼誕生に関係しているとの推測ができます。
しかし、医師を呼び寄せたのは問題で、秀次と同時に身体の不調を訴えていた、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の治療を後回しにしてしまったからです。
この事件は天皇を軽んじた、と非難され、豊臣秀吉も秀次に対し、大層怒りました。
豊臣秀次が、秀吉に逆らったという点で、切腹を命じられることになったきっかけも、この辺りが大きく影響している、と私は思います。
豊臣秀次は喘息持ちだった?
豊臣秀次が喘息持ちだったということは、当時の医学記録では・曲直瀬玄朔の記録「医学天正記」(イガクてんしょうき)に書かれています。
曲直瀬玄の治療を、豊臣秀次は受けてはいましたが、完治した話は記録されていません。
「医学天正記」には、秀次がいつから喘息持ちだったかまでは書いてありません。
秀次の喘息がひどかった時期は、1592〜95年あたりでしたが、この時期にひどいということは、もっと以前から、ひょっとしたら生まれつきの喘息持ちだったかもしれません。
秀次の病状の進行?
喘息がひどくなったことは、秀次にかかってきたストレスとは無関係ではありません。
ストレスは、自律神経や身体の免疫体系に悪い影響をあたえ、気道が狭くなるという事態を引き起こすことがあります。
気道が狭くなり自律神経の乱れで、喉の筋肉の収縮がうまくいかなくなると、喘息にとっては悪化します。
また、喘息がひどくなると、病人の気力も失われてきます。
ストレスとともに、うつ状態になるのもある意味、当然ですね。
豊臣秀次が正式に、秀吉の正式な養子になったのが592年、秀次は関白への道を進みます。
その1年後に、秀頼が生まれます。
ここから考えられるのは、豊臣秀次はここで非常なプレッシャーを感じそれがストレスになっていた、ということです。
そのプレッシャーが、豊臣秀次の心身を蝕むようになります。
豊臣秀次の様子は、側から見るとやる気がなく、自分勝手な振る舞いをしているように見えます。
秀次の様子は、秀吉にははがゆく見えて、秀吉の後継者には相応しくないと感じます。
秀吉にとっては、秀頼の誕生にかぶさるように、秀次の奇行が現れてくれたのはむしろ「良い機会」になった、と思えたのではないでしょうか。
まとめ
豊臣秀次、本当に美形だったのでしょうか。
肖像画のもみあげが美形でなく見えますが、実は、「殺生関白」という悪いイメージが働いて、悪人ヅラに描かれてしまったのでは、と考えます。
側室が約30人もいたから女好き、と見えますが、それだけでは結論にはなりません。
これは秀次を貶めるために、秀吉が流した話ではないでしょうか。
関白になってからの秀次は、朝廷とのやり取りや城下町の整備など、なかなかの能力を発揮していました。
しかし秀頼が生まれてから、秀次には重いプレッシャーがのしかかり、喘息やうつのような症状がひどくなっていきます。
そして秀吉からは、はがゆく思われるようになり、やがて悲劇的な最期を迎えることになるのです。
豊臣秀次は「殺生関白」などと、悪い評判がありますが、それについては、こちらの記事をお読みください。

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