「豊臣兄弟」11月1日放送に突如登場した少年・鍋丸。
実は史実の豊臣秀保がモデルでありながら、ドラマでは血縁のない「直」の遺児という大胆なオリジナル設定です。
幼名は本来「御虎」なのに、なぜ「鍋」なのか。
秀次との不穏な空気は何を予感させるのか。
史料をひもとくと、17歳で早世した秀保の実像や、妻をめぐる二つの説、さらには江戸時代に流された「悪い噂」の真相まで見えてきます。
ドラマと史実の違いから、豊臣家崩壊への伏線を読み解きます。
「豊臣兄弟」、鍋丸は実在?
「豊臣兄弟」11月1日放送に、鍋丸という新しい登場人物が現れました。
鍋丸は、実在ではないが実在である、というのが事実です。
鍋丸は1588年、鍋丸、豊臣秀次の養子になります。名前は豊臣秀保という名前になります。
豊臣秀保は実在の人物です。
豊臣秀長が養子にし、秀保と名をつけた子供は確かにいるが、史実では「鍋丸」がそれには当てはまらない。
でも確かに養子にした、秀保はいる。それは、姉夫婦の息子の一人だったのでした。
「鍋丸」が将来の「秀保」になることが運命づけられている、と私は見ています。
しかし、鍋丸という名前は、「豊臣兄弟」で初めて出てきた名前です。
豊臣秀保になる人物が幼少だった時の名前が、史料に出てくるのは「御虎」、「於虎」(どちらも「おとら」)です。
「鍋」と「虎」全く関係ないネーミングです。
なぜ「なべ」を使ったか?がSNSでは、少年の母親「なお」の「な」と「なべ」の「な」を関連付けさせたのではないか?
「鍋」という名から、庶民出身を視聴者に印象付けようとしたのか?とSNSでは、みられています。
「豊臣兄弟」鍋丸、誰の子供?
鍋丸くんは、「豊臣兄弟」では、見知らぬ人の子供になっています。
鍋丸、のちの豊臣秀保はある意味では、オリジナル登場人物ということができます。
豊臣秀次が若い時、惚れて妻にした女性・直が、盗賊に襲われた子供を自分の命を引き換えに、助けたのですが、その少女の子供が鍋丸、これが「豊臣兄弟」での設定です。
鍋丸は、姉・ともの息子?
鍋丸は史実では、秀吉の姉・ともとその夫・三好吉房(みよしよしふさ)との間の子供(三男)と「寛政重修諸家譜」、「多聞院日記」書かれています。
特に「多聞院日記」には、奈良の興福寺多聞院の僧侶たちの日々の日誌なので、当時のリアルタイムの出来事が書かれています。
同じ「多聞院日記」には、「とも」と三好吉房の息子・鍋丸が豊臣秀次の養子になったことが書かれています。
「豊臣兄弟」では、命を救われた少年・鍋丸が直の父、坂井吉左衛門(さかいきちざえもん)に育てられた設定です。
鍋丸は、「とも」夫婦の息子ではない?
なぜとも夫婦の息子ではないと言い切れるのか?
それは、鍋丸こと豊臣秀保の生まれた年齢を考えると、鍋丸を生んだ時の母の年齢が、46歳になるからです。
かなりの高齢出産ですね。
出産時の医療事情を考えると、今以上に高齢出産は厳しいですが、それでも絶対に産めない、というわけでもありません。
できないことはない、と言っても戦国時代としては、かなり無理がある設定なので、とも夫婦の子供説は、ここから排除してよい、と私はみています。
「豊臣兄弟」鍋丸は何歳?
「豊臣兄弟」を見ると、鍋丸は登場したときは、8〜9歳あたりです。
もし、鍋丸のモデルを、豊臣秀保と見て、鍋丸の年齢を出してみました。
豊臣秀吉の「北野の茶会」が行われたのが、1587年、豊臣秀保の亡くなった年が史料から1595年、とわかっているので、逆算すると、産まれた年が1579年、と見ることができます。
豊臣秀保の死については「駒井日記」、「多聞院日記」からわかります。
豊臣秀長は、1591年に亡くなる、のですから、鍋丸は、あとほんの数年しか、父と過ごすことができません。
直と同様、この鍋丸くんもかわいそうな思いをすることになりそうです。
「豊臣兄弟」鍋丸、史実と違う理由?
史実と何より違うところは、鍋丸が豊臣家と血縁関係のない子供である、ということです。
「豊臣兄弟」前半に、『直』という、視聴者の心を強くつかんだキャラクターが登場しました。
『直』を物語後半へと関連付ける存在が、鍋丸だったのです。
yahooニュースなどで、鍋丸登場の理由が、取り上げられています。
- 無償の愛を示した直の想いが再び巡り、豊臣秀長の養子となり、秀長の助けになる
- 秀長の妻・慶の慈愛を描き出している
ということです。
特に、慶の気持ちを掻き立てたのは、鍋丸も与一郎(慶の息子)も同じ干し柿が好きだということ。
この子供を秀長・慶夫婦が引き取ることが、『豊臣兄弟』をより一層、ホームドラマっぽくしていきます。
『豊臣兄弟』がホームドラマ風に仕立てる、これがNHKや制作者たちの、2026年度の大河ドラマのコンセプト、なのだ、と私は納得するようになってきました。
これから、豊臣家には、様々な悲劇が起こります。その前のただ一つの暖かい光景として、鍋丸くんが用意されたのでは、と私は考えます。
「豊臣兄弟」鍋丸、どんな活躍を?
1588年4月に、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が聚楽第を訪れました、これを「後陽成天皇図落第御幸」とよんでいます。
その時の侍従を務めた少年が、豊臣秀保と思われています。
その子供は「御虎侍従」と呼ばれていました。御虎というのが、秀保の幼名と、思われています。
1591年、12歳の豊臣秀保は、正四位下の位を受け、参議という官職について「羽柴大和宰相」(はしばやまとさいしょう)と呼ばれるようになります。
12歳(13歳とも言われる)で大和宰相と言われても10歳そこそこなら、当然実務などできるはずもなく、重臣たちに支えられての公務だったはずです。
ではなぜ、こんなに若くして宰相のくらいについたか
- 1591年に豊臣秀次が亡くなり、後継者が必要だったから
- 秀吉が、血縁を優遇して、一門を中心とした政治のあり方を考えていたから
そろそろこの時期から、豊臣秀吉のゴリ押しにもみえる、身内びいきが始まってきました。
何がなんでも身内で固めたい、というところです。
現代の私たちが、身内中心に傾く秀吉を見ると、非常に豊臣家危うし?に見えませんか?
鍋丸くんの多いなる出世ではありますが、どうもここから、豊臣家崩壊の予感を私は感じてきます。
「豊臣兄弟」鍋丸を、豊臣秀次は嫌い?
そんな不穏な空気が、11月1日の「豊臣兄弟」から感じられました。
- 豊臣秀次が、「小一郎(豊臣秀長)に自分は嫌われている」という思いを口にしたこと、
- 鍋丸を、秀長の養子にすることに反対したこと
以上二点が、これからの悲劇の予兆になる、と私は感じました。
秀次と秀保の、対立具合、というより秀次が秀保を嫌っている、というのは、のちのストーリーの伏線になる、創作と見えます。
秀次が、鍋丸を養子にしたくない、という考えは、豊臣秀吉の身内優遇主義を秀次ももっていたのだな、と感じられました。
史実では、お互いが嫌い合っているところは見当たりません。
それどころか、二人は実の兄弟(秀次は長男、秀保は三男)なので、むしろ二人は協力し合わなければならない、間柄です。
兄弟といってもお互い憎しみあったいる兄弟もいるので、一概に兄弟だから仲がいいはず、とも言えませんが…
しかしこの二人は、支え合うつもりであったことが、史実から伺われます。
豊臣秀保は17歳で、この世を去るのですが、そのとき秀次は、自分の息子を秀保の養子にして、大和大納言(豊臣秀長の家系)を継いでいこうと考えていたことが、
秀次の側近・駒井重勝(こまいしげかつ)が書いた「駒井日記」に記されています。
豊臣一族で、政権を固める考えを秀次も叔父と同じく持っているとしたら、史実の秀保は、まさに実の兄弟なので、絆を大事にしたことは、わかります。
しかし、秀保が『豊臣兄弟』の鍋丸だとしたら、だいぶ話は違ってくる、と思いますが、この展開は、豊臣家を左右するだけに、目が離せない展開です。
「豊臣兄弟」、鍋丸(豊臣秀保)の妻は?
鍋丸は、豊臣秀次のむすめ1591年、結婚しました。
1591年と言えば、豊臣秀次が亡くなった年で、豊臣秀保はまだ13歳。
豊臣秀保、秀次の娘と結婚
豊臣秀保の妻の名前ですが、「御末」と「お三八』(おみや)と二つの説が上がってきています。
「御末」と言えば、「豊臣兄弟」でもすえという娘が出てきて、番組を賑わせました。
ところが、秀保の妻の名前は誰?というと、実のところ名前は不明なのです。
豊臣秀保の妻を、御末と見れば、これは年齢が合いません。
御末のことを記している「毛利家文庫天正記」によると、おそらく1581年より以前に生まれていて、1891年には10歳を超えている。
しかし、豊臣秀保の妻になった娘は、1587年頃生まれ、「多聞院日記」に書かれています。
おみやと見られる娘が生まれた時、豊臣秀長は、奈良県桜井市にある長谷寺に、娘誕生の記念の釣灯籠を寄進しているからです。
豊臣秀保の結婚については、記録が残っています。
「多聞院日記」には、1591年に、仮の祝言を、そして「駒井日記」には1594年に正式な婚礼(本祝言)を上げたことがそれぞれ書かれています。
豊臣秀保の妻の候補はなぜ二人?
史料を見ていると、鍋丸こと豊臣秀保の妻になったと見られる、秀次の娘の二人ですが。
二人の名前があるのは、豊臣秀保と結婚が予定されていたのは、姉の御末だったかもしれなせん。
その可能性を、「豊臣兄弟」の時代考証を務める、黒田基樹氏は次のように解釈しています。
豊臣秀保の嫁候補は最初、御末だったが、御末は、秀保と婚約中に亡くなってしまった。
豊臣秀長は、病気で、1591年に亡くなったのですが、その亡くなる直前、なんとしても自分の後継をを決めるために、秀保をまだ幼い娘・おみやと結婚させることにしたのではないか、と。
もし御末と秀保が結婚することになっていた、としたら、御末の方が年上となります。
養子や政略結婚でしたら、女性の方の歳が上の結婚は珍しくありませんが、「豊臣兄弟」での年齢設定をみると、御末はかなり年上ということになりそうです。
豊臣秀保が鍋丸として、秀長の居城に来たときは、御末はもはや、年頃になり、少年の鍋丸との結婚は、ちょっと難しいかも?と私には見えました。
ですから、豊臣秀保と御末の婚礼は、「豊臣兄弟」では全く考えていないのだな、と推測しています。
「豊臣兄弟」鍋丸(豊臣秀保)の死因
豊臣秀保は、17歳で亡くなります。
死因は、疱瘡(てんねんとう)だとされています。
しかし、病気にかかった当初は、麻疹にかかったのでは、とも疑われています。
発疹が出た、というだけでは、疱瘡か麻疹かはわからないですね。
豊臣秀保の病気の記述は、豊臣秀次の側近が書いた「駒井日記」にあり、病気は「疱瘡ではなく、『ゆぼろし』では?」という記述もあります。
疱瘡とは天然痘のことで、全身に水疱ができて、治っても水疱の後は残って跡が残り、日本では度々流行した病気で、致死率は高いです。
ゆぼろしとは麻疹、または発疹が出る病気のことを指します。
「駒井日記」によれば、病気療養のため大和国十津川に行っています。
これも、疱瘡ではなく、麻疹かもしれない、という報告に、秀次や秀吉も少しは安心していたようですが、容体は急変し、4月16日早朝に亡くなりました。
ただ、豊臣秀保の死に関しては、現代の科学的調査ができないので、疱瘡、麻疹どちらかの病気、とされています。
豊臣秀保の死に関する噂?
豊臣秀保の死に関して、あまり良くない噂が立てられています。
- 秀保は、自分の呼称に川に飛び込むよう命じたものの、小姓の巻き添えで、秀康も命を落とした
- 秀保は殺生禁止の川で魚を釣って食べたために神の怒りに触れ、命を落とした
というような豊臣秀保が、無分別な乱暴者のため、早死にした、という話が江戸時代、それも豊臣秀保の死後180年近く経ったときに、語られています。
こうした話は、デマで、豊臣を悪役とする徳川幕府がわざと流した話でした。
徳川の安定した世の中を作るため、豊臣を悪役にして、徳川を持ち上げる、そんな策略が徳川幕府にはありました。
でも、豊臣秀吉は江戸時代でも人気がある人物だったので、秀吉そのものを攻撃しないで、秀吉の周辺が悪い、という筋書きにしてしまったのが徳川時代でした。
豊臣秀次が殺生関白として知られているので、あの殺生関白の実の弟なら、これぐらい無理難題を部下に押し付けることもあるだろう、という勝手な考えのもとに創り出した創作ですね。

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