羽柴与一郎、死因、最後、どうなる?年齢?実在した?父親は?なぜ養子の設定?妻の存在!その後の豊臣家は?

豊臣兄弟

大河ドラマ「豊臣兄弟」で秀長の息子、羽柴与一郎が死を迎えます。

与一郎は史実では、秀長の実子で実在人物。

史実では天正10年頃早世、死因は病死説(秀保との混同とも)、もありますが「豊臣兄弟」では山崎の戦いの傷が原因で死去します。

養子設定は後継問題を描くための脚色で、死後は千丸(藤堂高吉)や、丹羽長秀の息子などを経て秀保が秀長家を継ぎました。

羽柴与一郎の存在の秘密を詳しく調べました。

「豊臣兄弟」羽柴与一郎の死因に見る、歴史のスキマを突いた巧み な設定

大河ドラマ「豊臣兄弟」を見ていて、ふと気になったことがあります。

羽柴与一郎(秀長)の死因について、ドラマではどう描かれていたか、そして実際の史料では何がわかっているのか。

調べてみると、これがなかなか興味深い話でした。

ドラマでの描かれ方

山﨑の戦いに向かった羽柴与一郎は、織田信孝・丹羽長秀の軍が秀吉の軍勢に合流するため
の、伝令の役割を担います。

そして与一郎の死因は、「戦死」ではなく「戦傷死」として描かれます。

現代の感覚で言うと、戦争が原因で命を落とした人、という分野に分類されるところですね。

与一郎が亡くなったのは1582年、本能寺の変からそれほど時間が経っていない時期。

この状況から、「本能寺の変に関わる戦いで命を落としたに違いない」という推測を、ドラマでは
採用しているようです。

史料ではどうなっているのか?

ここが面白いところなのですが、羽柴与一郎の死因について直接触れている史料は、実は見つ
かっていません。

戦国時代は公衆衛生が発達していませんでしたから、傷が治らずにそのまま亡くなる、という
実態は非常に多かったと思われます。

ドラマの「戦傷死」という設定は、そうした時代背景を踏まえた、説得力のある解釈と言えそうです。

一方で、「病死」だったのではという見方もあります。

これは「森家先代実録」の中の記述に基づくもので、そこには秀長の息子が1582年に亡くなったとあります。

同様の記述は、「高山公実録」の中の『郡山城主記』にも見られるそうです。

これらの史料を研究した柴裕之氏(「豊臣兄弟」の時代考証を務める)は、著書「豊臣秀長シ
リーズ・織豊大名の研究」の中でも、秀長の息子の死について触れています。

ただし、「高山公実録」も「森家先代実録」も、まだ事実として確定しているわけではありません。

そのため、柴田博之氏や、「豊臣兄弟」の黒田基樹(「豊臣兄弟」の1人の時代考証者)は、これを史実そのものとは見ていないようです。

黒田氏は、病死したのは秀長のもう一人の養子である豊臣秀保(ひでやす)ではないか、と考
察しています。

真実がわからないからこそ

こうして史料を追ってみると、羽柴与一郎の死因は、実のところ何一つ確定していないことが
わかります。

でも、だからこそ、ドラマの「戦傷死」という設定は、歴史のスキマをうまく突いた、巧みな
作り方だと感じました。

史実として断定できない部分を、物語としてどう補うか。そのバランスの取り方に、制作陣の工夫を感じる場面でした

羽柴与一郎の最後

その途中、明智光秀軍にと遭遇し、その時、明智軍から矢をいかけられて傷を負います。

矢は、織田信孝を狙ったもので、それを庇って、身代わりとなって傷を受けます。

その時は、まだ命を落とすには至らず、山﨑の戦いで、豊臣方が勝利した後は、長浜城に戻り、治療を受けました。

その治療はうまくいかず、周囲が懸命の看病をしても、よくならず、羽柴与一郎は、亡くなりました。

「森家先代実録」では、奈良の十津川温泉に湯治に行き、そこで亡くなってしまう、と書かれていますが、

それは実は、のちに養子になった羽柴秀長の甥・豊臣秀保と混同されている、ようです。

羽柴秀保が十津川温泉で亡くなることについては、「多聞院日記」(奈良の興福寺の僧が記した日記)、「駒井日記」といった、現代では信頼性の高いとされる史料に書かれています。

それに、羽柴与一郎が傷を受けてから、死亡までの日数をみると、湯治にまで行くほど回復はしなかったのでは、と私は見ています。

羽柴与一郎、どうなる?

羽柴与一郎は、山﨑の戦いに父・羽柴秀長(のちの豊臣秀長)と共に、出陣します。

1582年6月2日(旧暦)、織田信長が家臣・明智光秀の手で、本能寺で討ち取られ、その弔い合戦に、豊臣秀吉、羽柴秀長など、織田信長の重臣たちが、参戦します。

山崎の戦いは、1562年6月13日に行われた戦いです。これは本能寺の変から11日後のことです。

織田信長の遺臣たちの動きが、いかに素早かったかを、示しています。

羽柴与一郎も、山﨑の戦いに、豊臣家の人々と共に戦いました。

「豊臣兄弟」によると、与一郎は自分から名乗りをあげて、出陣の意思を表しています。

母の、慶(ちか)は、その時悪い予感がして、不安がある様子を見せていました。

このシーンはドラマの、創作であると思われます。

というのも、戦国時代では、武士の家に生まれた者ならば、元服を終えたのなら、戦闘に参加するのは当然のことであったで、親たちも、その心づもりがありました。

秀長の息子の場合は、秀長もその兄・秀吉も生まれは武家ではなかったので、そこまで武家の義理に縛られることはない、とは思うのですが。

豊臣兄弟の2人とも、信長の家臣となって、武家となって生きる道を選んだ、というのなら、主君への義理を果たそう、と考えていたと自分は思います。

その想いに、息子(義理という設定ですが)、も同調していたのでしょうね。

羽柴与一郎の年齢は?

享年、というのは、人が亡くなった時の年齢です。

羽柴与一郎の年齢は、亡くなったのは13〜15歳くらい、と見られています。

実は、羽柴与一郎については、生年がはっきりしないのです。

「高山公実録」、「森家先代実録」では、羽柴与一郎は本能寺の変の年、1582年(天正10年)に亡くなったことが、書かれています。

与一郎が死去した時のことは、「高山公実録」内の『郡山城主記」に書かれており、与一郎という名前は仮名(けみょう、正式な名前の諱でなく、通称)だった、とありました。

ということは、亡くなった時にはすでに元服を済ませていた、ということになります。

戦国時代の男子の元服早く、10代初期のうちに行われることが多かった、とのことです。

それだけ、戦が多く、男子を生まれたからには、一刻も早く手柄を立てて、時期当主であることを宣言する必要があった、ということでしょうね。

羽柴与一郎は実在した?

羽柴与一郎という人物は、その存在は確認されています。

実在はしていますが、その立場には謎が残ります。

「高山公実録」、「森家先代実録」に記述があり、それについては信頼性はまだ検証中です。「豊臣兄弟」の時代考証を務める黒田基樹氏も、そのように言っています。

これら二つの文献では、羽柴与一郎は、羽柴秀長の義理の息子(妻・慶の連れ子)ではなく、実子、それも長男、ということです。

「高山公実録」の「郡山城主記」の章によると

『秀長の御実子は、早くに亡くなられたので、丹羽長秀の三男・千丸が秀長の養子になった』ということが、書かれています。

『早くに亡くなられた子』こそが羽柴与一郎でした。

しかし、秀長の実の息子が、羽柴与一郎だという確かな証拠はまだ見つかっていないので、「豊臣兄弟」のような、妻・慶の連れ子、という設定も出来上がるのです。

羽柴与一郎は、秀長の妻・慶(のちの慈雲院)の前夫の子である、とも、前夫の子ではない、というどちらも根拠がありません。

先ほど述べた、「森家先代実録」には、羽柴秀長は江戸時代に書かれているため、信頼性が薄いのです。

羽柴与一郎の父親は?

羽柴与一郎の父親について、残されている史料から見ると、羽柴秀長、なのですが。

「豊臣兄弟」の中では、実の父とされる人物の名前は、一応、堀池頼広(ほりいけよりひろ)という名前、ということが言われています。

祖父である人物は、堀池頼昌(ほりいけよりまさ)という名前で登場しています。

奥田瑛二さんがキャスティングされていました。なかなかの頑固爺さんでしたね。

斎藤家の元家臣、という設定でした。

この祖父に羽柴秀長は、頭を下げて、与一郎を養子に貰い受けるのでした。

この回では、秀長の妻・慶もツンデレの仮面を脱ぎ捨てて、秀長と心を通じあう、というシーンが描かれました。

この息子クン、与一郎は、父と母を結びつける、という重要な役割を話している、と思います。

羽柴与一郎はなぜ、秀長の養子という設定?

羽柴与一郎は、これまでの史料に基づいて言えば、秀長の実子である確率の方が高いですね。

では、「豊臣兄弟」ではなぜ、秀長の養子という設定だったのでしょう?

これはドラマの、フィクションなのですが、その理由は、秀長の妻となった「慶」(ちか)の存在と秀長の人間性の成長のため、と思われます。

ツンデレのが、秀長の妻になるまでに、慶の内面は徐々に変化を遂げていきました。

過去にすでに結婚、その相手との間には息子がいる(その息子が『与一郎』)、夫はすでに戦死、と複雑な背景がありました。

そこを全て受け入れたのが、羽柴秀長(のちの豊臣秀長)。

「豊臣兄弟」では秀長と慶の出会い、与一郎を秀長が養子に、やがて死に至る、というプロセスが大切だったのでは?と、今振り返って私は考えています。

秀長の妻として慶に相当する女性・慈雲院の存在は、史実では、知られており、2人は仲が良かった、ということが語られています。

ですから、そのモデルと言われる「慶」の性格をはっきりと描き出すことが、ドラマでは必要だったのだと、思います。

秀長・慶夫婦の絆を強めるために、登場させてきたのが、「養子としての与一郎」なのです。

与一郎を養子とすることで、秀長の与一郎に対する愛情は、秀長の人物像を描き出しました。

与一郎を実子としてより、養子として登場させる方が、秀長の人間的な面がよりはっきりと見えてきますし、

今後の「豊臣兄弟」で秀長の活躍を際立たせる伏線となること間違いない、と私は見ています。

秀長には、確かに養子がいて、その人物が秀長の後を継いでいます。

その人物は、秀長の姉・ともの三男・秀保(ひでやす)です。

秀保も、17歳という若さで死んでいます。

「森家先代実録」には、『与一郎が紀州十津(十津川)の温泉で病死した』、と書かれていますが、これはどうも秀保の死亡のことと、混同されている?と最近では見られています。

羽柴与一郎、妻がいた?

羽柴与一郎には、妻がいました。

15歳ほどで、亡くなった人に、妻?と思うかもしれませんが、戦国時代は、いえ、日本では古来より、政略的に有利になること、家系の存続のため、結婚をすることが多かったです。

羽柴与一郎も例外ではありません。

名前は、「岩」と呼ばれていました。のちには、「智勝院」(ちしょういん)という名前が残っています。

年齢を示す史料は見られませんので、はっきりとは言えませんが、羽柴与一郎の年から考えると、与一郎が死んだ時は、まだ10歳そこそこだったことと、予想されます。

ほんの子供のうちに、未亡人になってしまった、というのは非常に可哀想ですね。

年齢が年齢だから、子供はまだいないままです。

こののち、この岩という娘は、豊臣秀長夫妻の養女となり、また別のところに嫁いで行くことになります。

この娘については、「豊臣兄弟」に登場するかどうか、わかっていません。

羽柴与一郎、死亡のその後?

羽柴秀長の家の後継者となるはずだった、与一郎が死去。

その後、秀長の後継者として、何名かの候補が上がりましたが、結局は甥の秀保(ひでやす、姉・ともの三男)にきまりました。

その秀保も、湯治先の十津川で、病気になって17歳で亡くなった、ということが 「森家先代実録」に書かれています。

秀保は、秀長の娘と結婚して、羽柴の家を継いでいたのですが、子供はいなかったので、秀長の家系は、これで終わりとなってしまいました。

まとめ

羽柴与一郎は、秀長の実子とされる実在の人物です。

山﨑の戦いで明智軍の矢を受け負傷し、治療の甲斐なく亡くなりました。

享年は13〜15歳くらいと見られています。ドラマでは慶の連れ子から養子という設定ですが、これは秀長夫婦の絆や人間性を描くための創作だと思われます。

与一郎の死後、後継は千丸(藤堂高吉)を経て甥の秀保に。

秀保も17歳で早世し、秀長の家系はそこで途絶えてしまいました。

豊臣家は、長く続く運命ではなかったのでしょうか?と思いたくなります。

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