羽柴与一郎、どうなる?最後と死因。年齢は?実在した?父親は?なぜ養子の設定?その後の豊臣家は?

豊臣兄弟

大河ドラマ「豊臣兄弟」で秀長の息子、羽柴与一郎が活躍中です。

与一郎は秀長の実子で実在です。

史実では天正10年頃早世、死因は病死説(秀保との混同とも)、もありますが「豊臣兄弟」では山崎の戦いの傷が原因で死去します。

養子設定は後継問題を描くための脚色で、死後は千丸(藤堂高吉)や、丹羽長秀の息子などを経て秀保が秀長家を継技ました。

ここでは、丹羽長秀の、存在の秘密について追求していきます。

羽柴与一郎、どうなる?

羽柴与一郎は、山﨑の戦いに父・羽柴秀長(のちの豊臣秀長)と共に、出陣します。

1582年6月2日(旧暦)、織田信長が家臣・明智光秀の手で、本能寺で討ち取られ、その弔い合戦に、豊臣秀吉、羽柴秀長など、織田信長の重臣たちが、参戦します。

山崎の戦いは、1562年6月13日に行われた戦いです。これは本能寺の変から11日後のことです。

織田信長の遺臣たちの動きが、いかに素早かったかを、示しています。

羽柴与一郎も、山﨑の戦いに、豊臣家の人々と共に戦いました。

「豊臣兄弟」によると、与一郎は自分から名乗りをあげて、出陣の意思を表しています。

母の、慶(ちか)は、その時悪い予感がして、不安がある様子を見せていました。

このシーンはドラマの、創作であると思われます。

というのも、戦国時代では、武士の家に生まれた者ならば、元服を終えたのなら、戦闘に参加するのは当然のことであったで、親たちも、その心づもりがありました。

秀長の息子の場合は、秀長もその兄・秀吉も生まれは武家ではなかったので、そこまで武家の義理に縛られることはない、とは思うのですが。

豊臣兄弟の2人とも、信長の家臣となって、武家となって生きる道を選んだ、というのなら、主君への義理を果たそう、と考えていたと自分は思います。

その想いに、息子(義理という設定ですが)、も同調していたのでしょうね。

羽柴与一郎の、最後となった死因は?

山﨑の戦いに向かった、羽柴与一郎は、織田信孝・丹羽長秀の軍が秀吉の軍勢に合流するための伝令の役割をします。

羽柴与一郎の最後

その途中、明智光秀軍にと遭遇し、その時、明智軍から矢をいかけられて傷を負います。

その時は、まだ命を落とすには至らず、山﨑の戦いで、豊臣方が勝利した後は、長浜城に戻り、治療を受けました。

その治療はうまくいかず、周囲が懸命の看病をしても、よくならず、羽柴与一郎は、亡くなりました。

羽柴与一郎の死因

羽柴与一郎の場合は、戦死と言わず、「戦傷死」と言われる死因です。

現代の感覚で言うと、戦争が原因で命を落とした人、と言う分野に分類されるところです。

羽柴与一郎の、死因については、触れている資料は見つかっていません。

羽柴秀長の死亡年は、1582年、とされています。本能寺の戦いから対して時間は立っていません。

状況から考えて、本能寺の変に関わる戦いで命を落としたに違いない、という推測を「豊臣兄弟」では当てています。

「戦傷死」とドラマでは扱われている死因ですが、戦国時代では、公衆衛生が発達していないので、傷が治らずにそのまま亡くなる、という実態は非常に多いと思います。

羽柴秀長の息子が1582年に亡くなったことは、藤堂高虎(とうどうたかとら)の一代記を書いた「高山公実録」の中の『郡山城主記』、や「森家先代実録」などに書かれており、

それを研究した柴裕之氏著作「豊臣秀長シリーズ・織豊大名の研究」の中でも、秀長の息子の死についての、記述があります。

しかし「高山公実録」も「森家先代実録」についても、未だ事実が確定していないので、「豊臣兄弟」は、歴史のスキマをついた、うまい設定になっていると、私は見ました。

羽柴与一郎の年齢は?

羽柴与一郎の年齢は、亡くなったのは13〜15歳くらい、と見られています。

実は、羽柴与一郎については、生年がはっきりしないのです。

「高山公実録」、「森家先代実録」では、羽柴与一郎は本能寺の変の年、1582年(天正10年)に亡くなったことが、書かれています。

与一郎が死去した時のことは、「高山公実録」内の『郡山城主記」に書かれており、与一郎という名前は仮名(けみょう、正式な名前の諱でなく、通称)だった、とありました。

ということは、亡くなった時にはすでに元服を済ませていた、ということになります。

戦国時代の男子の元服早く、10代初期のうちに行われることが多かった、とのことです。

それだけ、戦が多く、男子を生まれたからには、一刻も早く手柄を立てて、時期当主であることを宣言する必要があった、ということでしょうね。

羽柴与一郎は実在した?

羽柴与一郎という人物は、その存在は確認されています。

実在はしていますが、その立場には謎が残ります。

「高山公実録」、「森家先代実録」に記述があり、それについては信頼性はまだ検証中です。「豊臣兄弟」の時代考証を務める黒田基樹氏も、そのように言っています。

これら二つの文献では、羽柴与一郎は、羽柴秀長の義理の息子(妻・慶の連れ子)ではなく、実子、それも長男、ということです。

「高山公実録」の「郡山城主記」の章によると

『秀長の御実子は、早くに亡くなられたので、丹羽長秀の三男・千丸が秀長の養子になった』ということが、書かれています。

『早くに亡くなられた子』こそが羽柴与一郎でした。

しかし、秀長の実の息子が、羽柴与一郎だという確かな証拠はまだ見つかっていないので、「豊臣兄弟」のような、妻・慶の連れ子、という設定も出来上がるのです。

羽柴与一郎は、秀長の妻・慶(のちの慈雲院)の前夫の子である、とも、前夫の子ではない、というどちらも根拠がありません。

先ほど述べた、「森家先代実録」には、羽柴秀長は江戸時代に書かれているため、信頼性が薄いのです。

羽柴与一郎の父親は?

羽柴与一郎の父親について、残されている史料から見ると、羽柴秀長、なのですが。

「豊臣兄弟」の中では、実の父とされる人物の名前は、一応、堀池頼広(ほりいけよりひろ)という名前、ということが言われています。

祖父である人物は、堀池頼昌(ほりいけよりまさ)という名前で登場しています。

奥田瑛二さんがキャスティングされていました。なかなかの頑固爺さんでしたね。

斎藤家の元家臣、という設定でした。

この祖父に羽柴秀長は、頭を下げて、与一郎を養子に貰い受けるのでした。

この回では、秀長の妻・慶もツンデレの仮面を脱ぎ捨てて、秀長と心を通じあう、というシーンが描かれました。

この息子クン、与一郎は、父と母を結びつける、という重要な役割を話している、と思います。

羽柴与一郎はなぜ、秀長の養子という設定?

羽柴与一郎は、これまでの史料に基づいて言えば、秀長の実子である確率の方が高いですね。

では、「豊臣兄弟」ではなぜ、秀長の養子という設定だったのでしょう?

これはドラマの、フィクションなのですが、その理由は、秀長の妻となった「慶」(ちか)の存在と秀長の人間性の成長のため、と思われます。

ツンデレのが、秀長の妻になるまでに、慶の内面は徐々に変化を遂げていきました。

過去にすでに結婚、その相手との間には息子がいる(その息子が『与一郎』)、夫はすでに戦死、と複雑な背景がありました。

そこを全て受け入れたのが、羽柴秀長(のちの豊臣秀長)。

「豊臣兄弟」では秀長と慶の出会い、与一郎を秀長が養子に、やがて死に至る、というプロセスが大切だったのでは?と、今振り返って私は考えています。

秀長の妻として慶に相当する女性・慈雲院の存在は、史実では、知られており、2人は仲が良かった、ということが語られています。

ですから、そのモデルと言われる「慶」の性格をはっきりと描き出すことが、ドラマでは必要だったのだと、思います。

秀長・慶夫婦の絆を強めるために、登場させてきたのが、「養子としての与一郎」なのです。

与一郎を養子とすることで、秀長の与一郎に対する愛情は、秀長の人物像を描き出しました。

与一郎を実子としてより、養子として登場させる方が、秀長の人間的な面がよりはっきりと見えてきますし、

今後の「豊臣兄弟」で秀長の活躍を際立たせる伏線となること間違いない、と私は見ています。

秀長には、確かに養子がいて、その人物が秀長の後を継いでいます。

その人物は、秀長の姉・ともの三男・秀保(ひでやす)です。

秀保も、17歳という若さで死んでいます。

「森家先代実録」には、『与一郎が紀州十津(十津川)の温泉で病死した』、と書かれていますが、これはどうも秀保の死亡のことと、混同されている?と最近では見られています。

羽柴与一郎、死亡のその後?

羽柴秀長の家の後継者となるはずだった、与一郎が死去。

その後、秀長の後継者として、何名かの候補が上がりましたが、結局は甥の秀保(ひでやす、姉・ともの三男)にきまりました。

その秀保も、湯治先の十津川で、病気になって17歳で亡くなった、ということが 「森家先代実録」に書かれています。

秀保は、秀長の娘と結婚して、羽柴の家を継いでいたのですが、子供はいなかったので、秀長の家系は、これで終わりとなってしまいました。

まとめ

羽柴与一郎は、秀長の実子とされる実在の人物です。

山﨑の戦いで明智軍の矢を受け負傷し、治療の甲斐なく亡くなりました。

享年は13〜15歳くらいと見られています。ドラマでは慶の連れ子から養子という設定ですが、これは秀長夫婦の絆や人間性を描くための創作だと思われます。

与一郎の死後、後継は千丸(藤堂高吉)を経て甥の秀保に。

秀保も17歳で早世し、秀長の家系はそこで途絶えてしまいました。

豊臣家は、長く続く運命ではなかったのでしょうか?と思いたくなります。

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