蜂須賀小六(はちすかころく)という、生涯にわたって、豊臣秀吉に付き従った人物が登場しました。
山賊っぽいイメージがありますが、そうではなく、計画を建てられる理論的な豪族でした。
豊臣秀吉に仕えていただけでなく、織田信長に、仕えていたこともありました。
秀吉との矢作川の出会い、墨俣城を一夜で作ったエピソードは有名ですが、実話ではないのでは、と最近では言われています。
そんな、秀吉の支えとなった、蜂須賀小六の活躍とは一体どんなものだったのか、を調べてみました。
蜂須賀小六、矢作川の出会いのウソ?
矢作川にある矢作橋、そこで、蜂須賀小六は豊臣秀吉に出会った、と物語ではあったのです。
しかし、最近では、橋は当時、存在していなかった、とのことです。
では、蜂須賀小六と、秀吉の出会い、はどんなものだったのでしょう?
矢作橋、存在しなかった
「豊臣兄弟」で、蜂須賀小六は、秀吉とは矢作川の矢作橋(やはぎばし)で、出会っています。
しかし、秀吉や蜂須賀小六の時代には、矢作橋は存在していませんでした。
橋が作られたのは、1601年のことで、もはや、豊臣秀吉も蜂須賀小六もいなくなっていた世の中でした。
矢作川は実際にある川ですが。
当時、この川を渡るには、渡し船を使っていたのでは、と言われています。
「矢作橋」のエピソーが初めて出てくるのは、江戸時代の『絵本太閤記』です。
矢作橋の物語は、歴史学者・小和田哲男さんが、創作と見なしてから、史実ではない、と言われています。
蜂須賀小六と矢作橋のエピソード、なぜできた?
なぜこんな、矢作橋について、若い頃の豊臣秀吉と蜂須賀小六の物語ができたかというと、江戸時代の旅行ブームが関係しています。
江戸時代、旅行がブームになったのは、18世紀後半〜19世紀前半頃で、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が流行り出した頃です。
各地は、こぞって、客を呼ぶための名所を作り出していました。
矢作橋もそんなブームにのって、創作されてのではないかと、見られています。
蜂須賀小六は山賊?
言い伝えに出てくる蜂須賀小六のイメージは、山賊か野盗です。
蜂須賀小六は、山賊ではありません。
蜂須賀小六は川並衆
実際の蜂須賀小六は、「川並衆」(かわなみしゅう)だったようです。
その話は、軍記物語「武功夜話」に書かれているのですが、こちらも物語なので、確かなことではありません。
「川並衆」とは、簡単にいうと、川の渡守ですが、単にお金をもらって人を運んで川を渡すだけの存在ではなく、物資を輸送する重要な役割を果たしていました。
日本という国は、川が多く、戦争の時には、物資を運ぶ大切な物流手段でした。
そのため、「川並衆」は、川の流れの速度、川幅はもちろんのこと、水流の強さ、流れがどこで変わるかを熟知していなければなりません。
「川並衆は」コンピューターのない時代に、その専門知識を使って、橋を建造する、など、水運を一手に引き受けていたから、盗賊などではありません。
蜂須賀小六、なぜ山賊に見られた?
矢作川で秀吉とであう伝説を見ると、蜂須賀小六がごろつきっぽく見えて、そのイメージから野盗なんて、みられてしまったのでした。
これは、江戸時代以降の、話から、山賊のシチュエーションになったのでしょう。
というのも、江戸時代は、大きな川を渡るには、川人足の手を使わないと旅人が渡れなかった、ことも関係していまう。
例えば大井川(静岡県)を例に撮ってみますと、
川渡しの人足は、代金をぼったくるような人がいたからです。中には脅迫するようなものもいた、ということです。
そこから、川で仕事をする → 川人足 → ぼったくる悪人、というイメージが出来上がってきていたからだと、私は思うのですが。
もし、蜂須賀小六の、職業が、「川並衆」だったとしたら、悪人どころか相当有力な人物だったのではないでしょうか。
ただし、川を渡るという危険な作業であるため、川並衆同士の、言葉使いは、切羽詰まった状態の中では、荒っぽい言葉を使っていたことも原因では、と私は思っています。
蜂須賀小六、秀吉と親友?
史料では、墨俣城のことをはじめとした、のちにも様々な戦争で、行動を共にする、ということが書かれているだけで、親友とまでは書かれていません。
物語では、蜂須賀小六は、秀吉の親友のような書き方をされていることが多いです。
豊臣秀吉の仕事ぶりがはっきり歴史の登場してくるのが、1565年からの美濃ぜめで、美濃を攻めるための工夫をするために、手を結んだのが、まさに蜂須賀小六。
「豊臣兄弟」では、墨俣城攻撃のために、川を利用することを考えていた、豊臣秀吉は、川に関して優れた知識を持った人物を採用しようと考えていました。
紹介された、川のエキスパートこそが、蜂須賀小六(ドラマの中では、蜂須賀小六正勝、と名乗っていました)だったのです。
「豊臣兄弟」で見るような、矢作橋での出会いが創作だとすれば、一体どこで出会ったのか?
歴史上に2人が、一緒に働いた頃とされるのが1564年、あたりと見られており、2人が組んで取り組んだ仕事が、1566年、墨俣(すのまたじょう)の一夜城の築城と言われています。
物語としては、「親友」の方がかっこいいから、後世の物語では、親友に発展していったのでしょうね。
蜂須賀小六は、織田信長の臣下だった?
蜂須賀小六は、かつて織田信長の軍のもとに入っていました。
それは、蜂須賀小六の生まれた土地が関係しています。
生まれた土地は尾張国蜂須賀郷、その名の通り、蜂須賀の地を治めていた豪族でした。
斯波氏(しばし)、や斎藤氏、そして織田氏と、次々に仕えて行く中で、「川並衆」として一族の身分を確立していきました。
織田氏に仕えたのは、織田信長の側室・生駒吉乃とは親戚で、蜂須賀家政(はちすかいえまさ、蜂須賀小六の父)だった、という話が「武功夜話」に書かれています。
そして、蜂須賀小六は、秀吉と一緒に組んで仕事をするようになったという流れでしょう。
蜂須賀小六、阿波踊りの発案者?
蜂須賀小六が現れたのは、静岡なのに、なぜ阿波(徳島)?
でも、阿波踊りを勧めたのは、蜂須賀小六ではなく、息子の蜂須賀家政でした。
蜂須賀小六は、豊臣秀吉の家来になって、結果、阿波国、12万石を与えられました。
そこで、蜂須賀小六は、息子・蜂須賀家政に当主の座を譲りました。
蜂須賀家政は1586年、自国の城をつくり、完成した時に、領民に、
「城ができたぞ!皆、踊って祝え!」と知らせたところ、
領民たちは、音の出るものを持ち寄って、踊って楽しんだ、というのが起源として伝わっています。
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」とういう踊りの掛け声は、「えらいやつだ」という言葉が訛ったもので、「偉いやつ」とは阿波の殿様、のことを指します。
阿波踊りは、現代では日本を代表するお祭りの一つになっています。
こうなると、単なる娯楽ではなく、代々語り継がれる日本の心を伝える文化、ですね。
蜂須賀小六の子孫の現在は?
蜂須賀小六は、豊臣秀吉から、阿波の国の受領の位を受けましたが、自分ではそれを受けず、息子の、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)を受領にしました。
それ以降、関ヶ原の戦いも無事でやり過ごし、蜂須賀家は江戸時代は外様大名として生き延びました。
外様大名だった、ということは、幕末は尊王側についていたのでしょう。
明治になって、華族の上位から2番目の侯爵の位を受けています。
「川並衆」であった、蜂須賀小六の子孫が、華族になるとは、歴史の重さに感動すら覚えてしまいます。
蜂須賀小六の墨俣城の話とは?
蜂須賀小六と豊臣秀吉の関係を一番印象づけたのは、墨俣城の話です。
墨俣城は存在しない?
墨俣城を建造した話ですが、「一夜城」の話として、軍記物語で人気のある話です。
よく出来な話ですが、一夜城が実在した記録がありません。
いつから、墨俣一夜城の話が出てきたかというと、江戸時代以降の「太閤記」ものからです。
「豊臣兄弟」でも、城の存在を最後には火をかけて消してしまいましたね。
見事な辻褄合わせ、ということです。
伝説では、豊臣秀吉の英雄話のように言われていますが、もし本当に城を建てたとしたら、蜂須賀小六の働きが欠かせませんでした。
墨俣城を本当は作ってなかったとしたら、蜂須賀小六は何をしたのでしょう?
城じゃなくても、戦争に必要な物資を運ぶ役目を担い、秀吉たちにとって、欠かせない存在になっていたと、私は思いますが。
墨俣城建造物語?
織田信長は、稲葉城の斉藤龍興(美濃国)の攻略を目指していました。
しかし、稲葉城をめぐる自然環境は厳しく、攻撃の足掛かりとなる、城の必要性を織田信長は感じており、城作りを臣下に命じていました。
そこに、名乗りをあげたのが木下藤吉郎(豊臣秀吉)。
墨俣城は、木曽川と長良川が合流する地点が墨俣で、流通、物流、軍事上の大切な地点です。
現代の岐阜県大垣市にあたる地域です。
早速、城造りに取り掛かった、豊臣秀吉にまず必要だったのは、城の材料となる多量の木材、それを運搬する手段でした。
ここで大活躍をしたのが、川のエキスパート・蜂須賀小六。
城作りの段取りは、1566年9月には材料を集め、川を使って運搬にかかます。
豊臣秀吉たちは、同年9月12日に、木材出荷の場所から出発し、同日夜に墨俣に到着し、すぐに作業にかかります。
翌日、13日には、やぐらや城柵が完成しておりました。
では、なぜこんなに早くにできたかというと、部分ごとに組み立て、組み合わせる、という現代でいうプレハブ工法で作ったからです。
それにやぐらと城柵を整えるだけでも十分遠くから見ると、立派な城に見えるからでした。
秀吉は、また、兵力を半分に分けて、城作りの係と、敵から来た攻撃を防ぐ係と、ふたつ作りました。
そのため、城作りチームは、城造りに専念できた、というわけでした。
まとめ
蜂須賀小六は、織田・豊臣にとって大事な人材ですが、一番有名だと思った話が、創作話であったかも?という結論になったのは、夢が破れるような話でした。
また、これまで蜂須賀小六に抱いていた、山賊っぽいイメージが一気に変わった、というのが今年の「豊臣兄弟」です。
番組ではぶっきらぼうに見える。蜂須賀小六、がこの後、どんな活躍をするか、また、これまでの伝説をまた変えるような出来事があるのか、注目していきたいと思っています。

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