荒木村重、「どうふん」と呼ばれた?利休の七哲となり道薫の名を。その後?本能寺の変で改心?死因は?

豊臣兄弟

荒木村重(あらきむらしげ)は織田信長(おだのぶなが)に背き、有岡城に籠城しましたが、家族や家臣を見捨た逃亡後の物語を追跡しました。

その卑怯な行動から「どうふん」と呼ばれることもあったとか。

本能寺の変の後は茶人として生き、千利休(せんのりきゅう)の弟子として「利休の七哲」に数えられ、道薫という号を得ました。

波乱の武将人生から一転、静かな茶の道を歩んで生涯を終えたと伝わっています。

ここでは、本能寺の変の後、戦国時代をしたたかに生き抜いた荒木村重の人生後半を、お伝えします。

荒木村重、「どうふん」の名とは?

荒木村重は、城を出てからの自分自身を「道糞」(どうふん)と呼んだという言い伝えがあります。

この呼び方は、正式に残っているものではなく、「常山紀談」や「陰徳太平記」という江戸時代の軍記物に出てくるエピソードです。

「常山紀談」も「陰徳太平記」も成立が江戸時代と、戦国時代からは離れすぎていて、しかも創作された物語ですから、歴史としては信用度が低いです。

「道糞」の意味は、道端に落ちた「『糞』のように汚いもの」、です。

花隅城から、また逃げ出して毛利の土地(広島方面)に逃げていき、音信不通になりました。

再登場したのは、本能寺の変で織田信長が亡くなった後、剃髪(髪を剃って、僧となる)した姿ででした。

荒木村重は、元々茶道を学でいたため、僧侶の姿になったのでした。

ドラマなどに現れる荒木村重は、いかつい顔だち、どちらかというと作法もあんまり洗練されていない武将ですが、茶の道への憧れはありました。

茶道の精神が荒木村重のうちに生きていたからこそ、現在の、卑怯者と呼ばれ逃げ回っている自分を恥ずかしく思うようになって、

わざと、自分を下げるために「糞」なんても文字が入った名前を用いた、と後世の人が想像して、作ったエピソード、と私は想像します。

言い換えれば、「糞」という名前をつけてまで、荒木村重に反省させたかったのでしょう。

そこまで物語の作者が思うくらい、荒木村重は人気がある戦国時代の武将だな、ということをここで私は理解しました。

荒木村重は利休の七哲

利休七哲とは、茶道の千利休の弟子たちのうち、特に優れた7名のことで、その1人が、荒木村重でした。

利休七哲たちは、皆、戦国の武将たちで、厳しい戦争の合間を、茶道で精神を落ち着かせ、強さ、美学を身につけていきました。

つまり、戦に強く、部下の信頼も厚く、心も崇高な人物が利休七哲なのです。

それなら、茶道具を持って城から逃げた荒木村重は、利休七哲の名誉に値しないのでは?と私は思ってしまいますが。

かつては、卑怯と呼ばれるようなことをしでかした荒木村重が、逃げ回ったあげく、「本能寺の変」(1582年)に出会って、変わります。

本能寺の変を見て、改心し、髪を剃って(剃髪し)、利休の弟子となり茶道の才能に目覚めたと言っていいでしょう。

妻をはじめとして、何もかも失ってしまった荒木村重は救いを、茶の道に求めたのかもしれない、と思われます。

茶の道に入ったからといって、荒木村重の妻子を見捨てた、という罪は許されるものでしょうか?と私には疑問が残りますが。

荒木村重は、「道薫」(どうくん)と名乗る!

荒木村重は、利休の弟子となり、茶の道を極めることにしました。その号は「道薫」。

美しい名前ですね。これは荒木村重のどんな想いを表したのでしょうか?

荒木村重、「道薫」を名乗った理由?

茶人としての名前(号、という)は「道薫」でした。

なぜ「道薫」という名前を選んだのでしょう?

この理由については、史料がありませんが、私は「薫」という字に意味があるような気がします。

「薫」とは「良い香り」を示しているので、荒木村重・本人の人格を高めようという気持ちのもとではないのでしょうか?

「荒木道薫」という名称は史料にも出ています。

堺の豪商で茶人である津田宗及(つだそうきゅう、堺の豪商で茶人)は「津田宗及茶湯日記」に、

「本能寺の変」の翌年(1583年)には、「荒木道薫」が堺で茶会を開いたり、呼ばれたりした、と書いています。

一方、荒木村重は、最初は自分を恥じて「道糞」と呼んでおり、のちに茶人として「道薫」と名乗った、という説もあるのです。

広く知られているエピソードでは、豊臣秀吉が、「『道糞』ではなく『道薫』と名乗るように」と言ったから「道薫」になった、と言いますが、これは単なる言い伝えです。

言い伝えから推測すると、豊臣秀吉と千利休の両方から、過去の行いを悔いて、新しい人物に生まれ変わり、徳を身につけた人物に茶湯を通してなるように、

という願いを込めてつけられたのではないでしょうか?

荒木村重、なぜ茶の道へ入り、出家はしなかった?

自分を悔い改めるために、道を極めるのなら、出家でもいいのでは?と思いますが。

茶の道に進んだということは、荒木村重は、まだまだ世俗のことに気持ちが引きずられていたからだった、と私は見ています。

仏道に入るとなると、自分の考え方は完全に仏教に支配されます。

荒木村重は、それが嫌だったのでしょう。

茶道に世界に入ることは、「日常生活を捨てないで、精神のみを高める」ことにあります。

一方の出家(仏門に入る)とは、世俗(世の中全てのこと)から離れて、仏教の修行に専念する、ということです。

荒木村重は、「茶の道を極める」ほうに進みました。世俗を捨てなかった、いや捨てきれなった、のです。

荒木村重の頭の中には、世の中でもう一度、武勲をあげよう、とまでは流石に思わなかったでしょうが、自分の家の存続を深く望んでいた、ところが私には感じられます。

荒木村重の「その後」?

荒木村重の、有岡城を出てからの「その後」というと息子・荒木村次(あらきむらつぐ)のいる、尼崎城に向かい、次には、花隅城(はなくまじょう、同じく兵庫県にある)に、逃げていきます。

尼崎城も花隅城も織田信長の軍に包囲され、追い詰められ、ついに毛利を頼ることにしました。

まさに、荒木村重は脱出人生を送っていたわけです。

では毛利家にいる間に、何をしていたかというと、お茶を立てて、隠遁生活を送っていました。

この辺りの荒木村重の生活ぶりがどうであったかということは、江戸時代の軍記物「常山紀談」、「陰徳太平記」に書かれています。

こうしてみると、荒木村重は、私には、ちょっと危機感に欠け、呑気な性格のように見えます。

毛利(広島)では、「茶湯」に勤しんだ話が多く、一体何をしていたのだ、と妻子の仇をうつ策を練っているのでもなく、妻子たちの菩提を弔うでもなく…

その後、京都に戻り、千利休の弟子となり豊臣秀吉に支えています。

荒木村重、「本能寺の変」で改心したのはなぜ?

荒木村重は、有岡城から逃げ、尼子城も脱出し、毛利の方まで逃げていきました。

荒木村重の主君の織田信長は毛利と対立しており、豊臣秀吉に毛利攻めを命令したほどでした。

それなら、織田信長が死んだ、と聞けば、荒木村重は、喜ぶのではないでしょうか?

でも事実はそうでなく、荒木村重は、豊臣秀吉に従います。

荒木村重の帰還?

「本能寺の変」で、荒木村重は、豊臣秀吉のもとに再び戻ってくるのです。

荒木村重は、武士からは身を引き、頭を剃り、千利休のもとで、茶の道に励むようになりました。

荒木村重が織田信長に反乱を起こした理由は知られています。

しかし、信長の死後、再び豊臣秀吉のところに戻ってきた荒木村重の心境を語った史料は見つかりません。

荒木村重は、日和見主義だったのでは?とさえ思えてしまう行動です。

荒木村重、なぜ帰還が受け入れられた?

荒木村重が、豊臣の元に戻った、改心した、という資料が見つからないため、ここで私は、推測で書くことしかできませんが。

その理由が、二つ考えられます。

織田信長、豊臣秀吉。この2人のためです。

荒木村重、織田信長への想い?

織田信長は、なんと言っても、荒木村重の能力を認めていたからです。

荒木村重が織田信長に反乱を起こす時でも、その反乱を思いとどまるように、何度も手紙を出しています。

荒木村重が、織田信長の構想では重要なウエイトを占めていました。

荒木村重は、織田信長に反抗していた時は、思いもしなかったことが、「本能寺の変」で織田信長討死、と聞くと、改めて織田信長の想いに気づいたのでしょう。

荒木村重は織田信長に「すまない」と思ったのかもしれませんね。

荒木村重、豊臣秀吉への想い?

荒木村重は元々、豊臣秀吉と親交がありました。

荒木村重が、秀吉のもとに戻ったのは、自分には生き残りたいという欲求があったからではないでしょうか?

荒木村重は、織田信長に反乱を起こした時、自分が生き残ろうと、妻や子を捨てて1人で城を脱す出した人です。ということは生への執念が強い人、と私には見えます。

豊臣秀吉は、人材の確保のために敵であろうと優秀が人材は採用するスタンスでした。

豊臣秀吉は、かつて織田信長が重要視していた、荒木村重という人物を自分の部下に置きたい、と考えたのだと、思います。

荒木村重が持った野心とは?

生への執着が強い、そう見える荒木村重ですが、再び戦場に身を置こうとはしませんでした。

自分の家の再興を望んでいました。

千利休のもとで、茶人としての残りの人生を送ります。

そのために豊臣秀吉は、荒木村重が刀を取って自分に歯向かってはこない、と見ました。

秀吉は、荒木村重を、文化人として自分のそばに仕えさせました。

豊臣秀吉は、農民の生まれて文化的な教育を受けていないので、常に文化面でも上にあがろう、と考えていました。

その文化的なところが、荒木村重と豊臣秀吉とのお互いのニーズがあった、というのが、この2人の晩年の関係だと、私は考えています。

荒木村重の死因

1586年5月4日(現代の暦では6月20日)に荒木村重は、52歳で死去しました。

死因についての詳しい史料はありませんが、病死ということが伝えられています。

いくら戦国時代で、現代より人の平均寿命が若い、と言っても52歳だと、早すぎる気がします。

病気の種類は、不明です。

荒木村重は、苦しみのうちに死んだ、という記録はないので、比較的穏やかに死んだのではないか、という想像が私にはできます。

私としては、有岡城で見捨てた人たちへの罪悪感が心身をすり減らしたから、衰弱し、死にいたる、という結末であって欲しかったのですが。

まとめ

荒木村重は有岡城から逃げ「道糞」と自らを呼んだとも伝わるが、史料的信頼度は低いです。

「本能寺の変」後、剃髪して千利休の弟子となり「利休七哲」の一人に数えられ、号を「道薫」としました。

茶の道を選び出家しなかったのは、世俗、つまり家の存続への思いを捨てきれなかったからだと私は見ています。

豊臣秀吉のもとに戻った心境を語る史料はありませんが、改心したのではないかと、思われます。

1586年、52歳で病死したと伝わりますが、詳細は不明です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました