紫式部と彰子との仲、関係。二人の年齢差は?道長が雇用主。いつからいつまで仕えた。定子・清少納言関係と似て

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では5月現在、まひろ こと紫式部が、生き生きと活動しています。

紫式部といえば、中宮 彰子(ちゅうぐうあきこ または しょうし)に仕える、ということなのですが、いつから、彰子と出会うのでしょう?

紫式部は、中宮定子と清少納言との間のように、中宮 彰子と仲良くなれるでしょうか?

この記事では、紫式部と、中宮との間のことを、その馴れ初めから、最後まで、どのような様子だったかを調べてみました。

紫式部と 彰子との仲は?

紫式部と彰子の間は信頼の信頼

紫式部は、彰子の元に女房(にょうぼう、侍女のこと)として、雇われました。

紫式部と彰子とでは、生まれ育ちが全く違い、紫式部は、貴族と言っても身分が低い。

身分が低いと、宮中ではどう扱われたのでしょうか?

紫式部は自分が、宮中に仕えてからのことを「紫式部日記」につけていました。

彰子とのことも書いてあります。

紫式部は、彰子の家庭教師として雇われたのでした。

最初は、宮中に馴染めない様子でしたが、彰子とは徐々に打ち解けられるようになってきました。

紫式部という、名前、というか役職名ですが、これは、彰子がつけたものです。

彰子は 紫式部が書いた、『源氏物語』の「紫の上」が大好きだったのです。

自分の元にきた、女房に、お気に入りのキャラの名前をつけたのですから、彰子は紫式部が大好きになったのですね。

一方の紫式部も、新たな女主人を慕い、尊敬していました。

『紫式部日記』によると

「(自分の)辛い気持ちを明るく変えるには、こういう方に(彰子のこと)仕えるのがいいと思う。探してでもこういう方に使えるべきです」

「(彰子に仕えていると)これまで持っていた沈んだ気持ちを忘れてしまうのは不思議なことです」

と彰子の元にいる、嬉しさを書いていました。

紫式部が彰子の元に上がった時の周囲の反応は?

宮中では。他の女官(女房)から「あなたっていう人物、はもっと嫌味な人かと思っていました、最初は、嫌いだったのよ」

「でもお会いしたら、とても穏やかな人だったのですね」と。

最初は敬遠される感じでした。

紫式部は、中級の下という身分の低い貴族の出身のくせに、宮廷に入ったということにで、周囲からやっかみがあったのでしょう。

身分が低くても、「源氏物語」を書いたことで、一躍人気者となってしまい・・・それを宮中の女房たちは、紫式部は成り上がりで威張っている、なんて見ていたようです。

紫式部自身、父のもとで実家暮らしをしていたので、勤める、ということに慣れていなかったこともあり、宮中ではどうしていいか、戸惑っていたことでしょう。

宮中というところは、絶えず女房たちが行き来しており、自分のプライバシーを保てないところも、紫式部にとっては辛かったのではないでしょうか?

必然的に、最初は引っ込み思案になってしまうのは仕方がありません。

そうして過ごしているうちに、紫式部は宮廷の暮らしに慣れていきました。

慣れてみると、周りの女官たちは自分をツンデレと誤解していたことが、わかり、そうと分かれば、付き合い方を工夫します。

すると、紫式部も宮中で、落ち着いて過ごせるようになったのではないでしょうか。

紫式部と彰子の関係

紫式部は彰子の女房

紫式部は、彰子付きの女房(女官)です。

彰子の実家、藤原家が、娘のために雇った家庭教師、が紫式部、つまり雇用関係になります。

家庭教師、という役職は実在しなかったので、一般的に 女房と言います。

女房は高貴な人に使える、侍女のことを指します。

侍女というと、高貴な人の身の回りを世話、髪や肌の手入れをしたり、着替えを手伝ったり、というイメージです。

紫式部もそんなことをしたのでしょうか?

紫式部は彰子の家庭教師?

小間使い的な役割のほかに、主人のために読書をしたり、和歌や手習(習字)の指導、話し相手、という仕事もありました。

紫式部の役割はこう言ったタイプの仕事をすることでした。

天皇の妃になる人だから、嫁入りの前に、和歌の作り方ぐらい勉強してきてるだろう・・と思うのですが・・・

平安時代は和歌は大切なコミュニケーション手段の一つ。彰子が勉強してきた以上に大変です。

技術や感性を絶えずアップグレードする必要がありました。

和歌は未婚の男女が手紙として交換するもの・・・・だけではありません。

宮中に入った、お妃様だって、お上(おかみ、天皇のこと)と歌を詠みあうこともあるし、貴族たちとも、和歌の交換があるし、歌会だってある。

その時、気の利いた歌が詠めないとしたら、お妃として恥ずかしいことなのです。

そこで、和歌指南役として、雇われたのが紫式部というわけだったのです。

「先生」というと、どうしても偉そうで、逆らえない相手、という先入観がありますが、雇われている以上、紫式部の方が下になります。

主従関係、と言っても、中宮彰子は素直な聡明な性格の方だったので、紫式部は、やりがいがある、と思ったことでしょう。

紫式部と彰子の年齢

紫式部は、970年〜978年の間に生まれた、と伝えられています。

一方の、藤原彰子は988年の生まれ、です。

紫式部と彰子の歳は10歳ほど違います。

そして12歳で、一条天皇の妃として入内(入内)しました。1000年頃のことです。

紫式部は、彰子の入内後5年で女房となりました。紫式部は30代に入るか入らないあたりですね。

彰子が宮中に入内するに合わせて、紫式部が採用されたわけでありません。

なぜ、紫式部が女房になるのに、5年もの時間的ギャップがあったのでしょう?

「源氏物語」をまだ書いていなかったから、ということが理由になりそうですが・・・

「光る君へ」の内容から考えると、すでに藤原道長は、紫式部を知っており、紫式部の聡明ぶりも知っていたわけですから、もう少し早く雇い入れてもよかった、と思うのですが。

1000年ぐらいだと、紫式部は結婚していて、もし誘われても勤めに出る気分にならなかったのかも知れませんね。

夫 藤原宣孝が亡くなった後だと、子供も抱えていると、どうしても生活をしなければならなくなり、金銭的な理由から、宮仕えに同意したと考えられます。

紫式部、彰子そして藤原道長との関係

紫式部、彰子のために藤原道長に雇われた

紫式部の直接の雇い主は、藤原道長になります。

道長は娘 彰子のために紫式部を雇い入れました。

「今鏡」(平安時代末期の歴史物語、それ以前に書かれた「大鏡」の続編のつもりで書かれた)では、紫式部が、若い時、彰子の母、源倫子のもとで女房勤めをしていたとあります。

「紫式部日記」に書かれていた、源倫子と紫式部のやりとりから見ると、紫式部と倫子の出会いは、彰子のために雇い入れた時が初め、というわけではなさそうです。

源倫子は母方に、一方の紫式部には、藤原定方という、同じ先祖を持っていたのですから、遠縁関係に当たります。

藤原道長は、それまで、紫式部の存在を知っていたのでしょうか?

彰子がいても、紫式部をからかう藤原道長?

「光る君へ」の中では、紫式部と藤原道長はかなり早くからお互いを知っており、恋人同士であった、という描かれ方をしています。

「光る君へ」によると、紫式部と藤原道長の仲は、ソウルメイトの形へと昇華してくるという流れになっています。

もし藤原道長が、元恋人ということを心に留めながら、紫式部を、自分の娘 彰子のために雇ったとしたら、ちょっと・・・・道義的にどうなの?という気分になります。

もっとも、後の世(1300年代)に書かれた「尊卑文脈」には紫式部が、道長の妾(しょう、側室のこと)になっていた、という記述があります。

また、「紫式部日記」でも紫式部と道長との間に、お互いの恋の歌と思える、歌があったりします。

以上から、藤原道長が、紫式部に恋を仕掛けた、と思われているところもあります。

しかし、彰子にとってみれば、自分の父親と教師役の女房とが恋仲にある、と知れば、嫌な気持ちになるのではないでしょうか?

彰子の性格は潔癖なところがある、ということでしたから。

道長は、ちょっとしたオトナのイタズラ気分で、恋の駆け引きみたいなことをしたのでしょう。

とはいえ、娘 彰子の前では、実際の恋愛沙汰に結びついていくものではなかった、と思います。

紫式部、彰子の元にいつから、いつまで仕えた?

紫式部が彰子の宮廷で働き始めたのが、1005年ごろでした。

宮中にいたのは、1012年、1014年、1019年の説があります。

紫式部は1001年に夫、藤原宣孝を亡くし、シングルマザーになって失意のうちに暮らしている中で、その心の救済を求めて「源氏物語」を書きます。

藤原宣孝が、夏頃亡くなり、その秋あたりから書き始めたということですので、意外と早く始めたのですね。

1005年あたりから、宮中の彰子の元に仕え始めるのですが、スカウトされるきっかけとなったのは「源氏物語」でした。

ということは、「源氏物語」は書いて、比較的早く、ベストセラーになったのですね。

紫式部が、1014年頃まで宮中に勤めていた、というのは、藤原実資の「小右記」に、紫式部らしき人物が出てくるところから、そう考えられています。

「小右記」には、皇太后となっていた彰子の元に、実資の甥が藤原実資の代理として訪れた時に、取り次ぎをした女房が『越後守為時女』(えちぜんのかみためときのむすめ)と書かれていました。

これは、もう紫式部のことに違いありません。

かつてはこれが、紫式部が宮中にいたことを示す最後の記録と言われていましたが、新たな研究では、1019年であった、ということです。

同じく「小右記」には、1019年、藤原実資に会った女房を、紫式部本人である、としています。

そのころの、紫式部は45歳〜50歳くらいでしょう。

もし1019年に、宮廷を去ったとするなら、彰子が太皇太后(たいこうたいごう 天皇の祖母)になったのを見届けて去ったのではないでしょうか?

それに年をとっての宮仕えは、体力的に大変だったかも知れませんね。

紫式部、清少納言、定子、彰子、似ているとこ

紫式部のライバル、清少納言は、中宮定子と仲が良い関係をつくりました。

紫式部も、清少納言と同じように、中宮彰子と良い関係を築くことができました。

この二組の関係、似ているところが多いです。

中宮彰子と紫式部の年齢差は10歳ほど、紫式部の方が年上です。

また 中宮定子(さだこ)と、清少納言の年の差も10歳ほどで、こちらも清少納言の方が年上です。

紫式部も清少納言も、その呼び名を、主人からつけてもらいました。

彰子と定子がいなければ、今日、紫式部も清少納言も違う名前で呼ばれていたかも知れない、と思うと何だが妙な気分です。

紫式部も清少納言も自分たちの主人を、大変尊敬していました。

その経験は、清少納言の方が先ですね。

清少納言は、定子に初めて出会った時、定子を非常に美しい人と思い、感激したのです。

紫式部の方は遅れて宮中に入り、彰子に出会ったわけですが、その時、清少納言が思った気持ちがよく分かったのでは、と思いたいのですが・・・

実際のところ、紫式部と清少納言は、あんまりお互い面識はなかったので、「光る君へ」のようなことは、なかったと思います。

ただ、同じ時代に生まれた、日本史最大の女流作家二人・・・どこかで出会ったいたら、きっと面白いのに、という希望が入りますね。

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