花山天皇、即位式に・・幼少期は?紫式部と接点か、源氏物語に登場?功績は。和歌に才能。出家事件。西国三十三所巡りを創案?娘の悲劇 家系図 死因

花山天皇というエキセントリックな天皇が、2024年大河ドラマ「光る君へ」も登場してまいりました。

自分の即位式にとったあるまじき行動は有名な話ですが、実は創作では、と言われているのです。

女好きと言われている天皇ですが、ここまで言われてしまった天皇に同情します。

のちに、騙されて出家するのですが、こちらもまた藤原家の陰謀によるもです。

花山天皇は実は、芸術的にも優れ、政治執行も色々新たなアイディアを出すなど、優れた天皇であったといえます。

女性大好き、ということが災いした天皇です。

そんな花山天皇、案外いい人だったかもしれない、それを解き明かしてみようと思います。

花山天皇、即位式の話は嘘?

花山天皇は、女好きでだらしない性格、という記録が残されています。

有名な話としては、自分の即位式で、高御座の中で、女性と関係を持ったというエピソードが伝わっています。

高御座(たかみくら)というのは、現代でも目にすることがある、天皇陛下即位で使われる、玉座でその周りに幕がかけられていて、幕が開いて天皇陛下が現れる、という仕組みです。

幕がかかっている中、玉座に女性を座らせて・・・・という話なのですが、創作らしいのです。

当時の記録係(?)、藤原実資は日記「小右記」に即位式の様子を書いていますが、女性に乱暴を・・・なんて記述は出てきません。

代わりにあった話は、帝が、天皇の冠を「暑い・・・重い・・・苦しい!」と言って脱いでしまった、ということでした。

このエピソード自体も、天皇の常識はずれの行動と言えるのですが。

藤原実資は、いつも「慣習にないこと・・・」と不満ばっかり言っている人ではありますが、道理を通すということに命をかけているので、嘘ごとを書かない人、で通っています。

この話は、天皇は、そこに控えていた、家臣の被り物を剥ぎ取ってしまった、という内容にすり替わって伝えられています。

特に、人は昔も今も、常軌を逸したエピソードが好きですが、誇張されている部分も多いのです。

花山天皇は在位期間も短く、後ろ盾も少なく、政権の掌握を狙う藤原氏からしたら、さっさと退位してほしい天皇でした。

ですから、藤原氏が中心の歴史書の中では、花山天皇はおかしい人物だ、と印象付ける方が自分たちにとって都合が良かったのです。

それに、女狂い、なんて噂のあった天皇ですから、高御座の中での事件、あの天皇ならそんなことしてもおかしくないな、と皆に思われていたところもあります。

花山天皇は即位した時、16歳。青少年真っ只中ではありませんか。

この年なら女性に興味があって当たり前。美人がいれば目を奪われるのは当たり前。

多少、天皇という地位にあって周りの女性が、選び放題、という環境もありましたが。

大河ドラマ「光る君へ」では、高御座の中で・・・と言葉が濁されたような表現でした。

花山天皇の行動が、もしでっちあげだとしたら、気の毒ですね。

花山天皇、幼少期

皇子とはいえ、まだ幼い子供ですから難しい学問の本を、じっと聞いていられるわけありません。

花山天皇の場合、幼い頃から、その、不真面目ぶりが目についていました。

これは「光る君へ」の通りで、教育係も非常に苦労したようです。

一説では、花山天皇には精神障害があって、上記を逸した行動をする、とあります。

あるいは、母が早くに亡くなり、かわいそうに思った祖母の手で甘やかされた、とも言われます。

精神障害を裏違う場合は、その父 冷泉天皇も精神障害のところがあったから遺伝だ、という話もあります。

しかしこの後の、花山天皇の行動を見ると、精神障害とはいえない、と思えすのです。

政治的にも、優れており、芸術面で素晴らしい面を見せる天皇は、おかしいとはいえません。

花山天皇、紫式部との接点

花山天皇と紫式部とは直接の接点はありません。

接点はない、というものの、紫式部の著作「源氏物語」では、花山天皇をモデルにしたらしい話が出てくるので、比較的近くにいた可能性もあります。

「光る君へ」にあるように、舞姫になった、という事実はありません。

しかし、紫式部が情報をキャッチしていたようですので、宮中に出入りできる、あるいは頻繁に出入りする人の元で仕えていた可能性はあります。

紫式部の父、藤原為時(ふじわらためとき)が、花山天皇の幼少時代(師貞親王)に学問を教えていたことも、関係しているでしょう。

そこで為時の役職は式部丞だったことから、娘(大河ドラマでは「まひろ」)の名前が紫式部となりました。

藤原為時は、花山天皇の、読書始めの儀式で副侍読を務めました。

読書始めというのは、皇室の皇子生まれて初めて漢文を読み聞かせる講義をするというものです。

花山天皇、源氏物語に登場か?

妃を熱愛する天皇

紫式部といえば「源氏物語」、花山天皇は女好きだから、光源氏のモデル?

という発想ができそうですが、実は違います。

光源氏の、父親 桐壺邸(きりつぼてい)はないか?と言われています。

花山天皇、女好き、と言われていますが、実は非常に情の深い方のようです。

天皇即位後に迎えた妃が、藤原忯子(ふじわらのしし)、16歳でした。

すごい美人で、花山天皇はゾッコン・・他の女性を差し置いて、忯子ばかりを側に起きます。

忯子は子供をみごもりました。

大体、妃が妊娠した時は、宿下りと言って、実家で出産するのですが、花山天皇は許さず、絶えず自分のところに居させました。

藤原忯子が気分がひどく悪い、という頃になってやっと宿下りが許されたのですが、その時はすでに遅し。

妊娠8ヶ月で、母子ともに亡くなりました。

知らせを聞いた花山天皇は非常に悲しみ、気分が塞ぐ、という有様でした。

「源氏物語」との相違点

花山天皇の藤原忯子への熱烈な寵愛ぶり、宿下りを許さない、そして忯子を失い、天皇が悲嘆に暮れる。

この状況は、「源氏物語」の桐壺帝とそっくりです。

「源氏物語」に最初の章、「桐壺」で桐壺帝が妃の一人、桐壺の更衣にとても惚れ込んで、昼も夜も離しませんでした。

やがて妊娠するのですが、同時に桐壺帝の他の妃たちに嫉妬され、心労で身体を壊し、宿下りするものの命を落としてしまう、という話です。

そして生まれた子供が、「源氏物語」の主人公 光源氏です。

しかし、藤原忯子は藤原氏出身で、身分が低い女性ではないし、他の妃たちから嫉妬されて・・・という話ではありませんから、全面的なモデルというわけではありません。

「源氏物語」の桐壺帝の方は、この後、気を取り直してしっかり政務を取るようになりましたが、花山天皇の場合は、騙されて出家して・・・という気の毒な結末が待っています。

花山天皇の功績

しかし精神障害の方は、ないものと思われる事実に政治的手腕があります。

というのも、天皇になってから

  • 貴族の所領である荘園の整理に関する政令を出した。違法に荘園が作られないようにするため。
  • 物価を決める方法、つまり換算率を定めようとした。
  • 貨幣流通を促進する令を出す。

どれも経済に関わっていく、画期的とみられる方針を打ち出しました。

しかしどの法案も完成には至らず、のちの時代に引き継がれて行きます。花山天皇は壮大なテーマに手を出しましたね。

天皇のやり方が藤原氏と対立することが多かったので、精神障害も、藤原氏側からのでっち上げの疑いが強いです。

花山天皇の和歌の才能

特に和歌においては素晴らしいものがありました。

平安時代は、宮中で歌合(うたあわせ)と言うイベントが行われます。

歌合とは、宮中で貴族たちが、集まり左右に分かれ、それぞれ和歌を作って、どちらの出来がいいか、を競う大会です。

歌合の中から秀逸な和歌を集めた和歌集「拾遺和歌集」(しゅういわかしゅう)を率先し編集した、と言われています。

花山天皇の和歌を少し紹介しましょう

「秋の夜の月に心のあくがれて 雲ゐにものを思ふ頃かな」

(秋の夜の月を見ると心が、身体から離れ出て天に昇り物思いにふけるような今日この頃だなあ)

「木のもとを住家とすれば自ずから 花見る人になりぬべきかな」

(自分が木の下で宿を取るような生活になれば、自然と花をいつも見るに人になるものだな)

2首目の方は、出家して旅をしながらの和歌なのでしょうね。

どちらも自然を見つめながら、孤独感を表している歌の感じがします。

和歌以外でも、芸術的に優れており、花山天皇は芸術家肌の人物だったのだな、という考察ができます。

花山天皇は、和歌以外にも建築、絵画の造形も深かったと言うことです。

確かに花山天皇の行動は、いわゆる「ぶっ飛んでいた」のですが、まさに「芸術は爆発だ」と言う人物だったのです。

そして妃に見せる愛情など、情の細やかな男性だったのでしょう、ロマンチストと言っていいかもしれません。

花山天皇出家事件

藤原忯子が亡くなって、悲しみに暮れる花山天皇に罠が仕掛けられました。

藤原一族の暗躍ですね。

藤原一族と言っても、一家の家長、藤原兼通を中心とする道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道長(みちなが)兄弟です。

特に手を汚すのが、次男 藤原道兼

ここでの狙いは、藤原兼家の孫である懐仁親王(やすひとしんのう)を早く天皇の位につかせることでした。

そのためには、花山天皇を天皇の位から追い落とす必要があります。

いっそ出家してしまいたいと、嘆き悲しんでいる花山天皇に、道兼は近づき、一緒に出家をしようと仄めかします。

京都の山科にある 元慶寺に連れ出し、そこで剃髪させてしまいます。

一方、道兼は、まず父親に暇乞いを・・・と言ってそのまま逃げてしまいました。

一人バカを見たのは花山天皇、もう取り返しがつきません。

そして花山上皇となるのですが、次の天皇が、一条天皇で、自分の子供ではないため、上皇として権力を見せることもできません、ただの隠居した天皇でしかありません。

というのも、忯子の父親は藤原氏ですが、道長の父 兼家の兄の血筋です。

藤原氏内での勢力争いがここに絡んできます。

どちらが政府内で、力を発揮できるかの内輪争いです。

藤原兼家が、懐仁親王の即位を急いだのはこういう背景がありました。

天皇の外戚(天皇の母方の親)、になったもの勝ちです。

藤原忯子との悲恋にくれる、花山天皇は感動ものですが、忯子が亡くなることで、天皇をバックアップしてくれる後ろ盾を無くした、ということを意味します。

花山天皇 出家後

出家した、原因が、愛する妻を亡くしたこと、だったからどんなに、亡き妻の菩提を弔うことに熱心だったかと思いきや・・・

一通りの悲しみがすぎると、やはり悪い癖・・・女好きが始まりました。

出家した身で?と思われるでしょうが、平安時代、出家した天皇が再び女性と関係を持つ、あるいは妻を持つ、なんて珍しいことではありません。

もう少し時代が下りますが、平家が勢力を持ち始めた時代の、上皇や法王も絶えず女性をそばに置いていました。

28歳になった花山院は、藤原忯子の妹 四の君を寵愛します。

四の君ということは、忯子の父、為光(兼家の兄弟、忯子と道長は従兄弟)の4番目の女の子という意味です。ちなみに忯子は次女です。

平安時代の常として、女性の名前は、やはり知られていないのですね。

この四の君、どうも忯子とどことなく似ていたらしいです。

愛した女性の面影を求めて・・・このシチュエーションは「光源氏」とよく似ています。

「源氏物語」の光源氏は、最愛の女性、藤壺の女御の面影を生涯探し続けていたのですから・・・理想の女性と言うべき「紫の上」に出会ってもまだ、藤壺の女御への思慕は続いた、と言いますから。

しかし、女性遊びが派手なのは、「光源氏」よりも「源氏物語」のもう一人の登場人物、「頭中将」の方に近いような気がします。

花山天皇の西国三十三箇所巡り

現代でも知られている、西国三十三ヶ所巡りを始めたのが、出家した花山天皇だと言われています。

西国三十三ヶ所は、京都、大阪、奈良、兵庫、岐阜内の寺院で33ヶ所あります。

花山天皇は、奈良時代に「観音霊場33ヶ所の宝印を石棺に収めた」と伝わる話を信じて探していた、と言うことです。

寵愛の女性が死んだことから、仏道に深く帰依したと思ったら、実は宝探しだった、と言うのはやはり破天荒な、花山天皇の行動だな、と思います。

宝印、今では、御朱印となって、やはり現代人の心の拠り所の一つとなっているので、花山天皇の探究は無駄ではなかった、と言うことです。

各霊場で、花山天皇は和歌を読み、そこで御詠歌(ごえいか)として残されています。

意外と、現代につながる文化、慣習に伝承者なのですね、花山天皇は。

花山天皇の皇女(ひめみこ)、犬の群れに・・・!

花山天皇の娘という身分に生まれても、母親の身分が低いと、かなり苦しい生活を強いられます。

その挙げ句に、盗賊にあって殺されてしまうというのは気の毒すぎます。

この話は、藤原実資が「小右記」に書いておりますし、またこの話をベースにしたと思われる話が「今昔物語」にあります。

これは花山天皇が悪いわけではないのですが、不用意に子供を作ったために起きた事件なのです。

気の毒なのは、殺されてしまった娘でしょう。

これは事件当時も一大センセーションでした。

花山天皇の娘

一人の女性が、水浸しのまま死んでおり、しかも野犬にあちこち食いちぎられて、残された遺骸は、長い黒髪と首、そして紅い袴だけでした。

被害者は、花山天皇の娘。

天皇の娘は、皇女と言いますが、母親の身分が低い娘の場合は、王女です、と言ってもどちらも読み方は「ひめみこ」なのですが・・・

なんで天皇の娘がこんなところに・・・ですが、花山天皇やその一族にとっては体裁の悪い生まれの娘で、里子に出されていました。

その後は、一条天皇の妃の、藤原彰子(ふじわらしょうし)の元で、宮仕えをしてました。

全く天皇の娘と生まれても、皇族の一員らしくない扱いを受けていました。

1024年、12月の大惨劇

ある晩、その女房は彰子の邸宅にいたところ、家は強盗に入られました。

盗賊が金持ちの家から奪うものは、ほとんどが調度品と女性の豪華な衣装でした。

屋敷内が騒ぎになってきたので、手頃な身分の高そうな、女房を本人ごと連れ去ったのでした。

そこで、逃げる途中、着物を剥いで女性を放り出して行きました。

一人取り残された女性は、明かりもない真っ暗なかを手探りで歩いているうちに水路に落ちてしまった、というわけです。

やっと、女性はやっと這い上がったらしいですが、12月という冬の寒さ凍死したようです。

その遺骸を、野犬の群れが襲ったというわけです。

野犬というものは、日本ではかなり長い間、人びとを悩まし続けました。

犯人は?

「隆範」(りゅうはん)という僧侶が犯人として捕まりました。なぜ僧侶が・・・

狼藉に及んだ理由は明かされませんでしたが、黒幕がいる、ということが突き止められました。

黒幕は、藤原道雅(ふじわらのみちまさ)。藤原道隆の孫にあたる人物です。道隆は、道長の兄。

藤原道隆の子供たちは、道隆の死後、道隆が持っていた役職をほとんど道長側の手に渡りました。

特に、藤原道雅は、一族での権威も持てず、恋愛もうまくいかず、不良化(?)していました。

それでも、冠位では「従三位」(じゅさんみ)をもらっていたので、道雅の悪行と重なって「悪三位」(あくさんみ)なんて、あだ名で呼ばれていました。

「悪三位」ならやりかねない、と皆は言います。

では一体 道雅の本意はなんだったのか?藤原道長の一家を困らせるため、とみられますが、というにはやり方が残酷すぎます。

殺された女房に恨みでもあったのだろうか?そこが今でも謎のままです。

しかし、のちに、この事件を起こした盗賊の首領が捕まります。

そこで、隆範の取り調べは中止となります。

道雅に対しても、この後取り調べがあったのかどうか、全くわからずです。

いくら落ちぶれたといえども、藤原一門。もみ消しがあったのかもしれません。

それでも、道雅は官職を降格になっています。さすがに見逃すわけにいかなかったのでしょう。

例え、デマであっても、世の中を騒がせた罪は藤原家にとって許しがたいですから。

花山天皇の家系図

日本の天皇は世襲制ですので、天皇は代々子供が継ぐから、天皇の子は次の子供にというイメージですが、花山天皇の場合は少し違います。

確かに天皇の父親は天皇であることには間違いないのですが。

2024年1月の「光る君へ」での天皇は、円融天皇です。

ここでは花山天皇はまだ師貞親王(もろさだしんのう)と呼ばれていました。

師貞親王の父は、円融天皇ではありません、叔父です。

なぜそんなにややこしいことになってたのか?

村上天皇から冷泉天皇へ

円融天皇は即位前、守仁親王(もりひとしんのう)と呼ばれていた時。

父は村上天皇が亡くなり、守仁親王の兄 冷泉天皇(れいぜいてんのう)が即位しました。

ここまでは、長男相続で特に問題ありません。

新しい天皇が即位した時には、同時に皇太子を立てることが通例です。

冷泉天皇には子供がいませんでした。

いないことが好都合だったのか、家臣たちがそれぞれに 推しの親王 を立てました。

将来自分にとって、都合の良い、というか政権に食い込める天皇を立てたい、と思っていました。

一つは藤原氏、もう一つは 源高明(みなもともたかあきら)の二つの勢力ですが、藤原氏の推す守平親王が皇嗣となりました。

冷泉天皇から円融天皇へ

それが円融天皇です。

円融天皇は即位した時、まだ11歳だったため、政治事は当然、摂政たちに任されました。

今度立てた皇太子は、師貞親王で、冷泉天皇の子供でした。

冷泉天皇が即位してからできた子供で、やはり、冷泉天皇は、自分の息子に天皇位を渡したかったのでしょう。

しかし円融天皇にも子供が生まれます。その子供が懐仁親王(やすひとしんのう)。

藤原詮子との間の子供です。

円融天皇から花山天皇へ

円融天皇からすぐ息子の懐仁親王に行くかと思いきや・・・

次の天皇は、師貞親王に行ったのです。

これは、円融天皇が兄と約束しており、円融天皇の次には、冷泉天皇の息子 師貞親王に譲る、という約束だったからです。

円融天皇が即位した時、師貞親王は、皇太子になっていましたから、円融天皇が退位するときには、もう次の天皇が決まっていたことになります。

ここで円融天皇は、皇太子に懐仁親王を立てることを約束させます。

必ずしも、長子から長子へ相続という仕組みにはなっていませんでした。

花山天皇 死因

花山天皇は、1008年 41歳で亡くなります。

天皇の死、もちろん上皇や法王の死のことを、崩御(ほうぎょ)と言います。

かつて、昭和64年に、昭和の天皇が亡くなった時も、新聞には「崩御」と書かれていました。

花山天皇の死因は悪性腫瘍だった、のでは?と言われています。

資料には何も残されていないので、実際は謎ではあります。

しかし、身体にこぶのような腫れ物ができた、という話は伝わっています。

こぶというなら、外見で確認できるものなのでしょう。

皮膚に直接できる皮膚がんのようなものか、あるいは内臓にできで、内部から腫れてくるものだったのかは分かりません。

また辞世の句や最後の言葉も残されていません。

墓は、紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)。

京都市北区衣笠にあります。「わら天神」の近くです。

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