藤原繁子は藤原道兼の妻、親は?年齢は?一条天皇の乳母だった、離婚して再婚?その後と最後

2024年 NHK大河ドラマ「光る君へ」の悪役(?)、藤原道兼の妻が登場しました。

藤原繁子と言います。

最初は夫に従順で、おとなしく見える妻でしたが、爆発して、急に離婚!と驚くような展開を見せます。

「光る君へ」の他の女性たちほどには活躍があまり見られないと思った、女性でしたが、なかなかやるもんです。

ではどんな女性だったのか・・・案外幸せな生き方をした女性にみえます。

どんな生き方をしたのでしょうか?

藤原繁子と藤原道兼

藤原繁子、藤原道兼の妻

「光る君へ」の中で、藤原道兼に家族がいました。

妻が、藤原繁子です。

この方は他の女性たちとはちょっと違い、繁子という名前がしっかり残っています。

そのくせ、藤原繁子は、生まれた年も亡くなった年も知られていません。

いつ、道兼の元に嫁に来たかも知られていません。

しかし、藤原道兼の正室ではありませんでした。

それでも、子供が生まれ、その子供はのちに入内しています。

藤原道兼は、家の中でも、他の場面と一緒で、横暴そうな旦那さんです。

兄 藤原道隆の一家のようにほのぼのとした会話を繰り広げてはいません。

この時点ではあんまり幸せそうに舞えませんが・・・

藤原繁子と道兼は、叔母と甥

藤原繁子は確かに藤原道兼の妻なのですが、それ以前に、道兼の叔母でもありました。

どういい血縁か、というと、道兼の祖父 藤原師輔(もろすけ)の娘です。

つまり道兼の父 藤原兼家の妹であるのです。

現代の法律では、自分から見て三親等までの結婚は禁じています。

三親等というと、祖父母、曾孫、おじ、おば 姪、甥までを指します。血のつながりは直接なくても、三親等の配偶者も、三親等とみなします。

平安時代は、ここまで血が近い結婚ができたのですね。

おじと姪、おばと甥の結婚は普通でした。

例えば、紫式部の「源氏物語」の中でも、物語の登場人物 朱雀帝と、朱雀帝の母 弘徽殿(こきでん)の女御の妹 朧月夜(おぼろずきよ)との結婚が計画されます。

もっと前の時代、奈良時代では、皇族なら、母が違えば、兄弟 姉妹でも結婚ができました。

親族結婚は、日本に限ったことではなく、中国やヨーロッパでも王家では、血筋を守ため血縁で結婚をしました。

藤原繁子と藤原道兼、結婚のいきさつ?

道兼が、どうして、藤原繁子と結婚したかの理由はどこにもありませんが、「光る君へ」からある程度の想像してみました。

藤原繁子と藤原道兼に接点があるとすれば、東三条の屋敷でだと思います。

藤原詮子が、円融天皇と仲違いして東三条に、息子 懐仁親王と乳母の繁子とともに宿下りの時に出会いがあった、と見られます。

出会いと言っても、突然出会って恋をして・・・なんていう筋書きではなく、周りがお膳立てするような形で、一緒になったと思われます。

周りというと、繁子には兄弟で、道兼には父である 藤原兼家・・・あるいは、藤原詮子その人が世話したのかもしれませんね。

藤原繁子の親は?

藤原繁子は、父親は藤原師輔、ということがわかっています。

では母親はいったい誰だったのでしょう?

一説では、村上天皇の娘の一人、雅子内親王と言われています。

藤原兼家(道兼や道長、詮子の父)とは、母親違いの兄弟です。

となると、身分は高い方になると思うのですが、「光る君へ」を見たところではそんなに、権威ある人物には見えません。

実際、藤原詮子のもとで女房として働いていました。

女房というのは、行為な身分の方に仕える、女官のことです。

血筋で言うと、藤原繁子は藤原詮子にとって叔母に当たります。

えっ、そんな目上の人を女房に・・・?

考えられることは、繁子の父の師輔も、母親はすでに亡くなり、藤原繁子には後ろ盾がいなかったのでしょう。

平安時代は、男も女も、力ある人が裏についていないと、出世は難しい時代でした。

藤原繁子の年齢

生年月日がわかっていないのですが、大体の予測を立ててみましょう。

「光る君へ」では第8話『招かれざる者』で、藤原道兼は、まひろの家を訪れたシーンで、「独り者である」ということを言っていました。

しかし、実際は、道兼はもう藤原繁子と結婚していました。それは、藤原道長がついていた官位からの推定できそうです。

この頃の道長の位は、従5位 右兵衛権左衛(うひょうえごんざ)でした。その年代は985年です。

藤原繁子と道兼の間には、尊子(たかこ、または そんし)という娘がいて、尊子は984年の生まれと記録があります。

母親の生年がわかっていないのに、娘の生年がわかっているのはなぜ・・?と言うのも、尊子はのちに、一条天皇の元に入内したからです。

藤原繁子は、道兼より、年上だったのではないでしょうか。

藤原道兼の叔母であることも年上を感じさせます。

一条天皇(保仁親王)は980年生まれ、藤原道兼は961年の生まれ、ですから、一条天皇が生まれた時の道兼は19歳。

藤原茂子が詮子のもとで女房勤めをしていた、それも乳母、となるとその時は16や17歳、ほどの若い女性であるはずがありません。

乳母時代は、25歳近かったのではないでしょうか?

思ったほど年は離れていなさそうです。

藤原繁子は一条天皇の乳母だった

藤原繁子は、詮子が円融天皇の元に入内し女御った時に一緒に宮中に上がり、女房として仕えます

藤原詮子が懐仁親王(やすひとしんのう)後の一条天皇を産むと、乳母の一人となります。

親王の身分が高い場合は、その親王に乳母が3人付きます。繁子はその一人でした。

いくら後ろ盾がない・・・といってもなぜ、内親王の娘である、藤原繁子が女房勤めをすることになったのでしょうか?

  • 想像できることは、生活に困っていたのか・・・?ちょうど、「光る君へ」の主人公 まひろ みたいに?しかし身内として兄の兼家一家がいたので、そちらが放っておくことはないでしょう。
  • すでに結婚していて(道兼ではなく)、夫を病気か何かで失って、そこで、何か仕事をしてみようと思った。

藤原詮子は、自分の子供を任せられるほど、藤原繁子を信頼していたのでしょう。

しっかりした人物だった、といえます。

「光る君へ」の中で、藤原道兼と結婚してからの登場が目につきますが、実はドラマの中では、もっと早い時期からの出演でした。

また懐仁親王が幼いとき、親王の周りで、世話を焼いたりしていたところがあります。

藤原詮子は、円融天皇と折り合いが悪くなると、懐仁親王を連れて、京都の東三条の実家に帰っていました。

藤原繁子は、一条天皇の乳母を務めたことがあるため、懐仁親王が天皇になった時、従三位の位を授かりました。

天皇の乳母を務めた人は、皆 従三位をもらうことに決まっていましたから。

ですから、道兼と結婚した時、道兼は悔しかったのかもしれませんよ。

藤原道兼は何かというと、自分の方が下なのを不服に思う人でしたから。

藤原繁子の離婚!

藤原繁子は藤原道兼と離婚してしまいますが、離婚の理由は明らかではありません。

大河ドラマ「光る君へ」のように、暴れる(?)夫がいやになったのでしょうか?

結婚した当初は、藤原繁子の方が、夫 藤原道兼より位が上でした。

天皇の乳母をを務めていた、という理由で、夫より妻の方が上、というのを藤原道兼は面白く思っていなかったのかもしれませんね。

ですが、藤原道兼は、すぐに繁子の地位を抜きます。

離婚理由を考えると、夫に妻がついていけなくなった、が一番考えられます。

DVも入れたいですが、こちらは証拠がありません。

道兼は娘もいずれは、入内させたい、と考えていましたから、考えにくいです。

ドラマの中では、繁子の方が一方的に別れを切り出しましたが、実際のところはわかりません。

道兼の方に分かれる理由が見つからないので、どうも繁子の方が夫に耐えられなくなった、という理由が一番かと思います。

平安時代は、正室以外は、夫が妻の家に通う「通い婚」がほとんどでした。

通い婚の場合は、夫が通ってこなくなったら、妻は見限られたと思って次の夫を見つける、こともありましたが、繁子の場合は当てはまりません。

「養老令」という平安時代で、使われていた法律では「子供がいない、義理の父母を敬わない、盗難癖がある・・・」などの条件を満たせば、離婚できる、とありました。

それに当てはまりそうな要素は見当たりません。

離婚には父母の同意が必要、というのも条件でしたが、それは、律令が成立した古代のことで、平安時代になると、そこまでの手順はとられなくなりました。

面倒だったのでしょうね。

双方のすれ違い、つまり性格の不一定、という離婚理由は多かったのです。

それは現代と同じですね。

藤原繁子の再婚・・・まさか不倫?

藤原繁子は、992年に再婚しました。

相手は、平惟仲(たいらのこれなか)、藤原兼家の家司を務めていました。

そして、次に藤原道兼の家司になりました。

「光る君へ」の中では、繁子は「好きな人ができたから、出ていく」と言って、藤原道兼のもとを去ります。

これ・・・不倫じゃないですか?

でもご心配なく、実際は不倫ではありません。

いくら恋愛に寛容な平安時代でも、不倫は許されませんでした。

藤原繁子の今度の結婚生活はスムーズに進んでいきました。

周りからも非難されていた、という記録もなく、娘 尊子も宮中に入内することができて、良い人生を送ることができました。

周りからも羨ましがられたところから考えると、不倫ではないといえます。

藤原繁子のその後

新しい夫 平惟仲は平氏の一族です。

平惟仲は、藤原道兼の家司をしていましたが、藤原道隆 寄りの人物でした。

道隆は病で亡くなってしまうのですが、その後、道兼につくということはありませんでした。

というか、道兼も関白になるものの、こちらも病で亡くなってしまいます。

その後は、道長に付き従っていくことになります。

自分の地位が上がっていくように上司を選ぶなんて、ちょっと日和見的な人物ですね。

言い方を変えれば世渡り上手?

藤原繁子は、また宮中に職を得て上がり、尚侍(ないしのかみ)となります。

尚侍の仕事とは、後宮の事務仕事です。身分は相当高い方です。

やがて娘 尊子を、一条天皇に入内させることができました。

尊子を入内させたい、と娘の父 道兼も願っていましたが、亡くなっていて、その姿を見ることはできませんでしたね。

一条天皇には、自分と同じ一門である、藤原道長の娘 彰子 も入内し、中宮になります。

その時には、少子の髪結いを務めました。

後宮にいることで、清少納言や紫式部とも関わることになりました。

のちに清少納言は「枕草子」の『羨ましげなるもの』の中に、藤原繁子のことを書きました。

自分の勤めを十分に果たしていたことから、甥の藤原道長からも尊敬されていました。

藤原繁子の最後

藤原繁子はどのような死因で亡くなったかも記録はありません。

夫 平惟仲の方は、1005年3月14日、亡くなりました。

すると、藤原繁子は、好明寺に出家して、隠遁生活を送りました。

最初の夫、道兼の方がはるか前に亡くなっていますが、こちらに関してはあんまり菩提を弔おう、ということはありませんでした。

新しい夫、平惟仲の方を愛したのでしょうね。

やはり、藤原繁子は、道兼に横暴さを感じて、離婚を強く希望したのでしょうか?

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