テレビ朝日系列で、2025年1月から時代劇「暴れん坊将軍」が復活します。
ここでは、主役の徳川吉宗ではなく、尾張藩主 徳川宗春(とくがわむねはる)を取り上げます。
ドラマでは、GACKT がキャスティングされ、話題になっています。
では、徳川宗春とは一体何をした人か、将軍吉宗にとってどんな存在だったのか、なぜGACKTが演じるほどの人物なのかを、調べてみました。
徳川宗春、何をした人?
第七代 尾張藩 の藩主で、尾張藩のための独自の、財政改革をおこなった人物、これが徳川宗春(とくがわむねはる)です。
その時代は、1700年代前半のことで、幕府からの命令の質素倹約とは、全く別の路線を打ち出した殿様です。
質素倹約の令を出したのは時の将軍、徳川吉宗(とくがわよしむね)、ですが、吉宗に、真っ向から対立しました。
徳川宗春の著書「温知政要」には
「いき過ぎた倹約は、反対に庶民を苦しめる」、「規制を作っても、違反者が増えるだけ」
と書いてあります。
これは、幕府の「享保の改革」に対する批判で、徳川宗春は、規制緩和を呼びかけていたのです。
徳川宗春は、「温知政要」を、尾張藩の藩士に配る、という徹底ぶりでした。
この本の影響でしょう、名古屋は賑わい、商人は活気づいて、庶民は楽しんでいました。
徳川宗春、吉宗とどんな関係?
徳川宗春と、将軍 吉宗は 、どちらも「徳川」と言うのですから、当然のこと、親戚関係です。
親戚であるため、家同士のライバル意識もありました。
ライバルである起源を示した、面白い落語があるので、ご紹介しておきましょう。
徳川宗春、吉宗とライバル意識を持つ親戚同士
徳川宗春は、尾張藩の生まれ、吉宗は紀州藩の生まれでした。どちらも徳川御三家です。
徳川御三家というと、徳川家康の息子たちを祖先とする家で、将軍家に次ぐ地位を持ちます。
尾張藩は、家康の第九子 義直(よしなお)、紀州藩は、家康の第十子 頼宣(よりのぶ)から始まった家です。
徳川宗春も吉宗も、似たような生まれであったので、徳川宗春1696年、吉宗1684年の生まれで、吉宗の方が12年、年上です。
どちらも父親は、藩主ですが、母の身分が、どちらも側室で、宗春は20男、吉宗は4男、将軍どころか、藩主の座も遠い立場にいました。
両方が藩主になれたのは、次々兄が亡くなったからです。
江戸時代当時は、医学も現代に比べるとまだまだ発達しておらず、死亡率は高く、将軍や藩主といえども、例外ではありません。
そこで、殿様たちは、後継者が必要なため、子供をたくさん作ったので、子供が20人以上いることも、ざらでした。
紀州家も尾張家も、御三家で、将軍家の次に権威がある家であるため、紀州藩主(吉宗の父)も尾尾張藩主(宗春の父)も、いつかは将軍になることを、夢見ていました。
徳川宗春も吉宗も、将軍になることは、父の時代からの悲願だったのですね。
将軍 吉宗は、徳川宗春を嫌っていたようです。
徳川宗春の肖像画が残っていないのは、吉宗が描かせなかったから、ということが通説になっています。
徳川宗春と吉宗はなぜライバル意識を持ったのか?
二人の対抗関係は、徳川宗春が将軍争いに負けた後から、目につきました。
その前は、尾張藩は紀州藩に、負けないゾ、というくらいの気持ちでした。
徳川宗春の父に将軍職に対するこだわりがあった、ことも関係していそうです。
吉宗にしてみれば、下降してきている日本の経済を考え、緊縮政策をとったのに、徳川宗春が快楽を勧めるなど、自分の方針と全く違ったことをやってのける、
そして、徳川宗春のやり方が人気を集めるなんて、
吉宗は、自分のやり方が間違っているのか、と悩み、その原因となっている徳川宗春を、まさに吉宗の目の上のたんこぶとして恨んだことでしょう。
徳川宗春の方も、自分の娯楽歓迎のやり方が、人々に受け入れられると知ると、吉宗よりうまくやった、といい気分になったのでしょう。
こうして、双方は、お互いを意識し合う仲になっていったのですね。
徳川宗春と吉宗を扱った落語
徳川宗春と、吉宗の将軍争いを、使った面白い落語があります。
それは「紀州」という落語で、五代目 円生(えんしょう)の噺として有名です。
内容は
第七代徳川将軍が亡くなり、新しい将軍として、尾張藩の徳川宗春と紀州藩の徳川吉宗が候補に挙げられました。
その決定を行う大評定(だいひょうじょう)の朝、徳川宗春は、江戸城に馬で向かったのですが、その途中鍛冶屋の横を通りました。
すると「トンテンカン、トンテンカン」と、刃物を打つ威勢の良い音がしてきました。
徳川宗春にはそれが「天下を取る、天下を取る」と言っているように聞こえ、大変縁起が良いものだ、と思っていました。
さて、評定が始まり、宗春は、将軍職はどうか?と尋ねられた時、「身に余ることであって、とても受けられない」と謙遜して答えました。
一方の吉宗にも同じ申し出をしたところ「身に余ることではありますが…」とここまで、徳川宗春と同じことを言って…
と思ったら、「でも、自分で役に立つなら、将軍職、引き受けましょう」という答えから、
結果、吉宗が八代目 将軍となりました。
徳川宗春が、がっかりして帰る途中、朝の鍛冶屋がまだ刀を打っており、「トンテンカン」と音を立てていました。
「あの槌音は一体何だったんだ?」と思った瞬間、鍛冶屋は打ち終わった刀を、しめるために水に入れます。
すると、その音は「シューッ!」、徳川宗春に聞こえた音は「キシューー」(紀州)でした。
というオチです。
徳川宗春と吉宗のライバル関係を、表した、お話ですね。
徳川宗春、「暴れん坊将軍」に登場!
2025年新春にスタートする「新・暴れんぼう将軍」で徳川宗春にキャスティングされたのは、人気アーティストGACKT。
型破りな藩主、徳川宗春を演じるには、ピッタリな人物ですね!
特に徳川宗春の奇抜なファッションは、GACKTには打ってつけ、とっても似合っていると思います。
「ド派手」な徳川宗春が出来上がり、面白いことになりそうです。
徳川吉宗も徳川宗春も、どちらも、貧乏侍のふりをして町民生活に紛れ込みます。
GACKTが、「新・暴れん坊将軍」への出演を受けたのは、監督が三池崇史からの要請だったからです。
以前も、GACKTは三池崇史監督の作品に出演していて、監督の作風などが気に入っていたと思われます。
それと、「暴れん坊将軍」が持つ様式的な美しさ、主演の吉宗役 松平健へのリスペクトがあるからでしょう。
徳川宗春のキセルとは?
「新・暴れん坊将軍」では、徳川宗春 役のGACKT が、1メートルはあろうかというキセルを、くゆらす、そんなシーンがあります。
1メートルものキセルがあるのか?本当に徳川宗春は使ったのか?
はい、1メートルどころか、3〜4メートルはあろうか、というキセルを使った、話があります。
初めての、国入りの時に、全身黒づくめの衣装で、真っ黒な馬に乗り、タバコを吸いながらの行進でした。
徳川宗春の前にも、黒づくめの従者を歩かせ、その方に、3〜4メートルあるキセルを、担がせて、その口先を自分の方にむけ、キセルを吸っていたわけです。
黒づくめと言っても、金の縁取りがあり、着物の内側は真っ赤、頭には、鼈甲でできた唐人傘と言われる、縁付きで中央が高く尖っていた、帽子をかぶっていました。
徳川宗春、牛に乗る?
徳川宗春が、白い牛に乗った、というのも、庶民を喜ばせた話の一つです。
どういうシチュエーションで牛に乗ったかというと、初代 尾張藩手の墓参りの時です。
しかも、その時の着物は、真っ赤な着物で、頭には鼈甲の傘を被り、ここでも、1メートル以上あるキセルを加えて。
墓参りとは思えないほどの、服装です。
牛に乗った姿は、「けいせいつまこひざくら」という、絵入り狂言本に描かれています。
徳川宗春の積極財政とは?
徳川宗春の撮った、財政政策は「積極財政」という呼び方ができます。
それは、将軍 吉宗が取った「緊縮財政」に逆らった、ということです。
「積極財政」とは文字通り、積極的にお金を使うことです。
何に使うかといえば、娯楽であり、徳川宗春 自身、快楽のために「積極的に」消費をしました。
派手な着物、遊郭、と、娯楽にお金を使えばお金は、いくらでも消費できます。
また。「庶民が倹約するのは、楽しみにお金を使うため」とし、
吉宗の政策を、「節約させるだけ節約させて、苦しめるだけではなく、楽しみまで奪おうとするのは間違っている」と批判しました。
徳川宗春は、藩が、庶民がお金を使いたくなるような娯楽を提供することが必要、と考えていました。
徳川宗春、倹約に反抗?
徳川宗春は倹約を経済政策とは思っていませんでした。
それどころか、「倹約は、庶民をすさませる」とまで言って、お金を豪勢に使った方が人の心は明るくなる、そう見て実践して見せました。
その一つ、徳川宗春は自分自身から、派手の奇抜な身なりをしました。
その身なりは、歌舞伎や能で使われるような衣装を、実際に身につけて、街中への巡視を行いました。
それを見た、庶民も見て喜び、徳川宗春の方も、もっと庶民が喜ばす衣装を工夫していました。
そうは言っても、寺社に参拝する時、幕府に登城するなど、正式な時にはきちんとその場をわきまえた装束で、出向いていました。
ドラマで見るように、将軍様にハデな衣装でお目見え、なんてことはさすがにありませんでした。
きちんと道理をわきまえた人だったのですね。
庶民の娯楽、芝居や遊郭をどんどん、作っていきました。
江戸幕府の方は、質素倹約令が出て、庶民の娯楽は減らされる一方でした。
徳川宗春、改革の結果は?
徳川宗春の時代、確かに経済は活性化し、名古屋の街は賑わいました。
将軍 吉宗の倹約を強いられた生活に比べると、名古屋の街は楽しそうで、江戸幕府のやり方の方が失敗したように見えます。
名古屋が大いに、活気付いたのは確かです。
徳川宗春で活気づいた街
徳川宗春が、娯楽を進めたおかげで、名古屋は、商人が活気づいて、庶民の楽しみも増えました。
名古屋の賑わいぶりは、
「名古屋の繁栄に、京(興)がさめた」という、言い回しができたほどです。
京都の「京」と興味の「興」をかけた、言い方で、名古屋の賑やかさは、他のどこにもない、と言う意味です。
今でも「名古屋は芸どころ」、「名古屋で当たれば全国で当たる」と新しい芸術、娯楽や、流行するものが出た時に、言われるほどです。
それだけ名古屋は、文化・芸術の発展に期待される都市になる、土台づくりをしたのが徳川宗春です。
文化面では将来に続く成功を遂げたわけです。
徳川宗春、政策の結果は?
財政的な政策から見ると、成功した、とは言い切れません。
名古屋の街に、自由さが進む影には、財政の不足が出てきます。
徳川宗春の時代では、快楽の追求に夢中になるあまり、武芸や家業をおろそかにするものも現れてきました。
家業もそこそこに、快楽にふけると、お金を稼ぐ手段がおろそかになり、生活の困窮につながり、風紀も乱れてきます。
やがて、金銭の困窮、世の中の乱れの原因・責任を、徳川宗春に追求していきます。
尾張藩(名古屋藩とも言う)は、徳川宗春の政策から、財政の赤字が増えた、と言います。
赤字の解消に踏み切るため、藩側では領民に借上金を命じたこと、商人からも税を取ろうとしたこと、庶民の暮らしが圧迫されることになりました。
税を取ろうとしたことで、徳川宗春は人気を失うことになるのですが。
とは言うものの、徳川宗春時代「赤字説」は、江戸末期の記録を見て、名古屋が「名古屋市史」につけたもので、本当に赤字が増えたのかは、定かではありません。
不満を抱く家臣は、徳川幕府と結ぶことで、徳川宗春の失脚を計画します。
徳川宗春、蟄居・謹慎を命じられる
徳川宗春失脚計画はついに、現実のものとなります。
1738年、参勤交代で、徳川宗春が江戸に行った留守に、家老 竹越正武(たけこしまさたけ)が中心となって、家老たちで、藩政の実権を奪ってしまいました。
竹越正武は、付家老(つけがろう)と言われて、幕府から派遣され、尾張藩を見張る役目にありました。
スパイみたいな役割ですが、徳川御三家には、江戸から「付家老」が派遣されることが、江戸幕府始まった時からの決まり事でした。
ですから、このような藩主追い落としのような事件が起こるのも、ある程度仕方ないと、藩側は覚悟していました。
しかし、なぜ、徳川宗春は、その対策を立てていなかったのだろう、と疑問に思います。
1739年、徳川宗春はついに、幕府から蟄居謹慎を申しつけられてしまいました。
謹慎は、名古屋城三の丸にある屋敷で隠居生活を送る、というものです。
徳川宗春は名君?
ある意味、名君ということができます。
どういうところかというと、当時のしきたり、刑罰を少し変えたことです。
徳川宗春のやり方、その1「犯罪者に死刑以外の刑罰を与える」
徳川宗春の時代、死刑は名古屋では一度も行われませんでした。
死罪にあたるほどの罪を犯した人には、髪や眉を剃る、という処分をしました。
これはちょっとゆるすぎると思いますが。
死罪にならないから、という理由で犯罪を起こす人が増えるかもしれない、と心配が生まれます。
また、理想としたのは、犯罪を取り締まることではなく、犯罪を起こさない町づくりをすることを目指したのです。
徳川宗春のやり方、その2「男女の仲に対し厳しくしない」
これは、庶民と上級武士の出会いの場を作る、今日の出会い系アプリに似ていますね。
心中についても、大目に見るところがありました。
畳職人が遊女と心中しようとしたところ、職人を晒し者にはしましたが、その後、遊女と夫婦になることを認める、
など、当時では心中は未遂も含めて死罪、とされていたのだから、かなり緩くしました。
愛し合う二人に死刑なんて、無粋なことはしない、ということでしょう。
本当に、愛であれば愛するが故に死刑、とはかなり厳しい戒律でしたね。
徳川宗春の墓?
1764年、徳川宗春は謹慎のうちに亡くなりました。
遺体は、尾張徳川家の菩提寺 建中寺(けんちゅうじ)に葬られました。
しかし、将軍 吉宗は徳川宗春を罪人とみなして、墓に金網をかけた、と言います。
徳川宗春の死後75年間、金網はかけられたままでした。
吉宗の怒りは、しつこいものだったのですね。
外したのは、第11代将軍 家斉(いえなり)の時代、家斉のだい15男 斉朝(なりとも)が尾張藩手になったときでした。
明治時代には一度、発掘調査され、ミイラ化した状態で発掘されました。
第2次世界大戦で被弾し、一部が壊れました。
徳川宗春は死後も、ゆっくり休んでいられないようで、私には気の毒に思えます。
まとめ
徳川宗春は、お金を使うことで経済を回し、そこから経済の発展を、
吉宗は、お金を極力使わないでいることで、お金を貯める、という考え方をしました。
しかし、どちらの考え方も、大事な考え方であるのですが、双方を同時に行わないと、効果が発揮されない政策になります。
両方の殿様がタッグを組んだとしたら、きっと財政の状態は良くなったのではないかと思います。
徳川宗春の娯楽主義のところは、もう一つ先の時代に、花開くことになりそうです。
それが、NHKの大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢話〜」の賑わいではないでしょうか?
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