2025年は、池田理代子先生の「ベルばら」が誕生してから50年となります。
それにちなんで、新しい劇場アニメが作られます。
ちょうど、2024年 夏開催中のパリオリンピックにも、マリーアントワネットさんが登場しました。
ここで改めて、マリーアントワネットを見つめてみようと思います。
その生涯、幼少期から、結婚、そして、革命に巻き込まれ、処刑されるまで、どんな時系列だった火を、見ていきましょう。
マリーアントワネット、幼少期は?オーストリアのハプスブルク家生まれ。マリアテレジアの娘。兄弟は?
マリーアントワネットはフランス人ではありません、生まれは、オーストリアです。家の名前はハプスブルグ家。
母は、オーストリアの女帝、マリアテレジアです。
父は、神聖ローマ皇帝のフランツ1世、ということで、どこから見ても、立派なお姫様です。
ウィーンで生まれ、オーストリア宮廷でのびのびと育てられました。
特に、マリーアントワネットは、15人兄弟姉妹の末っ子ということもあって、結構甘やかされていたのではないでしょうか。
母親のマリアテレジアの方も、たくさんの子供がいるし、自分も国王としての責務があるので、全ての子供の隅々まで、手が回りません。
マリーアントワネット自身一生懸命勉強するより、遊ぶ方が好きだったのです。
いつも、教師の目を盗んで、他の兄弟や宮廷にいた同年代の子供たちと遊んでしました。
マリアテレジアがマリーアントワネットの縁談を進めようとして、マリーアントワネットの様子をチェックします。
マリーアントワネットは、何も勉強が身についていなかったことに気がつき唖然とします。
そこから、マリーアントワネットに徹底的に教育するのですが、実際にそれは身についたかどうか…
なぜ、こんなにわがままとも言える行動を周りが許してたのか、疑問なのですが。
当時の女官たちの手記から、マリーアントワネットの笑顔には、逆らえなかった、とありました。
そんなマリーアントワネットの人懐こい性格は、生涯にわたり、彼女の魅力となっ他と思われます。
マリーアントワネットの結婚、何歳?相手はフランス 後のルイ16世。
マリーアントワネットの元にフランスから縁談が持ち込まれます。
当時は、国と国が同盟して平和に暮らせるために、国同士の王族が結婚することは当然と思われていました。
それに、次期国王のためにも、王家の血統は必要でした。
この時、フランスとオーストリアの間柄はどうだったか、というと何度か戦争を起こしており、その争いもそろそろ、終わりにしたい、と考えていました。
他国を牽制する意味でも、オーストリア、フランスの結びつきは必要でした。
フランス側も、次期国王ルイ(のちのルイ16世)にちょうど良い花嫁をヨーロッパ中から探していました。
オーストリアも、その噂を聞いて、自国の姫を売り込みます。
ヨーロッパ中で、結婚合戦が始まったようなものです。
マリーアントワネットとルイ16世。結婚はどのように?王妃として。結婚生活は?仲は?
マリーアントワネット、結婚の事情
フランスのルイ王太子には、何人かお妃候補の姫君がいたのですが、マリアテレジアの売り込みもあって、マリーアントワネットが花嫁、と決まりました。
政略結婚ですが、当時の王様たちの結婚は、結婚といえば政略結婚だったので、当時の王子様、お姫様はそれほど犠牲とも思っていなかったのではないでしょうか?
政略結婚だから、お互い、どこまで愛情を持ち合ったものなのかは想像できません。
マリーアントワネットとルイ16世は、お互い、特に相手が嫌だ、と思うこともなく、だからと言って、愛情を持ち合うわけではなく、という夫婦生活でした。
仲が悪いわけでもなく、だからと言って、特に仲がいいわけでもない、王侯貴族の夫婦生活なんて、そんなものだったのかもしれません。
ルイ16世の方は性格が穏やかで、歴代のフランス王のように、愛人、というものを持つことはありませんでした。
マリーアントワネットの方は、知られれているのはフェルゼンという恋人がいた、という話が知られていますが、それだけです。
マリーアントワネットと、ルイ16世が心から信頼し合える仲になったのは、革命が起きて、タンプル塔に幽閉された時、でした。
マリーアントワネット王妃となる
マリーアントワネットは、1774年、ついにフランス王妃となります。
ルイ15世が崩御(ほうぎょ、国王の死亡のこと)、ルイ16世が即位し、その妃であるマリーアントワネットが王妃した。
王妃となった、マリーアントワネットは、宮廷のこれまで窮屈に思っていた、しきたり、礼儀などを自分好みに変えました。
例えば、身分の高い人(国王や王妃)にものを渡すとき、誰が渡すか決まっていました。直接、渡してはいけなかったのです。
また、朝の謁見を簡素化する、それには時短にすることも含めます。
国王や貴族の食事風景を、公開にすることをやめる、などがありました。
食事の一般公開は、あまり良い趣味とはいえないと私は思いますので、中止でもいいかと思います。
が、物を渡す役目は、職業を減らすことになるから、その仕事をしている人にとっては職務を奪うことになるので、吟味が必要でしょう。
謁見を減らす、というのは、王族の義務を放棄しているように見えます。
これらが、積もり積もって、フランス革命の原因の要素の一つともなったと、いうことが考えられます。
マリーアントワネットの住んだところ、ヴェルサイユ宮殿、田園のあるプチトリアノン
マリーアントワネットの居城、ヴェルサイユ宮殿
フランス王妃となった、マリーアントワネットは、ベルサイユ宮殿で生活していました。
ここでは主に王妃としての、役割を果たすための場所ということです。
現在でも、観光スポットとして人気のあるベルサイユ宮殿、イメージもきらびやかですよね。
ベルサイユ宮殿は、フランスの首都、パリの南西22キロほど離れて、一つの村ほどの大きさのある宮殿です。
ですが、ベルサイユ宮殿、18世紀当時は、悪臭漂う宮殿でした。
当時はまだ、トイレという場所が確立していなかったからです。
椅子型の便器が用意されていましたが、それがベルサイユに暮らす人数分ありませんでした。
便器がなかった者は、廊下の隅などで用を足すこともあったようです。
ですからベルサイユ宮殿は、臭いがひどく、長期の滞在は我慢ならないことでした。
悪臭と、それから、堅苦しい儀式が嫌なため、マリーアントワネットはよくベルサイユを抜け出して、プチトリアノン宮殿で滞在していました
プチトリアノンはそんなに、トイレを使わなかってのでしょうか?
マリーアントワネットが愛したプチトリアノン
ベルサイユ宮殿の庭園にある離宮です。
四角い形をした、小さな宮殿です。
マリーアントワネットが、この城を手にしたのは19歳の時。
夫のルイ16世からマリーアントワネットにプレゼントされ、マリーアントワネットはプリトリアノンをプライベートを過ごす城としました。
マリーアントワネットは、プチトリアノンの庭に農村を作ってしまったのでした。
農村では、作物を作ることもできます。
そのために、雇ったスタッフに農民の服を着せて、畑仕事をさせていました。
マリーアントワネットは、プチトリアノンがすっかり気に入り、ヴェルサイユにいる時間より長くなってきました。
ということは王妃としての務めを果たさないで、このプチトリアノンで遊び呆けていた、のでしょうか。
マリーアントワネットの子供。流産したことも。息子や娘のその後。
マリーアントワネットには、子供は4人生まれます。
長女 マリーテレーズ
長男 ルイ・ジョセフ
次男 ルイ・シャルル
次女 ソフィー
初めての子供は結婚後8年経った1778年に、生まれました。
それが女の子だったため、男子の誕生が待たれました。王様のいる国はどこも時期王の誕生に一生懸命ですね。
1581年、待望の男子 ルイジョセフが生まれます。しかし身体の弱い子だったため、わずか7歳で生涯を終えます。
ありがたいことに、マリーアントワネットはもう一人男子 ルイシャルルを1785年に産んでしました。
ルイシャルルが、次の王太子となりました。
ですがフランス革命の中で、10歳ほどで、牢獄で不幸な死を迎えます。
歴史に登場する、マリー・アントワネットの子供は3人ですが、実はもう一人いました。
1786年に次女 ソフィーが生まれました。
ですが、結核にかかり、1歳にもならないうちに亡くなりました。
マリーアントワネットの子供たちはあまり幸せとはいえない生涯を送りましたが、これはフランス革命のせい、ですが、あまりにも可哀想すぎます。
マリーアントワネット、革命の理由に!浪費の人、税金の無駄遣いが理由。逃亡に失敗し幽閉に。
フランスの財政難、マリーアントワネットの贅沢、それらフランス庶民の生活はどんどん厳しくなっていきます。
税金を納めなければならないからです。
しかも、飢饉が続き、農作物の収穫が望めなくなるのですが、それでも税金が減ることはありません。
一方貴族は、税金を納める義務がない、となれば、庶民は貴族、聖職者のために税金を払い続けるのです。
そうすると、マリーアントワネットの贅沢ぶりがますます、目立つようになります。
それにマリーアントワネットはフランスの庶民たちから見ると外国人。
庶民の目には、自分たちはこんなに苦労しているのに、アントワネット様は贅沢ばかり。
と、庶民の目に映るのでした。
最初は庶民は、「パンをよこせ」というデモをしましたが、だんだんとエスカレートして、王族をやっつけて、自分たちの自由を取り戻そう、という運動に発展してくのでした。
庶民の心が高揚して、バスティーユ襲撃に繋がり、フランス革命勃発、に至ったわけです。
フランス財政難の1番の問題は、ルイ14世時代から続いてきた、戦争による者でしたが、庶民の憎しみの対象は、すぐ身近にいる、マリーアントワネットが悪の根源に見えたのでした。
庶民の憎しみの対象は、マリーアントワネットと王族、貴族となったのでした、、
マリーアントワネット、逃亡する!
1789年のバスティーユ襲撃で幕を開けたフランス革命。
反乱(最初は、革命ということがをよく知らず、反乱と王たちは見ていた)はどんどん広がり、ベルサイユ宮殿にまで市民が襲ってくるようになりました。
ついに国王は自分たちの権威を失い、自分たちの安全を守ってもらうため、ベルサイユ宮殿を出て、チェイルリー宮殿に連れて行かれ、監視されます。
国王一家は、自分たちの権威をこれ以上奪い取られないように、そして命の安全を守るため、国外逃亡を計画します。
マリーアントワネットの故郷、オーストリアに助けてもらうつもりでした。
それは1791年6月に決行されたのですが、たったの1日で捕まり、パリに連れ戻されました。
逃亡の失敗は、フランス王家をますますピンチに追いやる結果となりました。
国民たちは、自分を見捨てる王などいらない、と主張するようになったからです。
マリーアントワネット、幽閉生活に
逃亡事件の後、国王、マリーアントワネットたちは、王宮からタンプル塔に移されました。
ここで、マリーアントワネットたちは、幽閉生活を送ります。
それでも、一家そろって過ごせる、束の間の家族の平和が味わえる時間でした。
裁判が行われ、ルイ16世の有罪が確定し、国王が処刑で、ギロチンにかけられました。
すると、今度はマリーアントワネットだけを、コンシェルジェリー牢獄へ移されます。
ここは昔は、城だったのですが、1300年代後半あたりから、牢獄として使用されていました。
外観は、普通の城、という感じです。
革命裁判所が隣にあり、ここまできたら、マリーアントワネットは裁判、と、もう決められていたようなものです。
マリーアントワネット、最後の日々、最後の食事、最後の言葉を残し、ついに処刑!
1793年10月3日、マリーアントワネットは革命裁判にかけられます。
裁判と言っても、最初から死刑と判決が決まっていた裁判です。
判決は、国家反逆罪。
フランスをオーストリアに売ろうとした、という罪にしたかったのですが、決定的な証拠が出ず、マリーアントワネットの贅沢も含めて国家反逆罪、としてわけですね。
処刑の日は、マリーアントワネットを荷馬車に乗せ、それも後ろ向きに座らせ、群衆の目に長くさらし、コンシェルジェリーから、処刑台のあるコンコルド広場まで、ゆっくりと進ませました。
現在なら、タクシーで4分と、ガイドブックにありました。
当時でも、大した距離ではないはずです。
1973年10月16日、ついに マリーアントワネットは、処刑されました。
38歳の生涯でした。
2024年7月、私たちは思わぬところで、マリーアントワネットにお目にかかりました。
パリオリンピックの開会式。
パリのセーヌ河岸に立つ、コンシェルジェリー…ここは現在世界遺産になっていますが。
そのコンシェルジェリーの窓辺に、何人ものマリーアントワネットが真っ赤なドレスを着て、自分の首を手に、歌っていました。
私たち、フランス人でない者には、フランス革命の意味することを真に理解してはいないのでは?と思った瞬間です。
マリーアントワネットは、古い時代から新しい時代への幕開けの象徴のような存在なのかもしれません。
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