「べらぼう」では、松前藩藩主 松前道廣(まつまえみちひろ)とその弟 蠣崎波響(かきざきはきょう)が、活躍を始めました。
日本の最北地、北海道の唯一のハンデス。
松前藩とは一体どのようにできた藩だったのでしょう?
「べらぼう」の時代、蝦夷地はどのようなものだったのか?そんなに寒い蝦夷地は、なぜ注目を浴びるようになったのか?
蝦夷地の魅力を調べてみました。
蝦夷地とは?
北海道のことですが、単純に北海道というだけでなく、和人(日本人)でない人の土地を意味していました。
蝦夷の読み方は、えぞ 昔の日本では(平安時代くらいまで遡ると)えみし と読むこともできます。
蝦夷とは日本国にとっても、異国人、それも日本と敵対する勢力として見なしていました。
かつては東北地方も、蝦夷(えみし、えぞ)の地と呼ばれていました。
源頼朝や徳川家康の称号、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)という地位も、元はと言えば、東北以北の蛮族を平定する将軍という意味でした。
それがいつの間にか、日本を治める将軍の名称になってしまいました。
平安時代の東北地方の、朝廷に反乱を起こす勢力「えみし」と、蝦夷(えぞ)の民族が同じ、と思われるかもしれませんが、そうとは言い切れないのが、現代の見解です。
蝦夷とは、中央(首都圏?)の人々と生活様式・文化が異なっている民族の呼び名でした。
しかし、非常に古い時代のことですから、日本人であっても中央とは生活習慣・風習が違う場所は、日本人でも「蝦夷」と言われていた人々がいたのでしょう。
習慣・文化の違う人々の中に、アイヌ民族も入っていた可能性もあります。
平安時代以降も、東北地方から北の地域は、政府中央の支配力が届いていなかったので、地域の名称として「蝦夷」(えぞ)が残ってしまった、というわけです。
アイヌと見られる人々が、日本の歴史の中に見られるようになったのは、1356年ごろにできたと言われる「諏訪大明神絵詞」のなかに出てきています。
アイヌ、という民族は、和人と言われる日本人と比べると身体的特徴が少し違います。
それで、アイヌはモンゴル系の人種より、コーカサス系では?と考えられたこともありますが、今ではそれよりも、やはり東洋人であるモンゴル系のDNAを受け継いでいることがわかっています。
蝦夷地と松前藩の関係は?
蝦夷地を管轄していたのは、松前藩です。
蝦夷で松前藩ができるまでは?
15世紀中頃(室町時代)に蝦夷地に移り住んできたのが、蠣崎季繁(かきざきすえしげ)ですが、この人物については確かなところがわかっていません。
若狭国(福井県)の武田氏の親族とも言われています。
蠣崎という人物は、渡島半島の上ノ国(かみのくに)の花沢館(はなざわだて)の豪族の婿となり領主になった、という伝承が、現在の上ノ国町に残っています。
上ノ国とは、松前とは地理的に近いです。
もう1人の若狭の武士、武田信広も若狭国を去り、南部藩(仙台〜青森あたり)に行き、その後 蝦夷地に渡り、花沢館の蠣崎季繁のもとに身を寄せていました。
1457年、アイヌとの戦いがあり、武田信広は和人(日本人のこと)の大将として戦いに参加、アイヌに勝利しました。
その功績が認められ、武田信広は蠣崎季繁の娘と結婚し、婿に入り「蠣崎」姓となりました。
実は武田信広の方も、武田家のどこそこ出身、ということがはっきりした記録が残っていないのです。
ですから、「由緒正しい武田家」というのは、松前を収めるとき、に経歴を盛った可能性があります。
蝦夷地、藩として認められたのはいつ?
だからと言って、すぐに蝦夷地が藩として認められたわけではありませんでした。
蝦夷の蠣崎と秀吉
松前(蠣崎)慶広(まつまえよしひろ)豊臣秀吉や徳川家康たちから、蝦夷地での交易する権利を許されました。
特に豊臣秀吉が天下を取ったときは、さまざまな武将に大名になれるチャンスがある、と期待しました。
松前慶広は、秀吉に挨拶に聚楽第まではるばる訪ねていきます。
秀吉は喜び、この時から蝦夷地を治める大名として認められるようになりました。
豊臣秀吉にしても、自分の領土がより広くなる、ということで、松前慶広と秀吉の利害が一致したのでしょう。
蠣崎から、松前になったのは家康時代!
豊臣の世は終わりをつげ、徳川の世になりました。
蠣崎慶広は、今度は徳川家康にもアプローチをかけます。
蠣崎慶広は家康にも会いに江戸まで行きますが、そのときアイヌの風の衣装を身に付けていきます。
それが蝦夷錦と言われているものですが、蝦夷地で生産されたものではなく、中国(新王朝)からの輸入品で、新王朝の官服です。
家康は、蝦夷錦を気に入った、といったところ、蠣崎慶広はすぐにそれを脱いで、家康に献上しました。
こんな、粋に見える行動は、子孫で「べらぼう」に出てくる、松前道廣に受け継がれているように見えますね。
この時から、「蠣崎」は「松前」の姓を与えられ、蝦夷が「藩」となったのでした。
しかし、広大な蝦夷地こと北海道が、こんな南の一部にしかいない、日本人たちだけで支配する困難さを、幕府もいたそれどころか当の、松前氏も知らなかったに違いありません。
蠣崎は家臣に
松前は、元の姓は 蠣崎でしたが、徳川家康から名前をもらったことで、「松前」となり、元の「蠣崎」姓は家臣の姓となりました。
家臣でも家老クラスなので、藩内での地位は高いものです。
「べらぼう」時代、藩主の 名前は、松前道廣 で、その弟は 松前廣年 です。
弟は やがて 蠣崎家に養子に入り、蠣崎波響という名で、松前藩 家老としての職務を果たします。
それと同時に、絵に興味を持ち、絵師として道も選び、蠣崎波響として有名になったのは絵師としてです。
絵のいくつかは、フランスに渡って、人々の称賛を受けています。
蝦夷地に田沼意次はなぜ目をつけた?
「べらぼう」で見る通り、田沼意次は、蝦夷地に何らかのターゲットを当てていました。
なぜだったのでしょうか?
田沼意次が、何よりも力を入れていたことは幕府の財政立て直しです。
それと同時に、日本の国を守るという目的も建てていました。
それは、工藤平助という仙台の医師が書いた「赤蝦夷風説考」という報告書を、1783年に読んだからです。
「赤蝦夷風説考」には、ロシアの脅威と、蝦夷地に資源がある、とのことが書かれてました。
それを読んだ田沼意次は、外国に危険性の排除と、資源が手に入れられると、まさに一石二鳥と思ったのでしょう。
田沼意次は、蝦夷地の調査をさせた結果、蝦夷地の開拓は脈があると感じ、開発計画にとりかからろとしたのですが、その前に田沼意次は失脚となり、罷免となり計画は、実行されませんでした。
しかし、蝦夷地への、幕府の関心は続いた、ということは田沼意次の目の付け所は確かだった、と言えましょう。
蝦夷地、「べらぼう」時代は?
では、「べらぼう」時代の蝦夷地はどのような状況だったのでしょうか?
蝦夷地、「べらぼう」時代には人気?
「べらぼう」の時代背景で、蝦夷地は注目を引く土地になっていました。
それは田沼意次が、調査を命じたからでした。
上記にもあるように、江戸幕府の新しい財源をさがす、ということでした。
「べらぼう」では松前藩の抜け荷(密貿易)がある、と言われていましたが、江戸時代に実際、抜けには行われていました。
幕府の目的としては、抜け荷を取り締まって、その貿易の権利を幕府が得て、その関税をとる。
当たらな資源開発があるか?
資源については、過去に出たと言われる、金山も視野に入れていました。
蝦夷地で、抜け荷が行われている?
「べらぼう」で、(6月〜7月放映)で、田沼意次たちが、疑っているのは松前藩の抜け荷です。
日本は江戸時代鎖国をして、輸入品とそれを入れる港が限られていました。
密貿易は、公の機関を通さないので、関税がかからず、商人やそれに関わる人はボロ儲けできるから、どこでも起こり得る犯罪です。
特に貧しい藩にとっては、重要な財源となります。
松前藩も例外ではありません。
蝦夷地にある松前藩の石高は?
松前藩は北海道の最南端にありますが、最南端とはいえ、そこはやはり北海道。
気温が低く、米や農産物の収穫が望めません。
江戸時代は、各藩の米の収穫量、班の規模、経済力が決まります。
蝦夷地は今でこそ品種改良が進み、米や作物が豊富にできる土地ですが、江戸時代・べらぼう時代は米の収穫、それに変わる作物も全然ありませんでした。
ということは、藩の格付けにあたる、「石高」という計算ができないことになります。
松前藩は、「無高」の藩ということになるのですが、藩の格付けを見ると、一応 10,000石、となっています。
米はできませんが、その代わり、交易(つまり貿易)で得た利益が、石高とされました。
どことの交易かというと、それがアイヌとの交易です。
では、松前藩の人たちはどうやって食糧を得ていたかというと、津軽海峡を隔てた津軽藩から船で輸送してもらっていました。
松前藩は、それ以外にも、参勤交代で優遇されていました。
なにしろ、船に乗っての長期間にわたる旅。現代と違って、天候などに左右される非常に危険な旅でもありました。
蝦夷地ゆえの松前藩、参勤交代は3年毎?
ですから、ほとんどの藩は、一年毎の参勤交代だったのですが、松前藩だけは3年に一度で良い、というものでした。
3年、という期間は長いもので、松前にいれば、江戸でのこと、政治・ニュース新しい文化のことなどには疎くなるでしょうね。
幕末には、この情報の遅さが、松前藩を悩ませました。幕府・朝廷どちらにつくかの判断をする材料が集められなかったからです。
蝦夷地にアイヌとの関係は?
蝦夷地、と言えば、真っ先にアイヌが思い浮かびます。
確かに、蝦夷地つまり北海道は、アイヌが主に住む土地でした。
それが、武家の時代になり、和人と呼ばれる本州の日本人が移り住んでくるようになりました。
和人の居住地区は北海道南部で、そのため、南部の地名は、アイヌ語を漢字に当てはめたものと、見るからに日本語とわかるものが混在しているのです。
例えば、上ノ国、松前は日本語ですが、知内(しりうち)、長万部(おしゃまんべ)などはあんまり日本語には馴染みがなさそうな読み方です。
しかし、和人とアイヌとの間は、いつも円満だったというわけではありません。
和人とアイヌ人で生活習慣がかなり違い、言語すらきちんと通じていたかもわからないのです。
そのため、トラブルも起こるのです。
シャクシャインの乱、コマシャインの乱など、おきますが、日本人に平定されてしまいます。
蝦夷地に金山があった!
蝦夷地には金山がありました。
いくつか金山はありますが、北海道南部に限って見てみましょう。
松前藩がある道南(北海道南部)は、1600年代後半頃まで、砂金ほりがブームになっていました。
ちょうど、徳川時代の初め頃からです。
特にその頃有名だった場所は、松前に近い、千軒岳(せんげんだけ)とその周辺の川でした。
日本全国から、一攫千金を狙って、日本全国から砂金ほりにやってきました。
実際、1ヶ月で、100g、200gの砂金を掘り当てた人もいました。
砂金ほりの中には、キリスト教の信者、キリシタンもやってきていました。中には、島原の乱から逃れてきたキリシタンもいました。
松前藩は、最初は特にキリシタンであることにこだわりはなかったのですが、のちには、幕府からの言いつけがあったのでしょうか、1639年には100名ほどのキリシタンを処刑しました。
キリシタンが金を掘り当てていて、処刑される前に金を隠して処刑場に赴いた、という言い伝えがあり、その伝説に惹かれて、埋蔵金探しをする人が、後世現れています。
しかし、実際に埋蔵金を掘り当てた人はいません。
キリシタン処刑以降は、道南では実際に金が出た、という事実は聞かれませんが、金が獲れた、という話だけが伝わって、「べらぼう」時代でも多くの人の興味を引きました。
金が見つかれば、幕府にとって、良い財源になる、と考えられていたのでしょう。
北海道の黄金伝説が、江戸末期そして明治時代を舞台にした物語「コールデンカムイ」に繋がっていったのです。
まとめ
現代のように飛行機で一っ飛び、なんてことが不可能が江戸時代。
江戸から蝦夷地の様子を知るのは非常に難しいですが、その反面、幕府からの干渉は少なかったはずです。
蝦夷地、つまり北海道ですが、資源は今でこそ豊富、と言えますが、江戸時代ではあまり多いとは言えませんでした。
ですが、開拓を考えていた田沼意次は、時代を超えた視点が鋭い人物だった、それを感じさせた、「べらぼう」の蝦夷地エピソードと思いました。
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