2025年NHK大河ドラマ「べらぼう」で、は徳川幕府の政権交代が行われます。
それにつれて、大奥も新しい人物 新将軍の乳母 大崎が入ります。
この時すでに大奥にいた大物は 高岳 でしたが、高岳と大崎の間に対立は起こるでしょうか?
大奥の女性として、大崎も大きな権力を握ることとなります。
さて大崎は、一体どんな活躍をするか、その生涯を調べてみました。
「べらぼう」大崎、乳母だった?
2025年NHK大河ドラマ「べらぼう」に登場する、「大崎」(おおさき)という女性は、徳川家治(とくがわいえはる)亡き後、将軍になった、家斉(いえなり)の乳母です。
大崎は助産師?
大崎は、将軍 徳川家斉の乳母、として知られていますが、最初は乳母ではなかったのです。
「徳川諸系譜」という江戸幕府が、徳川家の(将軍家、御三家など)それぞれの家の系譜を記した書物の中には、大崎は一橋家の奥に使える侍女だった、とあります。
そして特に、徳川家斉(豊千代)が生まれるときの御誕生御用掛、をしていた、とあります。
御誕生御用掛とは助産師のことです。
ですが、後には乳母、として、大崎は知られるようになったのです。
大崎は、実は養育係?
では、なぜかというと、この乳母は、赤子に乳をあげる乳母ではなく、養育係としての「乳母」だったのではないでしょうか?
「乳母」というからには、実際に乳が出なければなりません。つまり若君と同じくらいの年の子供の母親でなければ乳は出ません。
大崎には、自分の子供がいたという話はどこにも書かれていません。
「大崎」やその他、乳母と呼ばれた人たちの中には、乳をあげるのではなく、雇った数人の乳母たち(実際に乳をあげる人)の管理の仕事をしていました。
そしてその役割が、若君の養育係へとスライドしていきました。
そうなると、子供に乳を実際に与えた乳母よりも、養育係のほうが、位が上になります。
大崎に子供の記録がないことから、大崎も若君お養育係になった、ことが推測されます。
大崎が大奥で、高い地位につくことができた、ということは、養育係だった、という証拠ではないでしょうか。
「べらぼう」大崎、大奥での活躍ぶりは?
大奥ではやはり、将軍 徳川家斉の権威を上げることに努めました。
特に家斉が将軍になってからは、政治にも意見が出せるような立場を保てるようにしていました。
まだ幼い9歳の徳川家斉に付き添って、江戸城の西の丸 大奥に上がります。
江戸城西の丸は、次期将軍の住居です、大崎は一橋家にいた時と同じように、若君のお世話に当たっていたのです。
家斉が15歳で将軍になると、江戸城本丸の大奥で、将軍付きの「お年寄り」という地位につきます。
「お年寄り」になって、すぐの働きは、田沼意次(たぬまおきつぐ)を失脚させて、松平定信(まつだいらさだのぶ)を老中にすることでした。
これは、大崎が、家斉の生家 一橋家からの指示だった、と言われています。
大奥での権力者は、一番エライのは、将軍の妻、御台所(みだいどころ)なのですが、御台所は形式的なもので、実質の支配者(?)は上級侍女で、「お年寄り」と呼ばれる役職です。
というと、大奥ナンバーワンのようなイメージですが、実はそうでなかったことが、「分限帳」によると、序列は七位のお年寄りで筆頭にはなっていなかった、と書かれています。
それなら、高岳には地位の上では負けていますね。
有名な割には、地位が高くなかった女性でしたね。
分限帳とは、江戸時代の大名から家臣までの名前や地位をかいた、名簿のような記録書です。
大奥の「お年寄り」とや別に、年取った女性のことを指すのではなく、上級の侍女のことをさします。侍女たちを取りまとめることが仕事でした。
お年寄りでも、「将軍様」付きと「御台所付き」とありました。 大崎は、将軍様付きです。 |
「べらぼう」大崎は高岳と対立する?
高岳(たかおか)も、大崎もどちらも大奥のお年寄り。
「べらぼう」に出演中の役者さんを見ても、高岳 役 冨永愛、大崎 役 映美くらら で丁々発止の対立を期待したいのですが。
確かに、大崎の方が大奥の新参者ですが、大奥で一緒にいた時期というのは、約1年ほどだったので、そんなに争っている暇はなかったと思います。。
地位も同じようなところにいながらも、高岳は家治、大崎は家斉、と仕えた将軍様が違うので、そういう意味で意見の相違は当然あったことでしょう。
大崎は大奥ナンバーワンのようなイメージですが、実はそうでなかったことが、「分限帳」によると、序列は七位のお年寄りで筆頭にはなっていなかった、と書かれています。
それなら、高岳には地位の上では負けていますね。
有名な割には、地位が高くなかった女性でしたね。
それでも、、大崎は、その当時の現役の将軍 家斉 についていましたし、高岳の方は、その前の将軍 家治の時代のお年寄りでしたから、現役付きの大崎の方が立場は強いです。
幕府で、討論が重ねられていたのは、田沼意次(たぬまおきつぐ)失脚のあとの老中をどうするか?
大奥のお年寄りは、かなり強い権力を持っており、政治に口を出すことも可能でした。
田沼意次の後は、松平定信が老中候補に上がり、大崎は、松平の登用に賛成し、高岳は反対でした。
結局、松平定信に決まったのですが。
高岳と、大崎が両立したのh一年ほど、ではありますが、高岳が大奥を去った年がについてはいくつか説があるので、大崎と高岳が、争いあった、ということは少なかったのではないかと思います。
「べらぼう」大崎、幕府にどんな影響力を?
「べらぼう」に登場する大崎は1786年に、徳川家斉が将軍になると同時に、もう幕府に影響を与えるようになってきます。
将軍 家斉(幼少名 は豊千代です)に忠実につかえ、将軍の権威を徹底的に守るためにはなんでもする、という心意気で大奥に入ってきました。
そのためには、将軍の父の一橋治済(ひとつばしはるさだ)と、本家・分家を含めた徳川一族との連携をとり将軍の権威の安定に務めました。
将軍の乳母である、ということで、将軍 家斉も大崎のことを実母と同様に大切にし、信頼を寄せていました。
ですから、大崎の言葉をほとんどそのまま、信じていたのではないでしょうか?
大奥の、「お年寄り」が政治的に力を持つ、というのは、大奥ができてから、大奥のお約束ごと、と言ってもいいようなことでした。
「べらぼう」大崎は、なぜ失脚?
大崎の「老中と自分(大奥お年寄り、つまり大崎のこと)は同等…」という発言。で松平定信を怒らせたことが失脚の原因の一つとなり増田。
一方の、松平定信は、大奥を経費削減のために改革を狙っていました。
大奥の女性たちにかかる費用を費用を減らすことが目的。その政策には人員整理も含まれます。
大崎の「同等」発言から、大崎と松平定信は対立することになり、大崎のクビにつながったのです。
大崎さん、ちょっと調子に乗り過ぎたのかもしれませんね。
一方の、松平定信もちょっと大人気ない?と思うのですが。
大崎は、こうして大奥から去り、一緒に大崎のもとで働いていた侍女たち(大崎派?)も一緒に大奥を辞職しました。
ということは大崎のせいで、侍女たちは勤め口を失った?
口は災いの元!
「べらぼう」大崎と一橋家のつながりは?
大崎が大奥に入ったのは、徳川家斉の実の父 一橋治済の指示だから、という説が一番有力です。
大崎は元から、一橋家で働いていたのだから、当然でしょう。
しかも、大崎は家斉が生まれる時からそばにいる侍女、ということで、一橋家の方で家斉付きにするにはうってつけ、と思っていたのだと思いもあす。
一橋家では、幕府の中で、息子が将軍としての地位を揺るぎないものにする。
一橋治済自身も政治に大いに意見を言いたい、と思っていたので、大崎には大奥の中で力を持ってもらいたかったのです。
家斉は15歳で将軍職についたのですから、確かに 一橋治済は心配に思っていたのでしょう。
田沼意次の失脚のために裏で働いた、という言い伝えはありますが、では具体的に何をしたのか?となると話が全く伝わってきていないのです。
田沼の失脚と松平定信の老中就任が、一橋治済の狙いでした。
田沼意次の失脚、そして松平定信を老中に推したというのですが、「推した」のではなく、
いきなり話しかけた言葉が、「老中と年寄りは同じ」という発言をしたばかりに、大崎は松平定信に嫌われれしまった、が事実ですので、大崎が力を貸したのとは、ちょっと違います。
しかし、松平定信は、大崎のこの言葉を聞いて、怒ったことがきっかけで、発奮して老中の役についた、のですから、ある意味、大崎の言葉が、役に立った、ということも言えます。
「べらぼう」大崎、松平定信と対立?
「べらぼう」の大奥 お年寄り 大崎は松平定信と親しかった、のです。
田沼意次が老中を辞めた後、松平定信を新しい老中にと積極的に推していました。
しかし、のちに、2人は対立することになります。
というのも、高崎は自分の役目のことを「表ごとは(表向きの政治のこと)は、松平・奥向きは 大崎」と自分たちを勝手に位置付けていました。
そして、初対面の松平定信に「老中と年寄りは、ご同役であるから、奥向きについてはわたくしにご相談ください」と言ったのです。
松平定信は、「同じ位置に置くな!大奥に老中などないだろ!」と怒った、という話が、大奥の女性の生活を調べ、まとめた 由良弥生の「大奥よろず草紙」に書かれています。
また、大崎は、松平定信に「こんなに大きくなられて」とか「赤子の頃の定信様を、あやしたことがある」などと、子供扱いするようなことを言ったのも、相手を怒らせた一因とまで言われています。
「べらぼう」大崎と、春日局 の違いは?
将軍の乳母になって、その後大きな権力を持った女性というとまず、徳川家光の乳母 春日局を思い出させますが、
「大崎」と「春日局」どこが違うでしょう?
一言で言うと、春日局の方が大物でした。
春日局の時代に、大奥というものが出来上がり、春日局本人で地位を築き上げ、大奥の中でも、幕府の政治向けにも口を出せた人物でした。
大崎もまた、大奥のお年寄りとして、幕府にも影響力を持てる人物でした。
田沼意次を失脚に追い込む、などの暗躍が言われていますが、本当にそうであったか、の確証が取れて意味あせん。
家斉の時代、乳母はあんまり重要に思われていませんでした。このポイントが、大崎のハンデです。
春日局が、権力を持ち過ぎてしまったので、その後、乳母が権力を持つのが敬遠されるようになっていました。
春日局時代に大奥ができ、大奥創設の立役者のような役割をしたのが、春日局だったので、ある程度は仕方ありません。
しかし、老中たちが、大奥から政治のことに口を出されるのが、何より嫌だったから、ということでした。
乳母が力を持ち過ぎないように、老中たちは警戒していたのだと思います。
「べらぼう」大崎、出身どこ?
大崎の生まれは実は知られていないのです。
「大崎」という名前は、大奥に入ってから呼ばれるようになった名称であって、名前ではありません。
大崎は1778年で、その頃の「分限帳」では、江戸城西の丸 勤務になります。
西の丸では、御客会釈(おきゃくあしらい)、という役職ですが、これは読む通り、お客様が来た時の接待役、です。
1781年に、一橋家の豊千代(のちの家斉)が、徳川家治の養子になったので、それより前に、大崎は江戸城に入ったということです。
将軍の後継ぎとな豊千代が、江戸城に入るための準備として、先に江戸城での勤めを、一橋家から言いつけられたのかな?と思いますが。
大崎が乳母だった、として伝えられているのは、豊千代の出産の助産婦を務め、その後も、豊千代のために働いていたので、いつの間にか、乳母のような役割にみられていたのでしょう。
「べらぼう」大崎の最後は?
日本では、江戸時代、いやもっと昔(平安時代頃から)第2次世界大戦終了まで、女性の地位は低くみられていたため、歴史上重要な人でも、記録は残されないのが普通でした。
大崎も、大奥を去ったのがいつなのか、そして、いつどのように死んだのかも、全く記録に残されていません。
松平定信の改革で、大奥の経費削減により、大奥を去るようになったことだけは事実なのですが、その年については記述がありません。
まとめ
大崎は、徳川家斉の乳母だったこともあり、3代将軍 家光(いえみつ)の乳母、春日局と比較されます。
大奥のお年寄りとして、大奥だけでなく、政治向にも口を出せる立場にあった人なのですが、松平定信と対立することになり、失脚することとなります。
それも、些細なことで…
ここから考えるとちょっと軽薄な人だったのかもしれない、と思われる人物です。
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