佐野政言は、田沼意知を暗殺した、として知られています。
田沼家かつて、三家より身分が下でしたが、それが暗殺にどうつながっていくのでしょう?
下と思っていた相手が、位が上にいってしまった、ということは恨みの対象になるのでしょうか?
ここでは佐野政言の、心のうごき、を見つめながら、殺害に至った理由、経過を調べてみました。
佐野政言の死因は?
佐野政言(さのまさこと)の死因は、切腹でした。28歳でした。
田沼意知(たぬまおきとも)を襲った、佐野政言は、抑えられその場で逮捕されました。
逃げはしませんでした。
目付(めつけ)に、武器(脇差)を取り上げられ伝馬町の揚げ屋敷(上級の武士が入る牢屋)に預けられ、取り調べが行われました。
そこでは、佐野政言は、自分の単独犯、と言っています。
その後、4月3日(田沼意知 死亡の翌日)、佐野政言は切腹を命じられました。
なにしろ、江戸城内で刃傷事件を起こした挙句、相手を殺してしまったのだから、殺人罪で、死罪となります。
佐野政言が暗殺への道は?
それは、田沼意知に対する、恨みがいくつも重なったということです。
- 佐野家の系図を奪ったこと。系図と一緒に、家紋の入った旗まで取られてしまった。
- 田沼家に献金をかなりしたのにも関わらず(賄賂を送った?)役職に就けなかった。
- 将軍の狩にお供をし、自分が獲物を撃ち止めたにも関わらず、一緒にいた、田沼意知に獲物を隠されてしまったこと。
3つ目の、狩の獲物については、「べらぼう」で見るように陰謀であったかもしれません。
これらは、「七ヶ条の口上」として、下記に紹介しました。
しかし、これらは個人的な恨みに過ぎません。
正当な、幕府にとって不利益な人間を断罪した、という理由にはなりません。
これだけだと、自分の恨みを晴らした、バカ者、という印象が残るだけです。
佐野政言の家の紋は、丸に剣木瓜(けんもっこう)の紋様でしたが、「べらぼう」では「揚羽蝶」(あげはちょう)になっていました。ここのあたりが、わからない点です。意味があるかも? |
佐野政言の個人的恨みを、誰かに利用された?という説もありますが、決定的な資料は見つかっていません。
どうも、裏に一橋治済(ひとつばしはるさだ)の影を感じますが、証拠が何もありません。
一橋治済が、田沼意次を、政治の世界から追い落としたい、と思っていたから、というのが原因ではあるのですが。
佐野(善左衛門)政言と田沼意知はどんな関係?
佐野善左衛門政言(さのぜんえもんまさこと)は田沼意知に切り付けた、ということは殺意がってのことですが、ではなぜ?
佐野家の方が、田沼より格上?
佐野政言と田沼家は、かつては主人と家臣の関係だったということです。
それも佐野家のようが、身分が高く、田沼家の方が家臣だった。
1780年代の田沼意次・意知親子の権勢が、佐野家にとっては、受け入れられない、そんなはずはない、という気持ちなのです。
ところが実際はどうだったか、というと?
佐野政言とその父の家系は、確かに、「寛政重修諸家譜」には、平将門を討った藤原秀郷(ふじわらひでさと、または俵藤太)を先祖に持つのですが、直系ではありませんでした。
さらに、田沼家が、佐野家の家臣だった、という説を裏付ける史料も残っていないのです。
田沼意次が、系図に全く興味を示さず、池に投げ捨ててしまった、という「べらぼう」での話があるように、この系図は残っていないので、どのように描かれていたのか、わからないところです。
なお、平将門と藤原秀郷(俵藤太)の、話については、鬼舞辻無惨の記事で少し触れていますので、併せてお読みください。
佐野家の家系図、田沼が盗った?
佐野政言の田沼意知襲撃に結びついた第一の理由が、家系図問題です。
佐野政言が、田沼意知に貸した家系図が戻ってこなかったからです。
佐野家は、代々将軍家を守ために作られた職務につくという、格式ある家系です。
田沼家は、佐野家の家来の家系だったと 佐野の家系図にあります。
元々田沼家の主筋にあたる佐野にとっては、田沼家は佐野家に礼を尽くすべき、と考えていたのでしょうね。
これは、佐野善左衛門政言が、書いたとされる「七ヶ条の口上書」にあります。
それによると、佐野善左衛門は、田沼意知に佐野家の家系図をみたいから貸してくれ、という要請があって貸し出しました。
ところが、どんなに頼んでも家系図は、佐野善右衛門政言の元に返却されませんでした。
佐野政言が書いた「七ヶ条の口上書き」は田沼家への恨み言?
「7ヶ条の口上書き」にどのようなことが書かれていたかというとを、いくつか紹介しますと、
- 田沼意知が佐野家の家系図を借りたまま返さない。
- 天明3年(1783年)冬、将軍 徳川家治の鷹狩りのともとして、田沼意知と一緒に参加した時、政言の矢が鷹を射止めたにもかからわず、田沼意知が将軍にそのことを伝えず、褒美を頂けなかった。
- 佐野家の領地 下野国(しもつけのくに)甘楽郡西岡村と高井村にある 「佐野大明神」を田沼意知の家来が「田沼大明神」に変えた。
- 佐野家の七曜の旗を、田沼意知が借りて、それが田沼家の紋と同じ、と言って、佐野家に返却しなかった。
- 田沼家はかつて、佐野家の家臣の家柄であったのに、今では田沼家が偉くなり、それを頼んで、佐野家の者が役職につくために、田沼家に頼んだが、何もしてくれなかったばかりか、620両取られた。
と言うことが書かれていた、と言うのです。
その中から、「佐野大明神」が「田沼大明神」に書き換えられた話は、佐野家の土地は、下野国都賀郡村(つがごおりむら)にあったことが、「寛政重修諸家譜」で明らかです。
ですから、佐野政言自身も間違えていたのか?それとも間違って伝わっていたかです。
口上書きの存在そのものが怪しいですね。
でも肝心の口上記は、破り捨てられたとも、破り捨てられたと見せかけて持っている人がいた、とか、言われていますが、その現物は残っていません。
佐野政言は、なぜ家系図を田沼意知に貸した?
家系図を書き換えるために、田沼意知は、佐野政言から借りて返してくれなかった、と言うのが佐野政言の言い分です。
佐野政言の家系図
しかし、そんな大切なものをなぜ、佐野政言は貸したのか?ということが疑問です。
「べらぼう」の中では、佐野政言が、家系図の田沼家が、佐野家の家臣だった箇所を書き直してもらいたい、と自ら持ってきています。
それは、明らかに言ってはいませんが、家系図の書き換えを咎めないから、代わりに役職が欲しい、ということを意味していました。
さらに「べらぼう」では、怒った田沼意次(たぬまおきつぐ)は家系図を池に放り投げてしまいます。
「七ヶ条の口上書」と佐野政言は書いた、と言ったのですが、その話は江戸時代後期に書かれた、「営中刃傷記」(えいちゅうにんじょうき)に描かれていることです。
「営中刃傷記」とは、
江戸幕府ない、江戸城で起こった、刃傷事件を記録した書物です。 その中にはもちろん、「忠臣蔵」で有名になった、松の廊下事件も描かれています。 |
佐野政言はなぜ家系図にこだわったのか?
家系図は、佐野家にとって、心の拠り所なのだと思います。
これを見れば、今をときめく田沼より、実は上だった、と話すことができるのです。
自分より身分が下だった人が、いつの間にか、自分の上になってたら確かに面白くありません。
だからこそ家系図にこだわり、「本当はうちの方が格上だ!」と田沼意次・意知親子に主張しました。
それでも、田沼意次は全く動じなかったのです。「それがどうした?」と言わんばかりに。
佐野家の方としては、家系図のこと、格下のこと、黙っているからそれなりの地位を、要求するつもりだったのが、全くアテが外れた、というわけです。
この時の、佐野政言は、プライドがズタズタにされたような気分だったと思います。
佐野政言は世直し大明神に!
田沼意知 を暗殺したことで、田沼意次を失脚に追い込んだことで、佐野政言は「世直し大明神」とまで言われるようになりました。
当時、田沼意次は庶民から嫌われていたので、田沼意次の失脚につながる、田沼意知 殺害を起こしたことで、庶民から拍手喝采で喜ばれました。
そして、大明神に持ち上げてしまったのですね。
佐野政言の、田沼意知 襲撃の理由が私ごとの恨みだったとしても、庶民から見ると、大きな不正勢力に立ち向かった英雄に見えたのです。
かつて、佐野家の領地だったところにあったとされる、「佐野大明神」が「田沼大明神」に置き換わってしまっていたことへの、皮肉でもあるのではないでしょうか。
田沼意次については、こちらの記事をお読みください。
佐野政言の桜はどうなった?
佐野政言と田沼意知の事件、「べらぼう」では桜がいい仕事をしていましたね。
なお、この桜の木は、本当に佐野家の庭にありました。
場所は千代田区三番町。現在は大妻女子大学の門があります。
この桜は、本当は枝垂れ桜だった、ということでした。
関東大震災の時に、佐野政言の時代からの桜は焼け、次に大妻女子大でもまた植えたのですが、こちらは、第二次世界大戦の東京大空襲で焼けてしまいました。
「佐野家の桜は枯れ、田沼家の桜は咲く」と嘆いていたのは、佐野政言の父。
そして、田沼意知に身請けをされることを楽しみにする、吉原の花魁 誰袖(たがそで)。
誰袖の束の間の期待が、そしてそれがやがて散るところが、桜の花の散華を思わせて、もののあはれ、が表現されていて、まさに日本人、という感傷におそわれます。
まとめ
佐野政言は、平凡に生きようと思ったら、穏やかな生涯を送れたはずだったのです。
下手に家柄なんかにこだわってしまったために、田沼を恨むようになってしまったのです。
恨みを他人に嗅ぎつけられたら、悪用されるかもしれません。
そのような人間の負の感情を、上手に使った話でした。
いまだに真相はわかっていません。
それにしても、感情に翻弄されてしまった人生が、ここにある、という悲しい話でした。
コメント