喜多川歌麿、蔦重との関係?死因は失意から?性格は?鳥山石燕から妖怪がの影響は?美人画を描く理由。幼少期は?妻の存在

喜多川歌麿が、2025年大河ドラマ「べらぼう」にさっそうと現れました。

蔦重に出会い、喜多川歌麿の美人画は一躍有名になりましたが、時代の改革の波に飲まれ、処罰されるという災難に遭い、そのまま不幸な環境が死因に繋がっていきます。

ここでは喜多川歌麿の少年時代は、のちに歌麿の人生にどんな影響を与えるのか?師 石山石燕からどんなことを習ったか?

これらを中心に、喜多川歌麿の美人画の秘密を探ってみました。

新たに作り出した喜多川歌麿の手法「大首絵」を描くきっかけもここで知ることができます。

どうぞ、最後までご覧ください。

喜多川歌麿と蔦重の関係は?

喜多川歌麿と蔦屋重三郎は、一緒にコラボして、新しい本の世界を作り上げる関係です。

蔦重こと、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、商売として最初は本を専門に扱っていたのですが、浮世絵にも興味を持ち始めました。

そこで、喜多川歌麿を知っている人から、紹介をしてもらった、というのが史実で伝えられていたことです。

喜多川歌麿が蔦重にであり、成功した、と同時に、蔦重の方も喜多川歌麿を自分の版元に取り込めたおかげで、蔦重も人気版元になれた、という関係ができました。

喜多川歌麿、蔦重との出会いと、コラボ時代

しかし「べらぼう」の中では、子供の頃の喜多川歌麿は、からまる と呼ばれ、蔦重とつながりがあった、という設定を作っています。

蔦重が、1781年、黄表紙本「身貌大通神略縁起」(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)を制作した時、その挿絵を喜多川歌麿に書かれたところが、二人のコラボの始まりでした。

その時から、蔦重は喜多川歌麿を、ずっと自分のところで扱う本の挿絵を描かせるために雇い入れ、自分の家に居候させてた、という記録があります。

「べらぼう」の中では、蔦重が歌麿のことを、昔の「からまる」として可愛がっていたから、コラボした、という設定に繋げています。

しかし、この設定は、「べらぼう」ならではの創作なので、実際には、蔦重が喜多川歌麿の才能に、閃気を感じた、ということなのだと思います。

それにしても、審美眼の鋭かった、蔦重の目を引く喜多川歌麿、という人物は並外れた実力の持ち主、だったのでしょう。

喜多川歌麿と蔦重のコラボ解消?

喜多川歌麿と蔦重の仲の良さは、いつまでも続くものではありませんでした。

1793年ごろから、喜多川歌麿の浮世絵は、蔦重ではない版元(江戸時代は、浮世絵を刷るだけではなく、本の制作出版を手掛けていた)から出されることが多くなりました。

一緒に仕事をするようになってから、12年目のことです。

どんな理由があったのでしょうか?

これについても、はっきりとした理由がわかっていません。

もし、理由を挙げるとすれば、東洲斎写楽が登場してきた事が理由の一つと見られています。

写楽の絵を見て、またまたインスピレーションがかき立てられた蔦重は、今度は写楽を売り出しにかかります。

そこで以下のような理由が考えられます。

  • 蔦重は喜多川歌麿と疎遠になってきたから、代わりの絵師として写楽を採用したか?
  • 蔦重が、喜多川歌麿とともに立てようとして、写楽を売り込みにかかったところ、見捨てられたと思った歌麿が嫉妬し、蔦重の元から離れた?

ここで、喜多川歌麿は自立できるようなってきたことも一因です。

案外、蔦重は、新しい絵師を育てることで、喜多川歌麿のより一層の成長を考えていたのでしょうか。

歌麿は、いろいろな版元から絵を出すことになります。

もちろん蔦重の版元からも歌麿の絵を出版し続けていましたから、仲違いしていた、というわけではありません。

それでも、歌麿と蔦重の関係は、完全に元のように戻らず、 1797年に蔦重は死去しました。

喜多川歌麿の死因

喜多川歌麿のような、スケールの大きい、絵師は、その死もドラマチックであってほしい、と思うのですが…

想像のようにはいかず、かなりかわいそうな死を遂げます。

喜多川歌麿の最期

喜多川歌麿は、1806年に亡くなります。53〜54歳でした。

一応、江戸時代の平均寿命を超えていますが、それにしても、早死にですね。

死にいたる病気などは伝わってなく、ただ失意のうちに亡くなったと、あるのみです。

つまり大往生ではなかった、ということです。

それは処罰されたことが原因です。

死の2年ほど前から、喜多川歌麿は絵を全く描いていませんでした。

いえ、描くことができなくなっていました。

それは病気というより失意のあまり描けない、ということでした。

手鎖の刑が非常に屈辱的に思え、絵を描く意思、どころか生きている意味すら見失ってしまった結果なのだと思います。

喜多川歌麿、なぜ処罰されたか?

寛政の改革が始まって、派手さや風紀を見出すと見られた芸術は御法度になっていました。

それは、本や絵、など大衆娯楽に関すること全てが、幕府から認められなくなってしまいました。

蔦重や、山東京伝が処罰されるところを見た喜多川歌麿は、注意して、作品に工夫をして、幕府からの目を、なんとかやり過ごしていました。

しかし、その苦労も水の泡。ついに、喜多川歌麿も幕府からの目に止まってしまいます。

幕府の方も、喜多川歌麿を警戒していたようで、喜多川歌麿の作品が出版されると同時に、新たに法整備するなんて、えげつないことをしました。

喜多川歌麿はその時、豊臣秀吉の作品など書いていたのですが、これが法に触れる、とされてしまったのです。

その作品は「絵本太閤記」(えほんたいこうき)と言ったのですが、この内容に幕府は、歌麿時代の将軍をからかっている、と見たのです。

喜多川歌麿が受けた処罰は、50日間の手鎖。これは50日もの間、手錠のような鎖を両手にはめられたままで過ごさなければならないという刑です。

同じ罰は、山東京伝が受けていました。

山東京伝も、手鎖の刑で相当、精神がすり減らされ、その後の創作活動に影響が出ました。

山東京伝は非常な屈辱を覚えた、と言っていました。

喜多川歌麿もそうです。

喜多川歌麿は50日で、釈放はされましたが、やはり精神がすり減り、ショックで2年間、絵筆を握れない日々が続いたのです。

気力を失ってしまった時が、喜多川歌麿の最後となってしまったということは、喜多川歌麿は自分お作品作りに、命をかけていた、と言えるのではないでしょうか。

喜多川歌麿はどんな性格?

天才と言われた、喜多川歌麿ですが、その性格としてあげられるのが、プライドが非常に高いことでした。

喜多川歌麿、プライドが高い?

それは美人画を描いたときに現れています。

書かれた美人モデルの口から、「これが本当の美人画です。だって描いているのは歌麿ですから」と言わせています。

このセリフは、喜多川歌麿の自己主張であり、他の絵師たちへの挑戦でもありました。

かなりの自信家ですね。

喜多川歌麿は、自分かいた絵の中に、自画自賛ではないか、と思われるメッセージを入れています。

それは絵の中で、遊女が手紙を読んでいるシーンを描いているところにあります。

その手紙には「私の真似をして飯を食っている者がいるけれど、恥ずかしくないのですか?」と。

これは、当時、歌麿の真似をして似たような構図で描いていた人たちへの皮肉です。

私たち凡人から見ると、喜多川歌麿はイヤミな人物に見えます。

喜多川歌麿、反骨心にあふれた絵師

寛政の改革が始まると、絵や文学に対する規制が厳しくなりました、

しかし喜多川歌麿は負けてはいません。

自分の作品に、工夫を仕掛けることをしました。

お祝い事に使われる「金太郎」の図柄に、エロティックに見える部分を書き加えて、規制に堂々と対抗しました。

こうなるとこれは権力への反抗ですね。

しかし、これは危ない綱渡りみたいな作戦です。

幕府に対する反抗と見られ、捕まってしまうおそれがありますから。

ここから見えることは、喜多川歌麿はちょっとしたことも恐れない大胆な絵描き、ということができます。

そんな精神が、今でも喜多川歌麿が世界中に人気のある秘訣なのだ、と思いました。

喜多川歌麿は「大首絵」にも秘密が?

喜多川歌麿の反抗心の現れの一つが、「大首絵」だったのです。

例え遊女の絵を描いたとしても、モデルの顔部分が大きいと、見る人には顔惹きつけられた、遊女であるとは気づきにくい、という理由でした。

何んしろ、寛政の改革時代、遊女絵を描くことが禁じれていたので、パッと見て遊女と分かってはまずいのです。

また、喜多川歌麿が遊女の美人画を描く時、その遊女の名前を入れていたのですが、そこは遊女の名前とはわからないように、記号のようなものに変えました。

例えば、、似た読みをする感じに置き換えています。

のちには、他の絵師もこんな工夫を用い、それが結果的に浮世そのものの表現方法の新しい手法になっていった、ということです。

確かに、喜多川歌麿は天才ですね。

喜多川歌麿は妖怪画を描かなかった?

喜多川歌麿は鳥山石燕(とりやませきえん)の弟子でした。

それなら、石燕が得意としていた、妖怪がを描いたのでは?と、思うのですが実は描いていません。

では、なんで喜多川歌麿は妖怪画家にならなかったのでしょう?

それは喜多川歌麿を売り出したのは、蔦重だったからです。

蔦重と喜多川歌麿は、歌麿の師匠 鳥山石燕の紹介からなのですが、蔦重のところでは妖怪物の本を扱っていなかったというのが理由です。

蔦重は、まずが当時流行してきていた「狂歌」に花鳥画を載せた「狂歌絵本」を売り出し、その挿絵画家として、喜多川歌麿をデビューさせました。

喜多川歌麿の挿絵をつけた「狂歌絵本」はどんどん売れ、やがて喜多川歌麿は美人画家へと、自分の進路を進めるのでした。

喜多川歌麿はなぜ美人画の大家と言われる?

江戸時代の美人画といえば、喜多川歌麿、と言われるほど、美人画は有名です。

ではなぜ、そんなに美人画を描いたのでしょう?

喜多川歌麿、なぜ美人画を描いた?

喜多川歌麿は1792年あたりから、美人画を手がけるようになりました。

この時代、北尾重政などが描く、美人画が流行しており、喜多川歌麿は美人画の流行に目をつけました。

つまり流行り物に目をつけた、というのが理由ですね。

喜多川歌麿は、これまでの画一的だった画風を脱し、絵の女性たちに生き生きとした表情で描きました。

幼い頃に母親の元にいなかった歌麿の女性への憧れからかと、思っていましたが、そうではなかったのですね。

でも「べらぼう」では、幼いころ、母に顧みられなかった環境、母のヒモ(?)だった男との関係から、絵に夢中になった、いきさつが設定されていました。

確かに苦しい過去は、のちの人生に影響してきますので、製作者側としてはドラマに仕立てるには、過去が必要だったのです。

実際のところが判明していないからこそ、自然に見える創作が必要だったのではないでしょうか。

喜多川歌麿は美人画をどう発展させた?

喜多川歌麿が、美人画描きと言われるようになったのは、蔦重からの起用と、新しいスタイルを生み出したことです。

いきさつは、当時の世相が喜多川歌麿、蔦重の両方にとって新しい試みが成功したところかた、歌麿の新しい美人画スタイルが完成しました。

当時は、寛政の改革が始まり、山東京伝たちの洒落本が、不適切な(不道徳な?)本と見られ、山東京伝たちが処罰されました。

寛政の改革で、浮世絵を挿絵にした出版業会は、大打撃を受けたことになります。

そこで出版会の起死回生をかけて、飛び出してきたのが喜多川歌麿の新しいスタイルでした。

それが、「大首絵」という構図の絵です。

大首絵は、モデルの顔を特に大きく特徴をとらえて表現した絵でした。

もちろんこれまでも大首絵はありましたが、そのモデルは役者でした、しかし、喜多川歌麿は、特に名もない人をモデルにして描いたことが、見る人の興味を引きました。

従来の大首絵とは違い、体のほんの少しの傾き加減を加えることで、モデルの心の動きを表現させる手法が優れていたのです。

ちょっとしたきっかけで、新しい魅力を作り出せる、喜多川歌麿は天才なのだ、と思います。

喜多川歌麿と鳥山石燕

それは喜多川歌麿が鳥山石燕についていた、という記録が残っており、幼い頃から歌麿は絵の勉強をしていたことが思われます。

鳥山石燕は狩野派(かのうは)の絵師で、でしは大勢おり、喜多川歌麿は、石燕の晩年の弟子でした。

「べらぼう」のドラマに出てくる通り、鳥山石燕は、幼い頃の喜多川歌麿にかなり、力を注いで指導したようです。

『喜多川歌麿は、子供の頃は、虫などでよく遊びました。それも子供にありがちですが、虫の命で遊ぶようなことをしていました。

例えば、無理やりトンボを繋いだり、大人から見るとちょっと残酷に見えることですが、それを鳥山石燕は咎め、虫の姿を絵に残すよう導いていきます』

という内容でした。

鳥山石燕とのエピソードは、喜多川歌麿が、からまる として蔦重に出会う前のいきさつとして語られました。

喜多川歌麿の幼少期は?

喜多川歌麿の出生年は1753年あたり、と言われています。

これは確かな記録がないため、死亡の年、その時の年齢から逆算して生まれた年を割り出しました。

生まれた場所も、はっきりしていません。

研究者たちは、作風、歌麿がついた師の影響などをみながら、挙げた候補地が江戸、川越(埼玉県)京都です。

が、一番の有力候補地は江戸です。

出生地が不明だから、喜多川歌麿の幼少期も謎なのです。

しかし、一つ手がかりが出てきました。

それは、浅草専光寺にある過去帳です。過去帳は、亡くなった人の死亡年、などを記録する寺にある記録書と言えるものです。

過去帳によると、1790年、喜多川歌麿が一人の女性の埋葬を頼みにきたのです。

その女性は、利清信女、という人物で、歌麿が自ら頼みに来た人物なので、歌麿に関係があると考えられます。

しかしその女性は、母とも妻とも、どちらかでありそうなのですが、はっきり本人との続柄が描かれていません。

1790年とすると、喜多川歌麿は30歳中〜後半。どちらの可能性もありますね。

喜多川歌麿に妻はいたか?

喜多川歌麿に妻がいたか、これはどちらの説があります。

なんと、妻がいた、という記録、いなかったという記録両方があるのです。

喜多川歌麿の妻の話とは?

妻がいた、という説では、妻の名前は、千代女(ちよじょ)。生年月日はわかっていません。

喜多川千代女が知られているのは、女性浮世絵師である、ということです。

その存在は、1784年ごろに書かれた黄表紙本の挿絵を描いていることで、存在は知られています。

そして、千代女は、喜多川歌麿の弟子の一人でした。

師匠と弟子が、恋仲になりやがて夫婦にという話は、よくあることです。

喜多川歌麿は、審美眼を持っている人ですが、妻を選ぶ時も、その審美眼が働いたのか?

喜多川歌麿は、絵に書いた女性の心の中まで、映し出すことのできる絵師。

その、心の中を現す役割をしたのが、千代女だった、と私は想像しています。

喜多川歌麿の女性関係は?

喜多川歌麿に妻がいたのでは?という話を上記しましたが、歌麿は女性に人気があったのでしょうか?

あれだけ多くの美人画を描いたのだから、歌麿自身女性好きだったのでは、と思われます。

伝えられていることでは、生き生きとした美人画を描く喜多川歌麿の感性は、多くの美女を観察した結果なのでしょう。

そして、喜多川歌麿は自由をとても愛した画家、と言われていますので、数々の女性と恋愛関係を持った、と伝えられています。

喜多川歌麿にとって、恋愛は、作品の肥やしだったのでしょうね。

喜多川歌麿の恋愛体験が、絵のイメージの原点になったのでしょう。

喜多川歌麿が描いた女性は、絵にモデルの名前が書かれたので、一躍有名になりました。

有名になりたいばかりに、喜多川歌麿に近づいた女性もいたかもしれませんよ。

喜多川歌麿の絵で名の売れた女性たち

ここでちょっと、喜多川歌麿の絵で有名になったモデルたちを挙げておきましょう。

  • 浅草橋瑞神門脇にある水茶屋の女性「難波屋おきた」
  • 江戸両国薬研堀(やげんぼり)の煎餅屋の娘「高島おひさ」
  • 吉原玉村屋の芸者 富本豊雛(とみもととよひな)

以上3人が「寛政の三美人」と言われました。

他に、江戸高名美人として、何人かの水茶屋美人として、下記の四美人がいます。

  • ひらの屋おせよ
  • 菊もとお半
  • 吉野おぎん
  • 木挽町新やしき 小伊勢谷おちえ

女性たちも、美人として江戸中に自分の画像が出回るのは気持ち良いものでしょうね。

まとめ

喜多川歌麿は、今世界中で人気を集めている絵師です。

その割には、歌麿の詳細はあまり明らかになっていません。

これは歴史に登場してきた時にはすでに有名人になっていたからで、その時には、過去を知る方法は自分が語るだけしかなかったからです。

喜多川歌麿が、石山石燕という妖怪画の名人のもとで修行をしていながら、なぜ美人画を描くようになったのか、その理由を、ここでは調べてみました。

きっかけはともあれ、美人画の大家とも言われるようになった、喜多川歌麿の筆は人並みはずれています。

絵の隠された秘密など知ると、これからは喜多川歌麿の絵を細かくみていくのが楽しみになりそうです。

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