2025年のNHK大河ドラマは「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺」です。
蔦屋重三郎は、大河ドラマになる、どんなすごい人だったのでしょうか?
歌麿、北斎、写楽といった現代の美術館でお目にかかるような人たちを世に送り出した人なのです。
それなのに、処罰された、とは、やはり風俗的にまずい人だったのでしょうか?
ここでは、蔦屋重三郎の功績、生涯から、江戸時代をどう華やかに生き抜いたか見ていきましょう。
蔦屋重三郎、何がすごい
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は何がすごい、というか、それは自分で商売を始めた、ところにあります。
新たなビジネスモデルを示した、と言うところがすごいのです。
20代で自分で、自分の店を持ち、出版を手掛けました。
遊郭を中心に商売をしていたのですから、店を持つことで、遊郭全体に流通経路を作ることができた、と言うのがその効果です。
そこから、本の流通を遊郭外に広げ、町人以外に武家、歌舞伎役者にまで広げていきました。
やがては狂歌の世界にまで踏み入り、ここでも多くのファンをつかみ、身分を超えた交流関係を作り上げていったのです。
身分が低い人であったにもかかわらず、一大ビジネスを作り上げた町人に、まさに脱帽したくなります。
蔦屋重三郎、歌麿を見い出す
蔦屋重三郎は、自分の書店「耕書堂」(こうしょどう)を持ち、版元として成功しつつあった頃に、まだ、弟子修行中の絵師の歌麿(うたまろ)に出会いました。
蔦屋重三郎は、歌麿の絵に感じるところがあって、歌麿をスカウトしました。
歌麿は、耕書堂に身を寄せ、やがて蔦屋のもとで、専属の絵師として仕事をスタートさせます。
蔦屋重三郎は、人気作家、狂歌作家たちに歌麿を売り込みにかかり、狂歌絵本を出版します。
元々、狂歌絵本が売れてきていたところから、歌麿の絵を多色刷りにした挿絵を入れたことで、そのがちょっと、高級感を増しました。
そうした、絵本は、蔦屋のオリジナル本とちて人気が出て、ファンが増えました。
歌麿の雅号(画家としての名前)が「北川」でありましたが、蔦重の名前(養父の名前)「喜多川」に改め、現代の私たちが知る「喜多川歌麿」(きたがわうたまろ)となりました。
こうした蔦重の功績から、蔦屋重三郎は、後世、江戸文化の芸術プロデューサーと見られているのです。
美人大首絵を、最初に書いたのは、喜多川歌麿です。
そのかげに、蔦屋重三郎からの、アドバイスがあったと、言われています。
人気大爆発となった、喜多川歌麿は、他の版元からも声がかかり、蔦屋重三郎のところを出ることになりました。
つまりフリーの画家になった、というわけです。
それでも、フリーになったのち、良い作品はあまり書けなくなったようです。
蔦屋重三郎と北斎
蔦屋重三郎が行う仕事は、単に本を売ったり、貸本を行っているだけではありません。
版元であることが、蔦屋重三郎の主な仕事であります。
それには小説や浮寄せ版画集の企画を立てる、企画を立てた腕絵、浮世絵師にその構想で版画を作らせ、さらにその版画を商品にするため、彫り師、摺師(すりし)を働かせることが、役割でした。
葛飾北斎(かつしかほくさい)は、蔦屋重三郎の元で働いていた浮世絵師の一人です。
とはいうもの、北斎と蔦屋重三郎との関係は、北斎や写楽ほど親しいものではなかったのでは、
と太田美術館の主席学芸員 日野原健二さんは言います。
というのも、北斎の人気が出るのは、蔦屋重三郎の死後だから、なのです。
北斎は、確かに蔦重の「耕書堂」で仕事をしたのですが、そのときの 耕書堂主人は2代目。
蔦重ほどバイタリティのある人物ではなく、その活躍は伝えられていません。
蔦屋重三郎と、北斎が組んで仕事をしていたら、面白かったのでは?
特に、葛飾北斎の妖怪の浮世絵なら、蔦重は一体どんな本の挿絵にしたでしょう?
蔦屋重三郎は写楽で失敗も?
写楽(しゃらく)は、1794年、急に正体不明の絵師として現れました。
蔦重は、喜多川歌麿という看板絵師が去ったので、その代わりの絵師を必要としていたのでした。
東洲斎(とうしゅうさい)写楽は謎の絵師で、その生年月日がわかっていません。
写楽が現れたのは、喜多川歌麿が蔦屋重三郎のもとから独立してすぐのことでした。
蔦屋重三郎は、すぐにでも歌麿の後釜を探さなければなりませんでした。
絵とは全て、役者絵、それも大きな大首絵で役者の顔は、ものすごく強調されている。それが28枚。
見た人たちは皆、びっくりしました。
歌麿も、大首絵を描いていましたが、デフォルメ度は、写楽の方がさらに上をいっていました。
というのも、これまでの役者絵は、ブロマイドのようにキレイに美化されて描かれていたからです。
写楽の絵には、美しく描いたところが全くなかったのです。
画面いっぱいに描かれた、大きな顔、そして顔とは全くバランスが取れない小さな手。
見た人たちは、びっくりし、その画風には賛成するもの、嫌うものと意見が大きく分かれました。
モデルになった役者たちからは、美しくないという理由で、嫌われていました。
そして、そんな役者絵は売れ行きはさっぱりだったのです。
ですが写楽はその身元が不明だったため、当時流れた噂では、東洲斎写楽という人物は存在してなくて、葛飾北斎がこっそりと描いたのではないか、などと影武者説が出る始末でした。
東洲斎写楽は、1794年に現れ、1795年に突然、140点の作品を残して、突然いなくなりました。
写楽については、現代でも謎のままです。
蔦屋重三郎、何した人
一言で言うとしたら、蔦屋重三郎は、江戸時代のメディア王、です。
現代のメディア王というと、イーロン・マスクが挙げられるでしょうかね?
始まりは、本屋を開いたところからです。
江戸時代の本屋というと、本を売るだけではなく、本を作る商売もしていました。
つまり印刷所を兼ねていた、のです。
さらに古本屋も兼ねていました。
特に蔦屋重三郎は、浮世絵の版元をやっていた、と言うことで、多くの人気の浮世絵師を抱えていました。
蔦屋重三郎は、出版関係のプロデューサー、と言うのがちょうど良い表現だと思います。
蔦屋重三郎は、なぜ 大河の主人公になった?
蔦屋重三郎は遊郭で育ち、その時の生活から美人画、などの絵を商売にすることを覚えた、どちらかというと、エライ人、のイメージではありません。
偉人、改革人を扱う大河ドラマにしては、庶民感覚すぎる?と今の段階では思えるのです。
それどころか、前評判では、主人公はちょっと悪辣なところもある、と言います。
ちょっと大河らしくない?感じもするのですが。
NHKの放送に向けて、
「親なし、金なし、画才なし……ないない尽くしの生まれから”江戸のメディア王”としての時代の寵児となった蔦屋重三郎。その生涯を、笑おいいと涙と謎に満ちた物語として描く」
と言う宣伝文句を打ち出しています。
そこから考えてみると、ビジネスで成功するにはきれいごとだけではやっていけない、泥をすってでもはいあがる人生を描き出すことを、目的としたドラマ、を目指している、そう思います。
蔦屋重三郎の狂歌とは?
狂歌(きょうか)とは、和歌と同じように 五・七・五・七・七 と言う和歌と同じ形式で書かれています。
その内容は、社会の風刺、洒落を交えた滑稽なものです。中には、古典の歌の言葉だけを取り替えた「本歌取り」と言うものもあります。
蔦屋重三郎が狂歌を愛したわけではありません。
狂歌は江戸時代に人気がありました。
蔦屋重三郎が生きた時代の大物政治家 田沼意次(たぬまおきつぐ)についても、その賄賂政治を歌った、狂歌が作られていました。
蔦屋重三郎は、流行を上手に利用していたのです。
蔦屋重三郎、山東京伝とタッグを組む
山東京伝(さんとうきょうでん)は、当時人気の戯作者(げさくしゃ)です。
戯作者とは、1700年代の江戸時代にはやった、通俗小説の作者のことです。
内容は、当時の世相を風刺を込めて滑稽みを出して描かれた、娯楽小説です。
さらに山東京伝は、文章を挿絵の版画をどちらも書いた、器用な作家でした。
その器用さが、蔦谷重三郎の目に止まり、一緒に仕事をすることになりました。
蔦屋重三郎が経営する、「耕書堂」から、文章と挿絵の両方を手がけた本を出版しました。
蔦屋重三郎と、山東京伝は、どちらも、遊郭のある場所の出身で、話があい、感覚も似ていたので、気がありました。
現代でこそ、出版社が作家に原稿料を払うのは当たり前でしたが、江戸時代では、そのような雇用制度がありませんでしたが、
蔦屋重三郎は、山東京伝に原稿料を支払いをしました。
これは、新しい仕事の体系を作り出した、画期的な出来事です。
蔦屋重三郎、田沼意次の元で開く才能
蔦屋重三郎は、田沼意次が政治を取り行っていた頃、活躍しました。
田沼意次の政策は商業を重んじた、貨幣経済を中心とした国づくりをする、ということで、お金が大切にされる風潮でした。
貨幣経済が、世の中によく回り、江戸は豊かになり、庶民の心には潤いが出てきました。
ですから、庶民は娯楽を求め、蔦屋重三郎の、本屋稼業もよく流行っていきました。
それでは、蔦屋重三郎と田沼意次は、出会ったことがあるのだろうか?という疑問が出てきます。
二人の実際の出会いがあったかどうか、については伝える文章が残っていません。
ですが、2025年の大河ドラマ「べらぼう〜」で、田沼意次 役が、渡辺謙にキャスティングされているところから見ると、何らかの接点が想像されます。
蔦屋重三郎、処罰される
田沼意次は商業を重んじる政策をとった結果、拝金主義などと言われ、賄賂政治などと言われ、幕府の役職から失脚したのでした。
次の老中は、松平定信。
蔦屋重三郎、寛政の改革の犠牲に?
松平定信は、田沼意次の逆をいく政策を取ります、それが寛政の改革(かんせいのかいかく)です。
田沼意次と違い、松平定信の政策は、社会を引き締めることです。
蔦屋重三郎は、寛政の改革(かんせいのかいかく)のおかげで処罰されることとなりました。
寛政の改革は、品行方正を大切にしたため、蔦屋重三郎や、山東京伝の出版物は、「風俗的によろしくない」とされ絶版を言い渡されました。
蔦屋重三郎たちは、政府から目をつけられる存在になってしまったのです。
山東京伝が描き、蔦屋重三郎が出版した、洒落本三部作「仕懸文庫」、「錦の裏」、「娼妓絹麗」が幕府の禁止事項にひっかると言って、山東京伝、蔦屋重三郎は処罰を受けました。
蔦屋重三郎は、財産の半分を没収され、山東京伝の方は50日間、両手に鎖をかけられたまま自宅に謹慎させれました。
この二人に対する処罰の意味は、見せしめ的なところがありました。
特に蔦屋重三郎の商売が成功し、世間が注目するのを、政府側は苦々しい思いで見ていたということです。
不道徳なことをやって、荒稼ぎする人たち、と思われていたのでしょう。
蔦屋重三郎への賞罰、その後は?
蔦屋重三郎たちへの処罰の後は、狂歌のブームは落ち着き、蔦屋重三郎の商売も人気を失いつつありました。
政府から見ると、政府側のやり方が成功した、といえましょう。
しかし処罰され財産の半分を没収されても、蔦屋重三郎は、出版の世界で働き続けました。
作家や浮世絵師たちに、才能があると見れば、支援を続けました。
どんな支援かというと、蔦屋重三郎の家に芸術家を集めて、生活を支えていました。
蔦屋重三郎の死因
蔦屋重三郎は処罰され、その財産が半分も奪われても、蔦重の創作力は衰えず、再び財力を持つまでに至りました。
それでも晩年は、あんまり順調とはいえない、仕事の業績でした。
喜多川歌麿は独立して出ていき、代わりにプロデュースした、東洲斎写楽はあまり人気が出なかった。
また違う人を探そう、と思ったら、1797年、脚気(かっけ)にかかり、それが元で死亡しました。
48歳の人生でした。
脚気とは栄養の行き渡らなかった時代の病気でっすが、食べる物に不足しているからかかるのではなく、むしろ白米などを食べることから起きるビタミン不足から起きる病気です。
貧乏人より、胚芽を取り除いた白米が食べられる裕福な人が、かかる病気でした。
蔦屋重三郎の「耕書堂」この後、5代つづき、明治時代の最初の頃まで存続しました。
蔦屋重三郎はTSUTAYA?
蔦屋と聞くと、TSUTAYAを連想する人がほとんどではないでしょうか?
ですが関係はありません。
TSUTAYAは、貸本、レンタルCD、DVDと全国にその店舗を見ることができます。
時には、スターバックと提携して、コーヒーを読みながら本を鑑賞できるスペースを設けている店舗もあります。
展開規模が大きいので、蔦屋重三郎の子孫かと見えそうですが。
子孫ではなく、創始者は 増田宗昭(ますだむねあき)と言い、増田の祖父は置屋の主人でした。
置き屋の屋号が「蔦屋」だったために、創始者は「TSUTAYA」とつけたのです。
繋がりとしては、増田の祖父は、蔦屋重三郎から発想を得てつけた、というところにあります。
他にも、置屋をしていたことも関係あるのでは、と思われます。
置屋とは、芸者や遊女を雇っている家のことで、この家から、遊女たちは料亭や茶屋に行って、遊女としての仕事をします。
蔦屋重三郎の育った家も、遊郭に関した稼業でした。遊郭繋がりですね。
蔦屋重三郎の生い立ち
蔦屋重三郎は、1750年〜97年の江戸時代中期を生きた人物です。
生まれは遊郭。現代でいえば、東京都江東区千束(せんぞく)あたりになります。
父は遊郭に勤めている人、母は、津与(つよ)と言いましたが、この両親は離婚したので、喜多川家(きたがわけ)に養子に出されました。
喜多川家は、吉原で「蔦屋」という引手茶屋を営んでいました。
江戸時代当時は、遊郭に遊びにいくには、引手茶屋から、遊女屋に案内してもらっていくのが通常でした。
本名は、喜多川珂理(きたがわからまる)といいます。
蔦屋も重三郎も本名ではなく、通名(つうめい、または とおりな)でした。
通名というだけあって、本名の喜多川珂理ではなく、蔦屋重三郎、または蔦重で通っていました。
吉原は、政府公認の歓楽街でしたが、現代の風俗とは違う面があります。
人気者の女郎がいたり、その女郎の服装が流行ったり、で現代の芸能界的な要素もありました。
そこで、吉原は流行の発信地になっていました。
蔦屋重三郎は、吉原という中で刺激を受け、狂歌や、戯作を「蔦絡丸」(つたからまる)というペンネームで書くようになりました。
そのころはおそらく、20歳前後でした。
蔦屋重三郎の貸本屋
蔦屋重三郎が最初のビジネスは貸本屋、吉原の引手茶屋に間借りしてはじめました。
養父の家も引手茶屋でしたが、ここは養父 蔦屋ではなく、義兄の店でした。
24歳の時に、吉原のガイドブックとも言われる「吉原細見」(よしみさいけん)の編集をまかせられました。
これは従来の「吉原細見」よりもサイズを大きくして、読みやすく工夫し、人気が出ました。
これは蔦屋重三郎の貸本屋が人気があったというだけでなく、重三郎が、吉原を知り尽くしてた、ということを意味しています。
余談ですが、「吉原細見」の序文を書いたのは、平賀源内(ひらがげんない)でした。
多分、蔦屋重三郎は、遊女たちから人気があったに違いありません。
「べらぼう〜」に出てくる、遊女役の豪華さ、蔦屋重三郎 役の 横浜流星のイケメンぶりから、そんな想像ができます。
イケメンかどうかはさておき、この人ならばきっと吉原を存分に紹介してくれる、と思われたのは事実でしょう。
蔦屋重三郎の店「耕書堂」
蔦屋重三郎は、新たに「耕書堂」という新しい、本屋を持ちました。
その店跡は今でも残っています。
蔦屋重三郎が構えた店「耕書堂」とは
蔦屋重三郎の本屋稼業は貸本屋から始まったのですが、耕書堂は、地本問屋でした。
地本問屋とは、
まず地本ですが、本の内容・企画も、紙も製本も全て江戸生まれの本という意味です。
その本を、一軒の店で企画・作成・販売を一店でとりあつかる本屋を地元問屋と言います。
京都や大阪で作られた本は、「下り本」(くだりぼん)と呼ばれ、地本と違っていました。
蔦屋重三郎の店、「耕書堂」跡地
「耕書堂」は、跡地の場所が記され、残っています。
東京都中央区日本橋大伝馬町。小伝馬町の東急インの正面にあります。
この場所は、当時は、通油町、という住所でした。
大伝馬町と小伝馬町は江戸通りを挟んで隣り合う町です。
この場所は日本橋が近く、旅籠が多く、人が馬の往来が盛んでした。
大伝馬町に店を構えた、ということは、旅行客の需要も狙ったかもしれません。
しかし、この店舗は蔦屋重三郎の1号店ではありません。
1号店の場所は、東京都台東区千束4丁目11番地付近です。ここは吉原遊郭の入り口です。
江戸時代、吉原遊郭は、浅草寺から1キロほど北に行ったところで、台東区千束3丁目から4丁目にかけての場所にありました。
蔦屋重三郎の性格
そこで、他人から人望を寄せられた、蔦屋重三郎はどんな性格の持ち主だったのでしょう。
蔦屋重三郎と交流があった、狂歌作家、石川雅望(いしかわまさもち)が、「喜多川柯理墓碣銘」(きたがわからまるぼけつめい)の中で、重三郎の性格に触れています。
「人に抜きん出た気性をもち、度量が大きく細かいことにこだわらず、にとに対しては信義を尊重する」
「気性」とは気が強いだけではなく、気立て、気質のことを言います。
つまり、蔦屋重三郎は、広く物事を受け入るのだけど、その範囲がハンパない、そして信義を大切にする人間と、表現されていました。
石川雅望には、宿屋飯盛(やどやのめしもり)という実に面白い、狂歌作家名(芸名みたいなもの)
を持っていました。
石川雅望が書き残した、蔦屋重三郎の性格ですが、これって、「きっぷのいい江戸っ子」そのものをいく人柄ですね。
そういえば、「きっぷ」とは「気風」と書きます。江戸っ子を表現する言葉です。
のちに、時代が変わると「風紀を乱すもの」として処罰されましたが、そんなことをものともしない、「べらんべえ」と言ってのける、性格通りの生涯を送りました。
蔦屋重三郎は「大奥」のスタッフ、再び
蔦屋重三郎「べらぼう〜」のスタッフ
蔦屋重三郎を主人公にした、大河ドラマ「べらぼう〜」のNHKの制作チームは、2023年に終了したNHKのドラマ「大奥」と同じチームと発表されました。
この二つのドラマ、共通点が多いのです。
この「大奥」は2023年秋に、放映された「大奥2」の「医療編」と時代背景が、かぶります。
田沼意次、松平定信、徳川将軍 家治などが登場します。
「べらぼう」その他のキャスト
特筆すべきことは、冨永愛が大奥の人物になっての登場!
今度は男女逆転ではなく、大奥の取締役 高岳(たかおか)にキャスティングされています。
高岳については、こちらに紹介してありますので、ご覧ください。
富永愛の凛々しい、打掛姿にまたお目にかかれますね。
また、安達祐実も出演します。
安達祐実は、「大奥2」では、松平定信 役、でした。そう田沼意次のライバルでしたね。
今度の「べらぼう」では、吉原の女郎屋 「大黒屋」の女将で、主人公 蔦屋重三郎を後見する役所です。
「大奥2」で、13代将軍 家定を演じた、愛希れいか は高級女郎「朝顔」にキャスティングされ、幼い頃の蔦屋重三郎に、本の楽しさを教える、という役です。
まとめ
ここで、蔦屋重三郎の人物像がなんとなく、浮かび上がってきました。
まさに、江戸っ子らしい、気質の人間のように見えます。
非常に思いっきりの良い、人物だったのでしょうね。
色々な人物を見出して、自分のために、挿絵を描いてくれるのだから、蔦屋重三郎は、なかなか魅力的な人物だったことが考えられます。
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