小野お通。1500〜1600年代、桃山時代から江戸時代初期の女性です。
大層な文化人でした。
ドラマの主人公になることはないのですが、戦国もののドラマによく登場します。
戦国時代、東軍、西軍どちらにも特に肩入れすることなく、どちらにも平等に文化的貢献をしてきた女性でした。
一体、どのような女性でしょうか?
あらゆる文芸に秀でていたと言われてますが、特に書(習字?)が優れていたと言います。
小野お通とは
小野お通という方は、戦国ものを扱ったドラマによく登場します。
どういう人物かとなると、捉えどころがないのですが、どうも信長も秀吉、また家康も一目置く女性でした。
文人であり、政治的な力というものはなさそうに見えますが、重んじられていた人物です。
生死年は、確証とするものがありませんが、1567年〜1616年、とされています。
名前は登場する機会が多いのですが、実態は掴みにくい謎の女性です。
父は美濃国の地侍、小野正秀。地侍というのは、豪族に近く、庄屋、豪農、地主でいながら侍身分であった者たち。安土桃山時代に現れた身分でした。そして守護大名と主従関係を結びました。小野正秀の場合は斎藤道三に仕えました。
身分としてはそんなに高い方ではありません。
父、小野正秀は本能寺で織田信長と共に討死したのが有力な説です。
一家の主人を亡くした、小野の妻と子供は京都で公家の九条稙通の元に身を寄せ、そこでお通は学問や芸事を教えられました。
地侍の妻子が突然公家の家に雇われ、娘が学問、芸事を仕込まれる・・・ちょっとできすぎた話たと思いませんか?
明らかにされていませんが、母が公家に連なるかあるいは縁がある家の出身だったかもしれません。それとも父の方に九条家となんらかのつながりがあったのでしょうか?あるいは娘のお通が、人目をひく才能を発揮したとか・・・?かなり特殊な事情と思われます。
小野お通の能力、書
小野お通の家、小野氏は遊芸人の一族だったのでは?と言われています。ですからお通自身、幼少期から芸事を学ぶのは普通と、捉えていたところがあります。
ですから、小野お通の一族はもとより九条家とコネクションがあった説も考えられます。
そんな一族に生まれたお通も芸事の勉強というのは好きだったと思われます。
勉学の一環として、筆の名人と言われる近衛信尹より直接に書を習いました。近衛信尹は織田信長と親交がありました。
そこで、芸術にも思い入れが深い織田信長は、小野お通に目を止め勉学がより進められるよう後押しをした可能性があります。
お通の筆の才能は評判になり、その文字の字体は「お通流」と呼ばれています。
「お通流」は繊細で鋭い筆使い、かなり個性的です。当時の女性に人気がありました。身分の高い女性たちはこぞって小野お通に書を習いました。当時の今風?だったのですね。
淀君や、細川ガラシャも例外ではありません。
そして書及び和歌の才能を買われ、織田信長はじめ豊臣秀吉、その妻の北政所(高台院)に仕えました。のちには秀吉の側室、淀の方にも仕えました。
現存するお通の手によるもの、と言われる作品に「醍醐花見短籍」、「柿本人麿画像」、「達磨図」「豊臣秀吉像」、「徳川家康像」があります。
ほとんどが寺で所蔵されていて、公開されることはあまりなさそうです。
これだけ当時の有名人の元に呼ばれると、時の人、ですね。どうやって生活の糧を稼いだのか心配でしたが、まさに「芸は身を助ける」です。
さらに公家からの直伝ということで箔がついたのでしょうね。
小野お通の夫と娘、子孫は
小野お通は、近衛信尹(このえのぶただ)のもとで書を習っていた際、近衛家の侍、渡瀬羽林(わたせうりん)と結婚しました。そこで娘をもうけました。その娘の名は母と同じ、つう、とも図(つう)とも、もう一人はお伏せ、とも、お犬とも言われています。つう、ふせ、はともかく、お犬は現代の感覚では女子の名前としてはあまりいいとは思えませんが。
ですが、実は小野お通は再婚で、豊臣秀次(秀吉の甥)の家人、塩川志摩守と結婚していたらしいとのことです。しかし離縁しました。なんでも夫は酒乱だったらしい。
今も昔も酒乱は嫌なものですが、小野お通が離縁できた、ということはお通に自分で自活できる能力があったという証明です。
ほとんどの場合、生活を考えると、我慢して続けなければならなかったのが昔でしたから。
小野お通の娘は真田信之の次男真田信政の側室になります。父親の願いを息子が叶えた?
さて、「娘」とは「「お伏せ」、「お図」どちらでしょう?どちらの記載もあるのではっきり言えないのです。それが昔の女性の哀しさです。どんなに活躍しても女性は名前がはっきりと残りません。
ただ、のち仏門に入り「宗鑑尼」という呼び名になったことだけは確かです。
そして真田信政の間に真田信就(のぶなり)という息子が生まれます。信就の末の子、幸道が分家、真田勘解由家になります。松代藩主に落ち着きます。
真田勘解由家は、松代で箏の流派を作り上げます。その名も「八橋流」。幸道の祖母の影響が大きいです。宗鑑尼は八橋検校の教えを受けていました。
宗鑑尼は小野お通の娘です。だから芸事の才能が受け継がれてきているのです。
真田信之と小野お通
真田信之が小野お通を恋していた!と戦国時代ロマンスです。
真田信之は真田幸村のお兄さんです。関ヶ原以降、真田家と離れ徳川家について家を存続させました。
真田信之が京都に出向いた際、小野お通の世話になったということでした。今で家は、地方出身の学生の下宿生活支援・・・みたいなもの?
大変良くしてもらったのでしょう?真田信之はのぼせてしまったみたいです。優しくて頭の良い女性・・・と。
その後もずっと真田信之は小野お通への思いは変わらなかったようです。真田信之と小野お通が互いに書簡(手紙)をやり取りした記録がある、ということです。
大坂冬の陣の後、徳川は真田幸村を自分の味方に引き入れたいと思い、信之に弟、幸村を説得に向かわせました。結果は兄弟に決別となったのですが、その時の面会をコーディネートした人がいた。それが小野お通だった、というわけです。
もう一つあります。真田幸村が大坂夏の陣で、討死した後、小野お通が真田信之に幸村の遺髪を届けた、というエピソードです。
小野お通は、真田兄弟の行く末も心に欠けていたのもようです。小野お通も真田信之に想いがあったのでしょうか?
真田信之が晩年を迎えた頃、信之の正室、小松殿が「もう京都の方をお迎えになっても構いません」的なことを言いました。京都の方とは小野お通のことです。
しかし、真田信之は、小野お通を側室には迎えませんでした。それは真田信之が小野お通を、自立した女性とみなしていたからのような気がします。
小野お通の墓は?
江戸、広徳寺(東京都練馬区桜台)に真田家ゆかりの寺に墓があります。
小野お通は、大阪に嫁いできた、家康の孫、千姫の作法指導など行なっていました。そして大阪城落城の時は、千姫を連れて命からがら火の中を逃げ出しました。
その後は徳川家に召し抱えられ、江戸城で女性たちの行儀指導の役を受けていました。
小野お通の死に関してはあまり伝えられていません。没年1616年と伝えられていますから大坂夏の陣の翌年です。つまり千姫を連れて大阪城を脱出した翌年ということです。享年49歳。平均寿命が短かった時代、と言っても少し短すぎるような気がします。
大阪城の戦火を潜り抜けたなど、心労があったかもしれませんね。それで死期が早まったのかもしれません。
広徳寺に小野お通の墓はあります。寺には真田家以外にも、立花家、柳生家といった大名のお墓があります。
ということは小野お通は相当な格式のある重要人物だったことが窺われます。
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