家康、伊賀越え!信楽街道を通るルート。服部半蔵活躍

家康(いえやす)は、織田信長が本能寺で暗殺された後、犯人の明智光秀に命を狙われ、一気に国まで逃げ帰ります。

その時、伊賀越えと呼ばれる、過酷な山道を通って脱出しました。

伊賀はどんな道だったのでしょう。

家康にに助力者もいました。

家康の逃げたルートをたどってみましょう。

家康、伊賀越えとは?

家康が、伊賀を越えて逃げ延びた、ということなのですが、家康の逃亡劇を見ると、伊賀越えは全行程のうちの、ほんの一部でしかありません。

距離にして、20キロ〜25キロほど。

伊賀を抜けるのにほぼ一日、費やしています。

伊賀越えに至る経緯

1582年6月2日、京都の本能寺にて、織田信長そして息子の信忠(のぶただ)が明智光秀によって討ち取られました。

本能寺の変のわずか数日前、安土城で、家康は信長の接待を受けていました。

明智光秀から見ると、家康は織田信長のお気に入りの家臣。

天下取りを考える、明智光秀にとって、家康は邪魔な存在です。

しかも安土城の接待では、明智光秀が接待役になったものの、接待の手筈が悪い、と信長から、殴られるなど非常に心身ともに恥をかかされてしまいました。

そこで、明智光秀は、家康にも報復を考えていました。

家康は、明智光秀からの憎悪がわかっていたので、とにかく、関西方面から逃げ出そうと考えます。

本能寺の変の時は、ちょうど堺の見物をしていました。

そこに、織田信長、暗殺の知らせが届いたのです。

家康、絶体絶命

家康は、接待を受けるために安土城に来たので、兵を率いてはいませんでした。総勢、34名。

家康を接待した者が明智光秀だから、家康の動きも、こちらの人数も全部光秀に把握されている。

家康が、逃げ出そうとしていることも、光秀はもう予想している・・・・多分、東国へ向かう道も、光秀は全て知っており、封鎖を考えている頃だろうと・・

京都へ戻って、弔い合戦をするにも手勢がいない。

また逃げるにしても、明智光秀は今頃あちこちに知らせているかもしれない。

落武者狩り、というものもハイエナのように待ち受けている。

一度は、どうしようもない・・・と思い、いっそのこと信長の後を追って、自害してしまおうかとも考えたほどでした。

この時代、まだ優柔不断気味の家康であります。

家康、提案を受ける

家康は悲観的になり、自害も考え始めます。

そこへ、新たな提案を出してきたのが、家臣の本多忠勝(ほんだただかつ)。

それが、脱出して、全員生き延びることでした。

他の家臣は、家康と同様、腰が引けていて、本多忠勝の意見は無茶だ、と言います。

そこを、本多忠勝は、なん度も何度も説得を続けて、ついに家康に脱出を承諾させます。

本多忠勝が、忠義者と呼ばれるのは、こういう点にあります。

周りから反対されても、また主君が反対しても、良いと思ったことは絶対に主張したからでした。

そして検討されたのが「伊賀越え」ルートだったのです。

信楽街道、家康伊賀越の道

信楽街道は、山城と信楽(しがらき)まで走る街道です。

家康が、本能寺の変の後、明智光秀の追手を逃れるために利用した街道です。

小川城で休憩しているので、信楽街道は「御斎峠」、「桜峠」のルートの場合でしか使わない街道です。

家康は堺から、宇治田原(うじたわら)を通り、郷之口にある宇治田原城(山口城)で昼食をとりました。

この城は信長の命で作られた城で、城主も、信長・家康の味方だったので、家康にとって一息つける城でした。

宇治田原城を出た家康一行は、信楽街道を進み、伊賀への国境にある小川城で、一泊します。

小川城から、伊賀越えです。

信楽街道を行く間も、絶えず後ろを気にしながらの、道中だったのではないでしょうか?

ちょっと怖いですね。

今でも、信楽街道は、「家康が通った道」として、観光客を集めています。

観光スポットもあります。

家康の伊賀越え ルート

最短で国まで、安全にいけるルートを考えたら伊賀越えになった次第です

伊賀越えルートの説はいくつかあります。それをご紹介します。

伊賀は危険な土地

伊賀国は、特定の領主がいない土地です。現在の地名では三重県伊賀市になります。

領主がいない代わりに、地方の有力者たちの自治区でした。

有力者たちは、特定の人に治められるのを嫌い、それが織田信長を悩ませていました。

織田信長はなんとしても、彼らを支配しようと思い、武力を用い制圧しました。

そのため、伊賀国では、織田信長は非常に憎まれていました。

織田信長が憎いから、その盟友である、徳川家康のことも、当然敵と考えていました。

そこでこのルート、徳川家康が通るのは危険とされていました。

その反対に、明智光秀側は、家康があえてこのルートをとる、とは思っていなかったので、その分だけ家康には有利に働きます。

これまでの伊賀越えルート

御斎峠ルート

これまでに信じられてきた、伊賀越え(いがごえ)のルートは、御斎峠(おとぎとうげ)です。

滋賀県甲賀の地にある、小川城で一晩過ごし、御斎峠→上野→佐那具(さなぐ)→柘植(つげ)→加太峠(かぶととうげ)、というルート。

加太峠を過ぎると、伊賀国を抜けます。

このルートは伊賀国(いがのくに)の真ん中を突っ走っていくこととなります。

遠回りでかなり危険です。

あえて、こんな危険なルートを選んだのか?というのが長年の疑問でもありました。

ですが、たいていのドラマでは、御斎峠説が採用しています。

やはりドラマに緊張感、スリルが出るからではないでしょうか?

桜峠ルート

桜峠は三重県の、甲賀を伊賀の間にある峠です。

小川城→桜峠→石川→柘植→加太峠

このルートは伊賀北部の山道をまっすぐ抜けるコースです。

ですから、伊賀の住民からも目につきにくく、最短ルートなのでリスクがだいぶ軽減されます。

むしろ、こちらのルートが有力なのでは?と最近では考えられています。

最新説、伊賀越え、大和ルート

「当代記」という書物があり、家康の孫が書いたと言われています。

「当代記」には、大和路に向かったのち、伊賀を越えた、という内容があるのです。

そのルートは

堺→竹内峠→八木→高見山→琴引→鳳凰寺→加太峠

とあります。

「竹内峠」から「琴引」までが大和国で、「琴引」から「柘植」、「加太峠」までが伊賀越えです。

新たな発見、とはいえ、大和国は、明智光秀の配下の人物が治めていたので、このルートは安全とはいえません。

ですので、大和ルートは、ちょっと無理があるのでは?と思われています。

家康、伊賀越え 服部半蔵活躍?

家康の部下に、伊賀出身の服部半蔵がいます。

本能寺の変のあと、家康は自分の領地まで寄稿するのも危険な状況でしたが、帰るベストな方法がありませんでした。

そのとき、服部半蔵は、伊賀に入り、伊賀の忍びの者たちの協力を得て、岡崎に戻る案を進言しました。

家康はその案を取り入れて、服部半蔵に準備させます。

服部半蔵は伊賀の忍びの者たちに家康保護を頼みながら、護衛をして無事岡崎に到着した、という次第です。

家康は帰国後、甲賀者、伊賀者を自分のところで雇うことい決め、徳川隠密団を作りました。

隠密団の頭領(まとめ役)は服部半蔵です。

服部半蔵は忍びの者と言われますが、そうではなく、忍びの者たちを取りまとめた役職についていた、ということなのです。

服部半蔵は、家康に気に入られて、半蔵の2代目には江戸城西門近くに屋敷を与えられました。

しかし、伊賀越えで服部半蔵が活躍と書かれている歴史書はほとんど見当たりません。

家康の伊賀越えでは信頼性の高い「石川忠総留書」がありますが、服部半蔵についてはその活躍ぶりは、あまり載っていません。

家康の共の一人として、その名前が記されているだけです。

もう一人、家康の伊賀越えを助けた人物として、茶屋四郎次郎が挙げられます。

茶屋四郎次郎の活躍はこちらからご覧ください。

 

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