徳姫・・・徳川家の長男のところに来た嫁です。この嫁のお陰で徳川家は大混乱になります。
信長の娘だったこと。ちょっとばかり気位が高かったこと・・・嫁姑の関係?
現代社会にもありそうな設定ですが、戦国時代ともなると流血事件に発展していきます。
徳姫はそんなそんな悲劇を、引き起こしてしまった姫君です。
大河ドラマ「どうする家康」では、どんな描かれ方をするでしょうか?
徳姫、美人だった?
歴史に残る女性を考えるとき、その人が美人だったのかな?というのは非常に気になります。
徳姫(とくひめ)も、織田信長の娘であることを考えると美形だったのでは?
肖像画が残っていないのが残念です。
徳姫には孫がいて、その孫は男性ですが、後世に美男と名が残っています。
女性で言えば、叔母のお市の方、その娘の浅い三姉妹(茶々、初、江)、大叔母のお艶の方、は誰もが認める戦国時代の美女たち。
徳姫も美しい姫であったに違いありません。
徳姫の性格は?
性格はどうだったのでしょう?これも父、信長から推測すると、かなり気の強い女性だったのではないでしょうか。
自分が一番じゃないと気が済まないところもあったのかもしれません。
まだ徳川家が織田家の力に勝てない時期でしたので、織田家から来た姫、つまり徳姫の方が嫁に来てやった感を出していたかもしれません。現代で言うとタカビー女?
だからこそ、夫、信康が側室を持つなど許せなかった。
また信康の母、築山殿から男子を産まないこと、を責められるのに我慢なりませんでした。
要するに名家の娘は、ちょっとわがままなんでしょうね。
築山殿は織田家にとっては敵対する今川家の出身だったことも、どこかひっかっています。
徳姫の信長から与えられた役割
戦国当時の女性は、支配階級にある人物の娘の場合、国と国との結びつきのための結婚が普通でした。
それにはある役目が与えられていました。実家に有利な情報をもたらすこと。
スパイの役割といっていいかもしれません。
国と国との結びつきを強固なものにするため、嫁ぎ先では柔軟にしたたかに行動することが求められます。
大河ドラマ「どうする家康」では、信長が、ほとんど脅すよ形で徳姫にスパイを命じていました。
徳姫はスパイの役割をわきまえていたか?
どちらにせよ、徳姫は結婚生活の不満を、自分の父親に手紙で告げ口する、という形で手紙にしました。
それが後に悪い結果となるのですが、こういう点ではちょっと思慮に欠ける姫ですね。
いや、だからこそ信長が利用したのかもしれませんよ。
徳姫・・・小侍従の死がきっかけに
徳姫は、徳川信康の元に嫁いで約10年後に初めて子供を産みます。
10年後と言っても結婚したのがお互い9歳の時ですから、結婚してから、なかなか生まれなかったということには当たりません。
続けて二人生まれましたが、どちらも女子でした。
築山殿(松平信康の母)は、男子を産まなければ意味はない、と冷たく徳姫を見下しました。
そして信康に側室を勧めたのでした。側室は武田氏に関係ある者でした。
ちょうどこの頃、徳川家康にも新しい側室ができ、築山殿はピリピリしていた時期でした。そのとばっちりが徳姫に及んだみたいです。
当然徳姫は面白くありませんし、深く傷つきました。
徳姫に、側室の報告をしたのが小侍従とい徳姫の侍女です。
実は小侍従というのは名前ではなく、高貴な身分の女性に仕える女官の役職名です。平安時代から多くの小侍従がいます。
この小侍従、亀という名前だったということです。
しかし、せっかく徳姫に隠し仰たと思った信康・・・なのに・・・・バレて怒った信康は小侍従を切り捨ててしまいました。
それも徳姫の面前で・・・一説には、切り捨てた際、小侍従の口に指をいれその口を裂いた、とか・・・・誇張かもしれませんね。
徳姫の手紙
この様子を見て怯え切った徳姫・・・早速実家の父に手紙を送ります。
- 築山殿は、信康に側室を紹介し、自分との仲を危うくした
- 自分の侍女を切り捨てた(小侍従のこと)
を含む12項目に及ぶ、訴状ともいうべき手紙でした。
これ以外の内容は、築山殿も密通をしている(不倫しているということですね)、信康は絶えず人を斬っている、とありました。
築山殿のこと、信康が人斬りが趣味などというのは後世の創作のようです。
この書状の実物は残っていません。書写しがあるのみです。
築山殿、信康親子を、排除するための言い訳として作られた内容という感じです。
側室を持つ、ということは当時の武家の習いだったのですが、それでも一人の妻としてあまり気分のいいものではなかったと思います。
その不満を父に愚痴った・・その程度だったと思いますが、その手紙は波乱の結末です。
その時期は、姑の築山殿だって、家康の側室が子供を産んだことで心情穏やかではなく、側室につらく当たっていました。
ある意味、徳姫と築山殿、似ていたのかもしれません。
どちらも有名な家の生まれ、大事にされたお姫様。
似ていたからぶつかり合いが起きたでしょうか?それにしては大きな事件に発展してしまいました。
この事件がきっかけとなり、信康と築山殿が共謀して謀反を企んだということになり、信康は切腹、築山殿は処刑の最後に終わりました。
徳姫、「どうする家康」では?
「どうする家康」は、新しい解釈がたくさん盛り込まれています。
まず、姑の築山殿が、気性が激しい女性ではないこと。
夫の松平信康も、乱暴者ではなさそうなこと・・・
では「小侍従」と「徳姫密書」事件がそもそもあったのか・・・・
それともスパイだったのは徳姫ではなく、小侍従の方だったのか?
小侍従にもスパイの資格はあります。自国から、連れてきた侍女も何かあったら知らせるように教えられていますから。
なんといっても、自分の国の姫が軽んじられたり、いじめられたりしたら同名の危機になります。
もしかしたら、力をどんどんつけてきた家康に危険さを感じた織田信長の陰謀だったことも考えられます。
はっきりした罪が確定できないまま、織田信長の圧に負けてしまった家康は、「信康・築山殿」処刑しました。
事件を徳川家の黒歴史と思っていたのかもしれません。
黒歴史を隠すために、もっともらしい徳川の歴史を捏造したことも考えられます。
この後、「どうする家康」はどうなるか、目が離せません。
徳姫の父は?母?
徳姫の父親は、織田信長です。母は生駒家の出自です。正確なところは記録にありませんが、吉乃(きつの)という名であったようです。そして、信雄、徳姫、信忠を産んだとされています。
子供を産んだため、信長からは大事にされたということです。
産褥などの理由で早死にしたそうです。
後に秀吉もこの墓を大事にして、節目の法要を取り行っていました。
豊臣秀吉は主君の姫ということで、大事に扱ってくれました。
徳姫の子孫
徳姫は信康の死後、実家、信長のもとに帰りますが、娘二人は家康に引き取られました。
長女は登久姫といい、小笠原秀政(おがさわらひでまさ)と結婚、たくさんの子宝に恵まれました。次女の熊姫(国姫、とも言われています)は本多忠政(ほんだただまさ)と結婚します。こちらも数人の子供に恵まれます。
熊姫と本多忠政の息子「本多忠刻」(ただとき)は家康の孫、千姫と結婚しました。
千姫2回目の結婚です。熊姫が家康の孫だったから、忠刻と千姫の結婚は親戚関係の結婚です。
この忠刻はなかなかの美丈夫だったと言われていますので、おそらくその祖母、徳姫も美人と言われるのはここからきています。
忠刻の血筋はさまざまな家に伝わっていきます。天皇家にもこの血にも繋がっていきます。
徳姫の意味、五徳から
「徳姫」と呼ばれていますが、生まれた時は「五徳」と言っていました。読み方は「ごとく」ではなく「おごとく」でした。
名前の元となった「五徳」とは道具の名前です。炭火の上に置いて鍋、やかんをその上におきます。五徳がないとやかん類はひっくり返ってしまいます。
信長は自分の娘に、設置して安定させる役割を持たせる意味でつけたようです。
戦国時代としては平和への土台となる五徳が必要と思ったのでしょう。祈りを込めた名前です。信長の自分も娘に寄せる愛情が感じられます。
徳姫は自分が信康に辛くあたられて父親に手紙したことは、父に頼っていたのですね。
徳姫はファザコンだったのでしょうか?
今でも五徳はガス台に置かれていますね。家庭用五徳は6つの角があります。またアルコール燃料コンロの場合は3つの角です。昔は5つの角だったのでしょうか?
徳姫の生涯と死因
徳姫は、信康の死後、父の元に帰ったのですが、再婚はしませんでした。
父の信長の死後も兄に保護され秀吉の時代もその生活は保証されていました。
しかし秀吉の監視下にあったと思われます。
というのも、もし徳姫が再婚すると織田の血筋を主張する者が現れ、天下をかけた争いが起こる可能性あり、と秀吉は思っていました。
徳姫は関ヶ原の戦いの後も生き延びて、所領も与えられていました。そして家康よりも、自分の娘たちよりも長生きをしました。
死去年は1636年、寛永13年。享年77歳。死因は病気、というより老衰による死と言って間違い無いでしょう。
墓所は、京都大徳寺の総見院にあります。ここは信長の墓所も作られています。総見院というのは信長の戒名の院号です。
もし信康が生きていれば・・・なんて徳姫は考えたことがあったでしょうか?生きていれば徳川幕府の2代将軍だったのかもしれないのです。
それとも・・・他の女性にかかりきりになる信康をやっぱり許せなかったのでしょうか?
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