明智光秀、本能寺の変に突入!ルートは?戦いの前にしたこと。後はどうなった?

NHK大河ドラマ「どうする家康」いよいよ、物語のヤマ場の一つ「本能寺の変」に突入です。

襲撃するのは明智光秀。

明智光秀はどんなルートで本能寺に入ったのでしょうか?

本能寺の変の前の、光秀の行動が気になります。明智光秀もゲン担ぎするのでしょうか?

本能寺の変の後は、自分の予想がことごとく外れ敗者となりました。

明智光秀の最後の勇姿、ぜひご覧ください。

明智光秀、本能寺の変で、とったルート?

明智光秀は(あけちみつひで)は、織田信長から、備中(岡山県)にいる秀吉を応援するように言いつかっていました。

光秀は、自分の城、丹波亀山城から出発しました。

亀山城に着いたのが5月26日というから、安土城で徳川家康を接待してすぐに、自分の城に戻ったのでしょう。

6月1日、午後8時〜9時に、13000の兵で亀山城を出発します。

当時の出陣は、よほど急を要する以外、夜や早朝の行動はしませんでした。

ですから、この時点で、明智光秀はすでに、信長を討つことを決意した、と思われます。

京都に向かう際にとったであろうルートは3つ考えられます。

  • 「老ノ坂越え」
  • 「唐櫃(からと)越え」
  • 「明智越え」

今、研究されている中で一番有力なのが、「老ノ坂越え」。山陰道を通るルートです。

13000もの兵が一気に通るには、休憩所なども取りにくいところから、3手に分かれて進軍したという説もあります。

一目につくから、いくつかに舞台を分けないと難しいと思います。

「唐櫃越え」、「明智越え」も結局は「老ノ坂越え」ルートに合流します。合流点は山崎街道入り口沓掛(くつかけ)から少し京都方面に寄ったあたりです。

 

明智光秀、本能寺の変の前の行動は?

明智光秀は、本能寺の変討ち入り前に、愛宕山(あたごやま)に登りました。

京都に向けて進軍してくとき、京都に入ったところにある霊山「愛宕山」です・

愛宕山の山頂には、「権現様」が祀られています。

愛宕権現は「勝軍地蔵菩薩」です。

お地蔵さんですが、得られるご利益は「勝ち戦」です。

さらに愛宕山奥の院には太郎坊天狗と呼ばれる、霊力が強いと言われる天狗が、祀られています。

明智光秀は、悪(織田信長)を打ち破って戦勝することを祈願したのでした。

そしてここでおみくじを引きました。

しかし・・・明智光秀はくじをなん度も引き直しました。

つまり、一度で望むような結果が出なかったということを意味します。

くじはなん度もひいていいものではありません。

早くも、暗雲見える出陣・・・です。

明智光秀の権現参拝とくじの話は「信長公記」に書かれています。

明智光秀、本能寺の変、成功!

6月2日、早朝、明智光秀は本能寺に突入。

本能寺の変の第1目的は、織田信長の命を取ること、これで一応の成功を収めました。

成功には理由がありました。

本能寺に入るまでに

明智光秀が成功を遂げることができたことはいくつか理由がありました。

  • 京都に入るまで、出陣の本当の目的を明かさなかったこと。
  • 亀山城を出てすぐのところで、明智軍の主な武将を集めて、初めて彼らだけに反乱の話を打ち明け、神にかけて決して裏切らない起請文(きしょうもん)を書かせたこと。
  • 進軍の途中もし、疑わしいものを見かけたすぐに斬ること。(実際斬り殺された人もいます)
  • 京都についてからは、兵たちに、街の物品を決して壊さないように。そしてばらばらになって本能寺に向かい、本能寺に着いて集結すること。京都の街中を13000もの軍勢がまとまって通ったら、注目されて信長に知られてしまうかもしれません。

本能寺に入ってから

本能寺の変は、すべて終わるまで4時間かかりました。

これは用意していた、武器の差にもよります。

明智軍は、軍備を整えてやってきました。

対する信長側は、150名ほど。彼らが手にできた武器は弓、槍せいぜい刀しかありませんでした。

それでもたかが寺ごときに4時間・・・と言いたいところですが、本能寺には石垣も備えられており、防御の機能も持ち合わせた寺でした。

信長たちに持久戦に持ち込まれないようにすることが大切でした。

4時間で終わらせられたのが良かった。

この展開は、江戸中期、江戸の街を騒がせた忠臣蔵の討ち入りにも少し似ています。

明智光秀、本能寺の変、後の行動

明智光秀は、織田信長を打ち取りました。

明智光秀の考えでは、織田信長の強引さに嫌気がさしてきた武将たちが着いてきてくれるはず、と。

しかし現実にはそうはいかなかったのです。

理由の一つとして、明智光秀が謀反を起こそうと思った時、自分の味方になってくれそうな、武将たちに、自分に賛同してくれ、と頼む手紙を送りませんでした。

情報が漏れるのを防ぐためです。

しかしその行動が、明智光秀にとって仇となりました。

信長暗殺、の話を急に聞いても誰も心構えができていません。

むしろ、皆、今後の動向を伺うような人ばかりでした。

そこに聞こえてくる、豊臣秀吉の、「大返し」。

秀吉の早すぎる帰還が、明智光秀のもう一つの誤算です。

日和見の大名たちはますます、情勢の有利な方に着こうと考えます。

ついに6月13日、山崎の合戦で明智光秀は、命運つきました。

なんと、本能寺の変を起こして11日目のことでした。

後世、「明智光秀の三日天下」と言われていますが、光秀は天下、権力を取っていませんね。

明智光秀、本能寺の変を起こした理由

これまで知られてきた説

明智光秀、本能寺の変蜂起の理由は、織田信長からのパワハラに明智光秀が我慢できなくなった。

徳川家康の接待係を受け持った時に、接待の仕方が気に入らないと言って、公衆の面前で明智光秀を殴り倒した、などと我慢に据えかねる事件がきっかけです。

だんだん権力に取り憑かれたれ、天皇すら蔑ろにしそうな勢いの織田信長に、日本を託すのが危険に思えるようになった。

この点が、打倒信長の気持ちにさせた、ということでした。

新説、長宗我部説

四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が関わってくる説です。

長宗我部氏は元々織田信長とは友好関係にありました。

信長は長宗我部氏に、四国での権力を認めていました。

しかし途中で信長が気分を変えて、「長宗我部には、土佐を一国と阿波国の半分だけを与えることとする」と言い出しました。

長宗我部は仕方なく、ガマンしていたのですが、突然、信長は、長宗我部氏から国を奪い取る戦争を決めました。

長宗我部の領土決定に関して、明智光秀がその使者となって働いていました。というかなだめる役目でした。

織田信長が長宗我部と戦争する意向を書いた手紙が最近見つかっています。

急に、長宗我部討伐に、織田信長の意見が変わるものですから、明智光秀は大いに困ります。

これでは長宗我部氏に対して申し訳がたたない、明智光秀は思っていました。

本能寺の変を起こしたのは、長宗我部事件も理由の一つとなりました。

というか、やはり、自分の潰された面目を晴らすため、という理由が一番だったと思います。

明智光秀 本能寺の変、の名言と歌

名言、「敵は本能寺にあり!」

明智光秀、といえば、誰でも思い出す名言は「敵は本能寺にあり!」でしょう。

このセリフは、亀山城を出て、京都に入り、桂川を超えたところで言った言葉といわれています。

そして、織田信長を打つ意思をはっきりと、軍勢に伝えたのでした。

しかし、一体、これを聞いたのは誰?

明智光秀の軍勢はほとんど戦死します。

特に明智光秀の近くにいた、武将たちは死んでいます。

じゃあこの言葉を聞いた人は?

どうも江戸時代講談で作られた話のようです。

「時は今、あめが下知る 皐月かな」

五・七・五 の形を取っているから、俳句?と思うかもしれませんが、連歌です。

当時流行していた、武人や貴族のたしなみとなる遊びでした。

「連歌の会」という会もよく催されました。

「時は今・・・」の歌は、本能寺の変の少し前に、明智光秀が開いた連歌の会「愛宕百韻」(あたごひゃくいん)で、光秀自ら読んだ歌です。

非常に意味深です。

「時は今」・・時とは土岐氏と時の両方の意味。土岐氏は明智が土岐の出身だからです。 今、は今こそ。

「雨が下しる」・・・「雨が降っている」と「天の下」つまり天下の意味を兼ねている。

「皐月かな」・・・連歌の会を持った5月のこと、と平安時代源頼政が平家に対し反乱を起こしたのも5月であるため、その5月を意識した。

歌の面だけの意味だと「今は5月で雨が降っているよ」だし、裏の意味を探ると「今こそ5月だ、天下を取るときだ」となります。

当時の人が、この真意の方に気が付かなかったことはないと思うのですが。

「愛宕百韻」の中だけの秘密だったのかもしれません。

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