織田信長が暗殺された「本能寺の変」(ほんのうじのへん)。
2023年放映中の大河ドラマ「どうする家康」では家康が、黒幕かもしれない・・・と匂わせていました。
私たちが知っている本能寺の変は、明智光秀が「敵は本能寺にあり!」といって本能寺に攻め入り織田信長を討ち取った、ということです。
しかし・・・もしかしたら明智光秀は操られただけかもしれない・・・という説が浮かんでいます。
果たして、真相は・・・・?
様々な人物の、黒幕の可能性、探ってみましょう。
本能寺の変 黒幕 官兵衛?
官兵衛とは黒田官兵衛、豊臣秀吉の軍師です。
官兵衛が黒幕なら、そこには豊臣秀吉も関係しているかもしれない。
本能寺の変が起こった時、官兵衛は秀吉と一緒に備中高松で毛利を攻めていました。
その時の秀吉の動きを追ってみましょう。
豊臣秀吉はどこに?
本能寺の変があった時、豊臣秀吉は毛利を攻めていました。
場所は備中高松(現在の岡山県)。
高松を納めていた毛利氏は、いまだ足利将軍を守る立場を取り、信長の敵対勢力なっていました。
ここで秀吉は攻めるのに時間がかかっていました。
そこで信長は、まず豊臣秀吉を送り、自分も合流するつもりでした。
信長は合流にむけて、まず、京都の本能寺に一泊します。
本能寺の変はその日に起こります。正確には翌朝早朝。
その知らせは、秀吉の元にも届きます。
官兵衛のささやき
その時秀吉は、大泣きして転げ回って悲しんだ、
しばらく泣き叫ぶと、立ち上がりシャキッとしてすぐ次の命令にかかった、これが定説です。
そこに秀吉の軍師、黒田官兵衛の囁きが・・・「時が訪れました」と。
その後の秀吉の働きは素早いものでした。
まず、知らせを運んできた使者をこっそりと殺します。
信長に、何かあったと敵方に知られないためです。
毛利氏と和睦し、高松城 城主、清水宗治(しみずむねはる)を切腹させて決着をつけました。
6月4日、備中高松を出発して、2日弱で姫路に到着しました。その距離およそ、110キロ。
京都の山崎まで行くと、200キロあります。
これは「中国の大返し」と呼ばれています。
秀吉のホント?
ここで不自然さがいつくか見えます。
- 「信長死す」の知らせをもらって、泣き喚いた秀吉。泣くだけ泣くとシャキッとたちあがり、すぐに命令を下したこと。そんなにすぐに態度を変えられるものなのでしょうか?
- 黒田官兵衛のささやきも意味ありげです。
- 手こずっていた、備中高松城と即座に和睦を結んだというのも、できすぎています。秀吉は、信長の知らせが来る直前まで、高松城を水攻めにしていました。水攻めは城を水浸しにすることですが、城に蓄えた兵糧も水に浸かって使いものになりませんから、一種の兵糧攻めとも言えます。もう城が落ちるのは時間の問題だったはずです。
- 中国大返し、これも待ち受けていたようなタイミングです。それに早すぎます。
こうして考えると、秀吉はあらかじめ、信長が殺されることを知っていたか、あるいは明智光秀をそそのかしたか?
不自然な行動に、その疑惑が湧いてきます。
実は官兵衛が・・・
以上の行動を見ると、秀吉が怪しく見えるのですが
一連の信長殺害の筋書きを官兵衛が書いていたとしたら・・・
光秀を操っていたのが、官兵衛だとしたら・・
それなら、一番早くに帰って、秀吉一行の手で、明智光秀を始末する必要があります。
ぐずぐずしている間に、明智光秀が真相を話し出したら、官兵衛たちの企みが知られてしまうかもしれないのです。
「大返し」は、官兵衛なら、あらかじめ京都と高松の距離を知った上で、緻密な計算をたてることも可能です。
本能寺の変 黒幕、天皇説
まずは、天皇や朝廷。
天皇と信長は、最初は良い関係を築いていました。
しかし、信長の足利義昭への扱いを見ると、利用するだけ利用してあとは用はないという、ゴミ扱いされるのを見て、天皇家もいずれそんな扱いを受けるかもしれないと心配し始めました。
やがて信長が天皇の即位にまで口を出してくると、許せなくなりました。
天皇家を馬鹿にされているような気がして、天皇としてのプライドが傷ついたのが原因みたいです。
信長がこれ以上力をつける前に、殺害してしまおうと。
そこで暗殺者(?)として思いついたのが、明智光秀。
明智光秀は、教養があり、公家たちからも受けが良かったので、味方に引きれるにはちょうどいいと思ったのでしょう。
そこで、信長暗殺の命令を与えたというのです。
本能寺の変 黒幕 足利義昭
そして足利義昭(あしかがよしあき)。
足利義昭は、自分が将軍としての実権を与えられず、室町幕府の権威もみとめらないことで、信長をひどく恨んでしました。
足利義昭と信長を最初に合わせたのが、明智光秀でした。
明智光秀はその後も、足利義昭の様子を気にかけていたようです。
そのため、明智光秀に、信長殺害を依頼した・・・と。
本能寺の変 黒幕 毛利輝元
毛利輝元は、織田信長が暗殺された時、ちょうど自分の家臣が秀吉と先頭状態でした。
しかも敗北の色が濃い・・・
そこに、やがて織田信長が加勢、にやって来るのですから、毛利輝元としては勘弁してほしいところです。
毛利輝元は、自分の家臣で、外交取引が巧みな僧、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を通して、明智光秀、に協力すると申し出ました。
交渉条件は、織田信長の暗殺、が考えられます。
当然、ここでは豊臣秀吉も、暗殺を知っている仲間であります。
ここでの談合があったから、秀吉は、即座に高松城問題を解決できたし、大返しも可能でした。
のちに豊臣秀吉は、毛利氏と安国寺恵瓊に目をかけているので、怪しさを感じるのです。
本能寺の変 黒幕 長宗我部元親
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は織田信長を恨んでしました。
四国地方は元は三好(みよし)氏が支配していました。
それが織田信長と敵対し、明智光秀を使者にして長宗我部氏と友好関係を結びました。
長宗我部氏が三好氏を破れば、長宗我部氏は四国を自由にして良いと。
ところが、織田信長はその約束を、反故にします。
それどころか、今度は三好氏と組んで、長宗我部氏に攻撃をかけてきます。
これは明智光秀に対する裏切りです。
信長が四国攻めの準備をしているときに、信長が都合よく暗殺されてしまいました。
長宗我部氏にとって、本能寺の変は奇跡と言えるのですが、もしこれが仕組まれたものだったら・・・
長宗我部氏と明智光秀が組んでいたかもしれない、説がここから浮かんできます。
しかしこちらも、決定的な証拠はありません。
本能寺の変 黒幕 利休
本能寺のような暗殺事件・・・こうした事件の真犯人、黒幕には被害者に怨恨がある場合がほとんどです。
利休もその一人に当たります。
織田信長と堺商人
利休は千利休、という名前で、商人出身でありながら、文化人でもあります。
織田信長とは親しい間柄でした。
しかし、織田信長は何もかも掌握したい人物でした。
千利休の出身地は堺市で商人をしていました、織田信長は堺の商人衆をも支配を望んでいました。
ところが堺の商人たちは、信長の街への関与を嫌がります。
信長のやり方が強引だったのと、残忍な人間性に我慢できなかったのです。
利休、暗殺のチャンスを伺う?
そして暗殺できればそのチャンスがほしい、と思ったと伝えられています。暗殺のチャンスが、信長の本能寺滞在でした。
その時、千利休は、有名な茶碗を持って、本能寺に赴き、そこで茶会をした、と記録にあります。
しかし、その後、暗殺にどう結びついて来るのかが不明です。
警備の不備な箇所を見つけた、外部から侵入しやすいように、細工した・・・など考えられますが、どれもそれを匂わせることは見つかりません。
明智光秀と千利休は、共通の連歌の師匠がいた、とのことです。
その連歌の師匠を通じて、暗殺を光秀にそそのかしたのか・・・という考えも聞かれます。
コメント