亀姫、というお姫様が、「どうする家康」で話題になりそうな家康の娘です。
性格が母親にそっくり、とか。
どう言う点で似ていたのでしょうか?
嫁ぎ先は、長篠の戦いで頑張った、奥平家です。
亀姫は後世、ある有名な「宇都宮釣天井事件」に巻き込まれます。巻き込まれるというよりも、亀姫本人が黒幕なんて説もあります。
亀姫って誰?
亀姫は、徳川家康の長女です。家康にとっては初めての女の子の誕生です。
1560年の生まれです。
「桶狭間の戦い」の年に生まれた姫なので、こののちしばらくは母(瀬名姫)たちと今川家の中で窮屈な生活を送ります。
成長すると家と家との結びつきと反映のために、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)と結婚します。
1573年、長篠の戦いで、徳川軍が勝利し、時の長篠城城主の奥平信昌をずっと味方につけるための手段として、城主と亀姫の結婚が決められました。
結婚後は夫の出世に貢献した妻です。
戦国時代では、武将の娘と生まれたからには、成長すれば他の戦国武将の元に嫁いで、家と家との結びつきを強め、さらには子供をたくさん産み、婚家の発展に尽くす、という役割がありました。
亀姫の性格は?
戦国女性には親や夫の言いなりになるイメージにありますが、亀姫はそういう姫ではありませんでした。
勝気な性格だったようです。それどころか嫉妬深い性格であったとも言われています。
夫、奥平信昌には側室を持たせなかったということです。実際信昌には側室がいません。
また亀姫は、自分の侍女を手打ちにした、つまり殺したというエピソードがあります。それも12人。岐阜県加納城には「12相神」といって、亀姫の手にかかったと言われる12人の侍女の菩提を弔う墓碑があります。
侍女を手にかけた、ということは、侍女が、亀姫の夫から気に入られたからです。
それで手打ちにしてしまう・・・とは亀姫は、気が強いというより、癇癪持ちの姫という感じがします。それにしても12人も・・とは多すぎます。
こういうところが母親、築山殿の性格に似ている?と言われるのでしょうか。
歴史で伝えられている、築山殿も夫の子供を妊娠した女性を手ひどく扱った、という話があります。
気の強さを見せた、エピソードがさらにあります。
下野古河にくにがえの1622年、亀姫たちは引っ越しをした時のこと。その城を本多家に明け渡すことになっていました。
当時の御法度(武家が守らなければならない法律)では、くにがえの時は、私物以外のものは置いくのが決まりでした。
私物以外のというと、障子、畳、庭木などです。亀姫たちはそれらも持ち出しました。国替となってあまりいい気持ちがしなかったのかもしれません。本多家に対する腹いせみたいです。
くにがえで代わりに入るのが本多正純(ほんだまさずみ)でしたが、本多の家臣が追いかけてきて、御法度破りだと言ってきました。
亀姫たちはその呼びかけにより、返還はしました。亀姫の怒り具合、何となく想像がつきそうです。
どちらも大人気ないような気がしますが、当時の御法度には従わなければならないからだったのでしょうね。
亀姫の父と母、そして兄
亀姫は徳川家康の長女です。生まれた頃の父の名は、まだ松平元信でした。
母は瀬名姫、今川家の出身です。
兄は信康。
亀姫が生まれた年は桶狭間の戦い(1560年)の年、駿府城で生まれました。
母や兄と共に今川家の人質にり、と人生のスタートは苦難で始まりました。しかし戦国時代での姫君の生活としては珍しいことでありません。
悲劇は母、築山殿と兄、信康の死です。どちらも父、家康の手によって処罰された死でした。
亀姫が19歳の時(1579年)です。亀姫はすでに奥平家に嫁いでいましたが、心を痛めたことだろうと思います。
ひょっとしたら、戦国武将に嫁いだ自分の身の上にも同じようなことが起こるかもしれない、と心配したかもしれません。
この事件が亀姫のこれからに大きく影響を与えたことは間違いないと思われるます。亀姫のきついと言われる性格も、ここにあるのかもしれません。
亀姫、「どうする家康」では
亀姫は大河ドラマ「どうする家康」でも活躍しそうな様子です。
大河ドラマではどのような亀姫が登場するのでしょうか?
「どうする家康」のHPにはこうあります。
家康と瀬名の間に生まれた長女。母に似て愛らしく天真爛漫で、家康からの溺愛はもちろんのこと、周囲から愛されて育つ
亀姫についての、性格などはこれまで知られていること、きつい性格、嫉妬深い、などとは少し違った視点と思えるのが、「どうする家康」での亀姫像です。
亀姫の母、瀬名姫もこれまでの人物像からはだいぶ違う見方がされています。瀬名姫の今後もどうなるか気になるところですが、となると、亀姫の方も、これまでのイメージと違うと点があってもおかしくありませんね。
亀姫は本当に性格の激しい人なのか?嫉妬深い人なのか?新たな見どころが生まれると嬉しいですね。
「どうする家康」の中では、相手の気持ちを重追いやるところもあり、他人に対して優しく接することのできる姫、として登場しています。
この後、奥平家に嫁に行って人が変わるのでしょうか?
ところで、嫉妬深い、ということは相手に対して愛情深さを示す感情だと思うのですが。しかし世の中の男性はそれを重たく感じるのでしょうか?
亀姫のおかげで夫は優遇され
亀姫の夫は、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)です。
1576年に、亀姫は奥平家に嫁に行きました。亀姫17歳、奥平信昌22歳。
奥平家は、今川家に属していた武将ですが、1560年「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)の後は徳川家康に従いました。
しかし1570年「姉川の戦い」で武田が徳川の領地三河に攻撃をかけ始めると、今度は武田側に味方する有様。
日和見主義の武将か?と思われますが、戦国時代は自分の家のためになることなら、そして生き延びるためならば、なんでもやってのけたということです。
誰の味方になるかで、家の存続が決まってくるのですから。
この頃、奥平信昌は、貞昌(さだまさ)という名前でした。
有力な武将だったのでしょう。家康は奥平を再び自分の味方にしたくなりました。
三河に入り込んできた武田勢を追い出したかった、という理由もあります。
実際、奥平信昌は、「関ヶ原の戦い」(1600年)後、美濃国加納(岐阜県岐阜市)を与えられ、給料にあたる石高も3万石から10万石に加増されました。
これも家康の娘と結婚したからの結果でした。
出世することで奥平家は亀姫を軽んじてはいけない、と思っていたのでしょうね。
亀姫と奥平信昌には4男1女が生まれたところから、二人の仲は良かったのではないでしょうか。
宇都宮釣天井事件と亀姫
宇都宮釣天井事件は、亀姫の執念深い性質を表す事件です。
宇都宮釣天井事件となる背景
1622年の事件。亀姫は亀姫は60歳を超えていました。孫の奥平忠昌(おくだいらただまさ)が当主になっていました。忠昌の父(亀姫の子)は亡くなっており、7歳で宇都宮城主になります。
しかし忠昌は12歳で他の藩に、領地を変えられました。理由は、奥平家と婚姻で縁続きとなっていた大久保家の失脚と関係しています。
そして亀姫の娘婿だった大久保忠常(おおくぼただつね)が死亡しました。その死は、大久保の政敵で、本多家の手によるのではないか、という噂がありました。
本多家も徳川の重臣で、大久保家とは政敵同士でした。
この噂には、はっきりした証拠はありません。
しかし、亀姫は、娘婿の死を本多の陰謀と思い、復讐を企てたということです。
徳川家康はすでに7回忌を迎えており、2代将軍の秀忠(ひでただ)が日光東照宮参詣をし、その帰りに宇都宮城に寄る計画が立っていました。
しかし宇都宮城には実際寄らなかったのです。
宇都宮釣天井事件はあったのか?
その理由は、本多正純(ほんだまさずみ)が宇都宮城の天井それも、風呂場に吊り天井を仕掛けて秀忠を暗殺しようとする計画がある、という密告があったからでした。
この陰謀事件を、宇都宮釣天井事件と言います。
正純のことを密告したのが亀姫、と言われています。亀姫は孫が本多の陰謀で城を追われたと信じていましたので、その復讐を試みたのでしょう。2代将軍、徳川秀忠に話したのです。
実はそれだけではなく、本多正純も、幕府、いわゆる政治を自分の意のままに動かそうとしており、それを秀忠は好ましく思っていませんでした。
亀姫からの密告があった時、これ幸いと本多氏を政治の表舞台から追放した、というところもあります。
実際には、釣天井が仕掛けられた形跡はありませんでした。本当の噂だけであったのです。ではどうして、要職につく者が流刑にされ、家も潰されるまでになったかというと、亀姫こそが事件の黒幕だったから・・・という話です。
亀姫が、本多家を憎んでいたこと。孫が本多正純により城を追われたこと、与えられた知行(給料のような物)が本多家より少なかった、など、面白くないことが多かったのでしょう。
2大将軍秀忠も、他の人物のいうことより、姉の言い分を信じ、自身の利害を優先させたということなのでしょう。
亀姫の死因と墓
亀姫は、夫と子供に先立たれ、出家します。出家名は盛徳院。
1625年、加納(岐阜県岐阜市)で66歳でその生涯を終えました。特に死因が取り沙汰されていないので、普通に老衰で死んだものと思われます。
戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。
墓は、光国寺(岐阜県岐阜市)、法蔵寺(愛知県岡崎市)、大善寺(愛知県新城市)にあります。と、3つもあるのですが、どれも墓石が建てられ、「墓があるとされる」とあります。どれが本当の墓なのか、あるいは分骨されたか?それとも魂だけか?と考えてしまいます。
大善寺は亀姫が開基と言われています。
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