今回はフランス国王の愛妾、ディアーヌ・ド・ポワチエを取り上げて見ましょう。
テレビドラマ「メアリー 愛と欲望の王宮」に登場します。フランス国王アンリ2世の愛妾です。
ディアーヌ・ド・ポワチエは30代で、19歳年下のアンリ王子に見初められます。それ以来、アンリ王子がアンリ2世として国王位に就いてずっと愛妾でい続けました。
1499年〜1566年、67歳の生涯です。
67歳で亡くなるまでその美貌は衰えなかった、と言われています。
なお、アンリ2世にはカトリーヌ・ド・メディチというイタリア、メディチ家の娘を妃に迎えます。ディアーヌとカトリーヌはどんな熾烈な争いを繰り広げることか?
ディアーヌ・ド・ポワティエは、ロワール河にあるシュノンソー城の主人となります。今やフランス観光では外せない城です。
ディアーヌ・ド・ポワチエ、フランス王の愛妾
ディアーヌ・ド・ポワチエは最初は、フランソワ1世(アンリ2世の父)の王妃の侍女として宮廷に上がりました。ですからフランソワ1世の王子達とも馴染みにでした。
ハプスブルク家との争いで、フランソワ1世が囚われたとき、国王の二人の息子が王の代わりに捕虜となりました。
アンリは弟でしたが、そのとき7歳で寂しさの中で思い出したのがディアーヌだった、と言われています。アンリは帰国すると、ディアーヌ・ド・ポワチエは王よりの命令で家庭教師アンリ王子のを命ぜられました。
アンリ2世の兄フランソワ王太子は亡くなり、アンリが世継ぎとなります。それ以来、アンリはずっとディアーヌ・ド・ポワチエに憧れ続けていました。
それはアンリ2世が、カトリーヌ・ド・メディチと結婚しても変わりませんでした。
アンリ2世が王位を1547年に就くより前、1538年頃にディアーヌ・ド・ポワチエはアンリの愛妾になったとされます。
ディアーヌ・ド・ポワチエとアンリ2世の間に子供は生まれませんでした。ドラマ「メアリー 愛と欲望の王宮」内では息子が一人います。ファンには人気があり、ドラマに彩りを添えていますが、これはドラマ内でのフィクションです。
ディアーヌが宮廷に仕える前に結婚していたときの娘がいまして、母と一緒に宮廷に入り、侍女として使えていました。
アンリ2世は国王就任後も、ディアーヌ・ド・ポワチエを寵愛し続けます。
フランス王家というところは、王は愛妾を公式に一人持つことが認められているのです。公式に愛人?なんて変な話ですよね。
公式の愛人というのは、宮廷をうまく回す役割の人、という意味合いもあります。つまり、正式のパーティーで席順、料理のメニューを決めたり外交官などの公賓に失礼のないよう、もてなすことが主な仕事です。
では王妃は何をすればいいのか?王妃は家柄がよく、立派な後継を産むことができればそれでオーケーでした。
外交的に華やかにしていなければならいのが愛妾ですから、当然衣装、宝飾にもお金がかかります。その代わり、何か不満、反乱が起こると真っ先に槍玉にあげられるのが愛妾でした。ですから愛妾になるのも命がけですね。
ただ一人、愛妾がいない王のもとで、王妃でありながら愛妾並みの生活をした王妃がいました。結局自分が国民すべての憎しみを買って・・・・そうその王妃がこれより何百年もあとに出てくる王妃マリー・アントワネットでした。
ディアーヌ・ド・ポワチエ 肖像画と美しさの秘訣
ディアーヌ・ド・ポワチエの肖像画はたくさん残っています。
目鼻立ちスッキリ、切れ長の目、卵型の顔、滑らかな肌と見事な美女ぶりです。
知られている画家は、クールエ。クールエの工房と書かれており、確認できる画家の名前がフランソワ・クールエとジャン・クールエの名前が見られます。フランソワ・クールエはジャン・クールエの息子です。
もう一つ、フォンティーヌブロー派と呼ばれる画家のグループもいます。フォンティーヌブロー宮殿を舞台にして活躍した画家たちの集団です。ですが、こちらの画家の名前はあまり知られていません。
フォンティーヌブロー派が描いたディアーヌ・ド・ポワチエの絵で有名なのは、「狩の女神ディアナ」です。狩の女神ディアナとディアーヌ・ド・ポワチエのディアーヌの名前を両方をかけて、描いた絵画です。
狩の女神ディアナも美しいと言われた神話の女神なので、それを実際の人間に置き換えて描いてしまうのだから、本当に美しい人だったのでしょうね。
肖像画には裸体画がなぜか多いです。それも王妃ではなく愛妾だったからこそできたハナシだったのでしょうが、ディアーヌ・ド・ポワチエさん、身体の美しさにも自信がありと見ます。
ディアーヌ・ド・ポワチエは30歳超えていたのに19歳年下の王子を魅了し他のですから、その心身ともにある若々しさは並大抵ではありませんでした。
そこで現代までも伝えられる伝説の美容法!
- 就寝する場合は上半身を起こして→むくみ解消かな?
- 早起きして冷水浴、冬でも実行したそうです。→今でも早寝早起きは身体にいいです。そして冷水浴も身体が引き締まって良いそうです。ただし真冬はどうかな・・・?
- 早朝の運動は乗馬を約3時間。→今でいうと朝のジョギング?
- ベッドで昼頃まで読書。→読書は教養のために大変よろしい。でも昼間でベッドというのはどんなもんでしょうか?早起きして、冷水浴して、乗馬してそしてまたベッドに戻るの?
- 野菜と果物中心の食事をとる、肉はほとんど食べない。→ベジタリアンですね。今でもアンチエイジングで採用されています。でもそれならたんぱく質をどうやって摂取したのでしょうか?当時たんぱく質の代用となるサプリなんかなかったですしね。
- 午後から行われる正式な社交では食事を軽めに抑える。→確かにパーティーの食事は重くカロリー高め。
- 牛乳を使って入浴。→確かに今でもいいと言われています。
- 早寝に努める。→これは大事、早寝早起きはとにかく美容、健康全てに渡って良いです。
- 肌を紫外線から守るため、外では黒いビロードのマスクをする。→これこそ大切。今では屋外では日傘をさします。特に最近の日傘はUVカットの生地が使われています。黒ビロードがちょうどそれに当たります。
- 金の媚薬を飲用
というように10か条の美容の心得を実践していました。これを毎日続けるその根性がすごい!私などは、ダイエットに励もうとしてもだいたい三日坊主で終わってしまいますから・・・・私としては続けられる秘訣を授かりたいものです。
ほとんどの項目が現代の私たちにも有益な美容法です。15世紀は現代のデパコスのような高級美容液、化粧品はありませんしね。
こうした10か条の美容項目実践のおかげで、ディアーヌ・ド・ポワチエはずっと若々しさを心身ともに保っていました。
67歳で亡くなったのですが、その時には遺体には皺ひとつ見られなかったという伝説があるほどです。
60歳になっても年下のアンリ2世を魅了できるってすごいですね。恋人が年下だったからそれが精神上の美容液になっていたのかもしれません。
まさに女磨きに励んた美魔女?
こんな美を重んじる女性の風潮が長年にわたりフランスに浸透して行ったのでしょうか?だからフランスの化粧品は今では抜群の人気を誇るのかしら。
しかし、最後の項目「金の媚薬」ですが・・・これは怪しげなものと言えます。
「金の媚薬」は今でいうと美容用ドリンクに相当しますが、その実態は・・・・
別名「金のエリクサー」と呼ばれる媚薬と呼ばれているものでした。ジエチルエーテルに塩化金を溶かしたものです。ジエチルエーテルはエーテルと呼ばれることもあり、麻酔などに使われますが発火の可能性もあります。人体に摂取し続けると、食欲不振、疲労、頭痛などの障害を引き起こしす。身体に良くない物体です。
そのエチル系溶液に金の成分を溶かし込んで摂取していたわけですので、後世発見された遺体からは、金中毒の症状がわかりそれが死因と言われています。
金を摂取すると肌色が白くなる症状が出るので、その症状を美白の印と思っていたのでしょう。
また、金中毒になると骨は脆くなり、髪が抜けるようになります。ディアーヌ・ド・ポワチエ の髪色が薄く髪質も繊細と言われていたのは、中毒の一症状です。被害を美しさと間違えているのではないかと。とにかく美しさの代償はとてつもなく残酷です。
美しい、と言われ続けてきたディアーヌ・ド・ポワチエですが、萩尾望都が書いた漫画「王妃マルゴ」(王妃カトリーヌの娘のことです)の中で、アンリ2世の死後、嘆き悲しむディアーヌ・ド・ポワチエを見たカトリーヌ王妃が「髪も白くなり、肌もカサカサになって・・・」と言っていました。
死ぬまで美しかった・・・というのは案外伝説で、またはそうあって欲しいという後世の人の希望だったのかもしれません。
王妃カトリーヌ・ド・メディチとの関係
王妃は家柄がよく、後継者を産めればそれでよし・・・というのが王妃に対する認識だったのですが、カトリーヌ・ド・メディチは家柄は良い、とは言えませんでした。
何しろ出身のメディチ家は商人の家柄。貴族では全くありません。ただし一族に教皇になった人物がいたこと、戦続きで国庫が危ういフランスにお金が必要だったこと。つまり多額の持参金と教皇権威が付いた裕福な商人の娘が王妃として選ばれました。
さらに、カトリーヌ・ド・メディチは当時では美しいと言えない女性だったのです。
金だけの女、として宮廷では随分蔑まれていました。そしてなかなか子供も産まない。いよいよカトリーヌに風当たりが強くなって行きます。
しかも輿入れの時はわずか15歳、すでに大人の魅力を思う存分振りまいているディアーヌ・ド・ポワチエに到底敵うべくありません。
王は完全にディアーヌ・ド・ポワチエに首ったけで王妃カトリーヌに全く目もくれない。そんなわけですから後継者が生まれるどころの話ではありません。
ですがここでディアーヌ・ド・ポワチエ、王妃の助力に動きます。王とカトリーヌの仲を何んとかとりもち、王と王妃が一緒に過ごせる時間を作ったのです。
その結果か王妃カトリーヌは続けざまに出産することができ合計10人の子供を持つことができました。
ディアーヌ・ド・ポワチエ の協力・・・なのですが単に恋敵に哀れみを覚えた、なんて単純なことではありません。
もしここでカトリーヌ・ド・メディチに子供ができなかった場合、子供ができな位ことを理由に離婚が認められます。
そうすると、アンリ2世は再婚となります。再婚した場合、今度は若くて美しい王妃がくる可能性があります。
美しい王妃が登場した場合、王はもしかしたら新しい王妃に夢中になり、愛妾であるディアーヌ・ド・ポワチエから離れていくかもしれません。
そしたら公的愛妾の地位にいられなくなる可能性も出てきます。ディアーヌ・ド・ポワチエ失脚・・・なんて。愛妾なんて王の心一つでどうにでもなるものですから。
それはディアーヌ・ド・ポワチエにとってなんとしても避けたい事態です。そこでカトリーヌ・ド・メディチに、子供を産んでもらって留まってもらった方が自分の地位安泰です。計算高い女性に見えますね。
子供が産まれたらまた苦労が耐えないカトリーヌ・ド・メディチでした。アンリ2世は喜びはしたものの、子供たちの養育を全てディアーヌ・ド・ポワチエの手に委ねてしまいました。
それだけではありません。アンリ2世とディアーヌ・ド・ポワチエは仲の良さを多くの場で見せつけていました。
例えばアンリ2世はディアーヌ・ド・ポワチエと同じ色の衣服を公式の場で身につけ、政治上の重要な書類に王と愛妾の名前で署名をする、などでした。
海外からの客人なら、王妃がいながら王妃ではない者の名前での署名を見ると、???状態にならなかったでしょうかね?私生活はともかく外交上の事項で正式の王妃出ない者の署名って果たして信憑性があるのでしょうか?
王妃であるのに、カトリーヌ・ド・メディチはたまりませんね。臍を噬むってこういうことですね、きっと。
それにしても愛人同士ってどうして、本妻さんを傷つけるようなことをやってのけるのでしょうか?その結果がどうなるか予測しないのでしょうか?バカなの?とツッコミを入れたくなります。
それでもカトリーヌ王妃はディアーヌ・ド・ポワチエを憎んでいたわけではなさそうなのです。ある側近に「あの人(ディアーヌのこと)憎みきれない。なぜかわからないけれど、ひょっとしたら好きなのかもしれない」と漏らしていました。
ここでわかることは、もしかしたらディアーヌ・ド・ポワチエって性格の良い女性だったのかもしれないということでう。
憎んでいる?好き?複雑な心境です。
シュノンソー城の争奪戦
シュノンソー城、世界の名城の一つに数えられます。フランスのロワール渓谷内シェール川に橋ののように立っている優美なお城です。
アンリ2世の父フランソワ1世に献上された城で、フランス王家が管理していました。
その城を受け継いだアンリ2世は愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエに贈りました。時は王妃のカトリーヌ・ド・メディチもシュノンソーを気に入っていたにも関わらずです。
カトリーヌ王妃はますます、ディアーヌを憎みたくなりますね。
ディアーヌ・ド・ポワチエはシュノンソー城を手に入れて、この城を自分好みに手を入れました。それには莫大な費用がかかったと思いますが、多分国庫から出たのでは?
シュノンソーが今日私たちが見ている形は、ディアーヌ・ド・ポワチエの改造の賜物です。川にまたがる形になったののもディアーヌの時代です。
しかし、1559年アンリ世が馬上試合での不慮の事故で亡くなる、ディアーヌ・ド・ポワチエ はあっという間にその権力を失うことになってしまいます。
王妃カトリーヌ・ド・メディチはここぞとばかりに仕返しに転じます。
重傷で床につくアンリ2世には絶対に合わせませんでした。ディアーヌ・ド・ポワチエからもアンリ2世からも懇願されても頑として断り続けました。
アンリ2世が息をひきとるとすぐに、ディアーヌ・ド・ポワチエを宮廷から追放しました。そして王からのプレゼントだった宝石類も全て返還させました。これらも多分国庫から出されていたお金で買った物です。
またシュノンソー城もディアーヌ・ド・ポワチエ から取り上げました。
その後ディアーヌ・ド・ポワチエは自分の最初の夫の土地であったアネ城で過ごしました。穏やかな余生だったと言います。
一方カトリーヌ・ド・メディチはシュノンソー城からディアーヌが集めた調度品を一掃して自分の好みの内装にしました。
自分の美貌磨きに命をかけたと言っていい女性、ディアーヌ・ド・ポワチエ。美にかけた執念には現代の私たちは脱帽させられます。
現代には、化粧品が数多くあり、美を追求しようと思えばいくらでもできるかもしれませんが、私はそれにそんなにお金や時間をかけようとあえては思いませんが。
それより来るべき老化を楽しもうと、老化の中に一つの美を見出していこう、とそう思うのですが、いかがですか?
ディアーヌ・ド・ポワチエはこうして見ると美貌だけの人ではなかったのかもしれません。王妃カトリーヌのように「好きだったかも?」という人がいるように、他の人を幸せにしようと思う心意気があった人物のような気がしてきました。
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