ルドルフ皇太子・・・・
ミュージカル「エリザベート」に登場するエリザベートの息子です。ミュージカルでは死であるトートからも目をつけられていますね。そして不幸な死を遂げます。
自殺か他殺か・・・・?今でも残る謎です。残る遺書で謎は解明するのでしょうか?
ルドルフ皇太子死亡場所はマイヤーリンク。マイヤーリンクとはどのような場所だったのか?
お墓は存在しているのでしょうか?観光客も訪れることができるものか知りたいです。
ルドルフ皇太子の死後、ステファニーという女性が残されましたが、彼女の存在とは?
ミュージカル「エリザベート」2022年10月〜11月にわたって再演されています。今度はルドルフ皇太子にもご注目ください。
ルドルフ皇太子の事件とは?
どこの皇太子かというと、オーストリアの皇太子でした。父親はフランツ・ヨーゼフ1世。生年1858年。
厳格に育てられたのですが、本人の持つ性格には合わない教育方だったらしく、父と折り合いが悪かったと言われています。
妻もいましたが、政略結婚だったため家庭的ではありませんでした、代わりにお気に入りの女性もいました。娼婦などとの付き合いもあるようでした。
事件は、1889年1月30日、午前6時20分、ウィーンの森にあるハプスブルク家所有の狩猟館で。銃声が2発響きました。
館の執事が、斧で戸を叩き割り入りました。中から鍵がかかっていたのです。
そして、ルドルフ皇太子とマリー・ヴェッツェラという女性の血まみれの死体をベッドに発見したのでした。傍には拳銃が・・・
実はその前日、遅くというか同日の午前3時すぎに二人は到着しています。その前にいたところを出る時に、家の者に口止めをした、というのだそうです。
人知れずこっそりと到着して、突然の死・・・これを何と言ったらいいでしょうか?
強盗?陰謀?反体勢力?による殺人事件?
あるいは・・・・謎は深まります。
ルドルフ皇太子と遺書
ルドルフ皇太子が遺書を書いた・・・と思いましたが実は違います。
ルドルフ皇太子の相手、と言っていいでしょうか?事件の渦中の女性、マリー・ヴェッツェラの手紙です。
内容は、自分のしたことを許して欲しい。自分は殿下殿下を「どうしようもなく愛してしまいました。自分を墓地で殿下と並べて葬ってください・・・死の方が生きるより楽な時もあるのです・・・ということが書かれていました。
マリー・ヴェッツェラは手紙を、自分の母親と兄弟に当てて合計3通書いています。
2015年に「見つかった!」と公式発表があったからです。1926年にウィーンの銀行に預けられた書類から発見されました。
しかし誰がこれを預けたのかは明らかにされていません。
これ遺書に見えませんか?
その内容から・・・ルドルフ皇太子と遺書の作者マリー・ヴェッツェラは許されない恋をして心中まで追い詰められた、そういうことになります。
当時のルドルフ皇太子は30歳、対するマリー・ヴェッツェラは17歳という歳の差カップル。と言っても世間に認められるものではありませんでした。
マリー・ヴェッツェラは男爵令嬢でした。その父親は外交官。その身分なら、結婚相手候補者はたくさんいると思うのですが、なぜわざわざ若い身の上で倍近い年のルドルフ皇太子とわざわざ付き合うのか、そのあたりよくわかりません。
当時は異国的な小柄な美女と言われていました。そして写真から見ると意志の強さを感じさせる風貌です。
マリー・ヴェッツェラを題材にした映画はありますが、いずれもダニエル・ダリュー、カトリーヌ・ドヌーブなど楚々とした美人女優が演じています。
マリー・ヴェッツェラ本人は西洋美人的なタイプの容貌ではありませんでしたが、むしろ東欧的な美女でしたが、一途な想いを捧げるところは同じ雰囲気だったのかもしれません。
それだけ真剣な愛、だったとのでしょう。そのように遺書にありました。
遺書が書かれていた用箋は、ハプスブルグ家の山荘に備え付けのものでした。狩に使われる山荘だったので、鹿の首の剥製をデザイン化した模様、そして山荘の名前のロゴ入りです、
この遺書、今ではオーストリア国立図書館で保管されています。もしかしたらどこかで公開することがあるかもしれません。
この書簡は調査されていません。調査された時どんな事実が出てくるでしょうか?
果たして本物か?そんな疑問も湧いてきます。
ルドルフ皇太子の死因
銃声、血まみれ、死・・・ここから連想するに死因とは撃たれて死んだ、そういうことになります。
しかし当初は「心臓発作」と発表されました。確かに皇太子として銃殺というより心臓発作といった方が死因としての世間体がいいかも。だたし、どう見ても心臓発作には見えませんが。
昔も今も噂というものは、一気にそれも尾ひれがついて広まるもの。しかもルドルフ皇太子は、国王とは合わない、妃とはそりが合わない、妃以外の女性と付き合っている、と評判でした。
ですから、離れた狩猟小屋で銃声がして、女性がいて、といったことはすぐさま知られ「情死」と言われ、ニュースはヨーロッパ中を駆け巡りました。
しかし、本当に「情死」心中だったのでしょうか?その謎は戦後に出て来きます。
オーストリア最後の皇后、ツィタ皇后。日本の昭和天皇と同じ1989年に亡くなったオーストリアの最後の皇后です。
ツィタ皇后は1983年にウィーンの新聞社に、ルドルフ皇太子の死についてあることを語りました。
それはルドルフ皇太子は自殺ではなく、暗殺だ、ということでした。
証言には、ルドルフ皇太子の事件後、狩猟館で事故の片付けをしたのですが、館の中は家具がひっくり返されて荒らされ、人が争った形跡が見られました。壁にも弾痕や血痕が多数見られ、しかも銃声も2発どころではなかった、ということだったのです。
ルドルフ皇太子の遺体を見た人たちの証言からは、ルドルフ皇太子の右手には黒い手袋がはめられており、それは右手首が切断されていたことを表していた、と。本来なら王家の人間は、埋葬される場合は正装と決まっており、正装だと白手袋が通常なのに変だと思った、などの証言もありました。
また、ティタ皇后の夫カール1世は、フランツ・ヨーゼフ1世から暗殺の証拠をあげるように指令があったともされています。
ルドルフ皇太子の葬儀に関しても、最初はローマ教皇から許可がおりなかったのですが、教皇に何度も報告し説明すると、即座に許可が出た、という話もあります。
これが意味するところは、情死だった場合これは自殺にあたるので、キリスト教ではお葬式をあげることができません。それをあげる許可が出たということは・・・自殺でない可能性が出てきます。
しかし穿った見方をすると、ローマ教皇に手段を尽くして頼み込んだなんて考えも出てきます。ひどい場合だともしかしたら賄賂を渡したのかも・・・と不謹慎な考えが湧き上がってきます。
もしも暗殺だった場合は、マリー・ヴェッツェラは巻き込まれてしまった気の毒な女性になってしまいます。
マリー・ヴェッツェラの遺書、と言われる書簡は一体何だったのでしょうか?「お許しください・・・〜生きるより死の方が楽な時もあるのです」と、死を匂わせる文章でした。
それに加えて、ルドルフ皇太子の、態度、父親との確執などから自殺の可能性もまだまだ残されています。
しかし遺書の信憑性もまだ証明されていません。あるいは自殺でカムフラージュした暗殺・・?
事件の真相を追究する前に第1次世界大戦、そしてやがて第2位次世界大戦が勃発の激動の時代、真相は置き去りにされてしまいました。
いまだに何が真実か判明していません。
ルドルフ皇太子、マイヤーリンクで人生最後の滞在
真相は闇の中ですが、ルドルフ皇太子とマリー・ヴェッツェラは人生最後の夜をマイヤーリンクで過ごしました。
マイヤーリングはウィーンの森にあります。ウィーンの森は1350平米に渡る広大な森で、野生植物や野鳥の宝庫です。
マイヤーリンクは、かつてはその近くにあるハイリゲンクロイツ修道院の持ち物でした。それをルドルフ皇太子が気に入り、狩猟館として貰い受け使っていました。
ルドルフ皇太子は狩猟がお好きだったのか・・・・それとも、このような秘密の情事(?)にでも使うつもりだったのでしょうか?
皇太子は父王フランツ・ヨーゼフ1世と衝突することが多かったと�います。双方の性格が相容れないものだったのでしょうか?でも父と息子が合わない、そういう事態は今でも世の中にはおおいいことでね。
それに宮廷の堅苦しさも嫌いだった、ルドルフ皇太子にとって狩猟館は狩をしなくても必要な息抜き場所だったのかも知れません。
マリー・ヴェッツェラの遺書と思われる書簡にはこの狩猟館に備え付けの用箋を使っていました。狩猟館らしく、狩った鹿の頭を装飾にした図柄が書かれていました。この時代は鹿が狩れたのかもしれませんね。
ルドルフ皇太子は心を許せる相手としてマリー・ヴェッツェラを選んで連れて行ったのでしょう。
この狩猟館で、ルドルフ皇太子とマリー・ヴェッツェラは人生最後の夜、どんな気持ちで過ごしたのでしょうか?
夜遅くに着いて、早朝には死亡(あるいは自殺?)に至ったので、狩猟館の滞在をゆったりと楽しんだ、というわけではないですね、きっと。
ルドルフ皇太子の悲惨な事件後、フランツ・ヨーゼフ1世は狩猟館を礼拝堂にしました。
現代では観光客が多く訪れますが、それでも静寂さが漂う場所です。
そしてすぐ隣には展示館や茶館があり、ルドルフやマリーの肖像画、軍服などが展示されています。
展示されているマリー・ヴェッツェラの肖像、遺髪らしきものを見ながら、わずか17歳だったマリーが最後の晩どのような心情だったのだろうか、と思いに耽るのは辛いかもしれません。
今でこそ展示館があり明るい雰囲気に仕上がって、昔の悲惨な様子は想像もつきませんが、それでも礼拝堂に足を踏み入れると、自然と祈りの気持ちが溢れ出てきます。
ウィーンの森といえば、もう一つの有名な箇所はハイリゲンシュタットです。どちらにも「ハイリゲン・・・」とつきますが、森の端と端と非常に離れています。
ハイリゲンシュタットは有名音楽家ベートーヴェンが遺書を書いたところで知られています。でもベートーヴェンは死にませんでしたけれどね。間違える観光客は多いと聞きます。くれぐれもお間違いのないよう。
ルドルフ皇太子たちのお墓はどこに?
マリー・ヴェッツェラは遺書と思われる書簡に、「皇太子と自分を一緒に葬ってほしい・・・」とありましたが、その願いは叶えられませんでした。
ルドルフ皇太子はオーストリア王家の墓所である、ウィーン市内のカプチーナ教会の地下墓所に棺に入れられ納められています。
王族の習慣として、心臓は取り出されて銀の壺に入れてアウグスティン教会に、内臓は銅の壺に入れられて、シュテファン寺院のカタコンベにそれぞれ安置されることとなっています。なんだかバラバラ状態ですね。
父親のフランツ・ヨーゼフ1世の棺を挟んで傍に母后エリザベート、その反対側にルドルフ皇太子の棺が並んでいます。
この墓所は1633年以来、オーストリア皇族が140名以上葬られています。そして今でも皇族の墓として使われており、ツィタ皇后、2011年に亡くなったハプスブルグ家の末裔の政治家オットー・ハプスブルグも葬られています。
これらの教会はどれも入場料を払えば、訪れることができます。
一方、マリー・ヴェッツェラは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がマリーに対して怒り心頭に発した状態でした。ルドルフが死んだのは彼女のせいだ・・・・そう怒っていました。
後継者である大事な息子を失った父親と考えると、当然の心情です。
そして怒りのあまり、マリー・ヴェッツェラの遺体はルドルフ皇太子の亡骸を運び出した後もしばらくそのまま放っておかれました。他の人たちも皇帝の怒りを恐れてあえて触れる人はいませんでした。
それでも埋葬は必要不可欠です。マリー・ヴェッツェラの遺骸はまるで生きている時のように座っている形座らせれて、倒れないよう棒で固定して馬車に乗せ、狩猟館近くのハイリゲンクロイツ修道院のに運ばれ、棺に納めて修道院墓地に埋葬しました。
マリー・ヴェッツェラの場合は自殺、という扱いではありましたが、精神に異常をきたしての自殺ということで、埋葬の許可を取り付けることができました。
その時皇帝は、マリー・ヴェッツェラの墓を訪れてはいけない、というおふれ書きを出したらしいです。よほどこの女性を憎んでのことでしょう。
ですが、第2次対戦後、ナチスの解放と言ってやってきたソ連の兵士が墓を掘り返し棺桶を開けました。ひょっとしたら財宝でも・・・という狙いだったようです。
その後、一度遺骸は鑑定されました。しかし当時の鑑定では、銃で撃たれた痕跡が見られなかったそうです。と言ってもこの遺骨自体がマリー・ヴェッツェラのものであったかどうかは、証明できません。
その後再び1991年に鑑定がされましたが、それも特定された、とかその許可はおりなかったとか、よくわからないまま今日に至ります。
やはり確定的な証拠は出ていません。
今では新しい棺に入れ直され、墓は最初と同じハイリゲンクロイツ墓地に眠っているということです。
暴かれた後の空の棺は、マイヤーリンク礼拝堂に展示されています。たぶん見ると戦慄を覚えるほどだと思います。
とても悲しい生涯を送り、死してもなお安息を得られず・・・今やっと安らかになった・・・・ウィーンを訪れたら、是非マリー・ヴェッツェラの墓所にも冥福を祈りにいきたいものです。
ルドルフ皇太子、エリザベートの息子
ルドルフはフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベート皇后の息子で皇太子です。二人の間に男子はルドルフしかいませんでした。
皇帝は皇太子を厳格に教育しました。幼い頃に母から離し、皇太后ゾフィーの元で将来の皇帝としての教育を施しました。
かなりのスパルタ教育だったようですよ。
フランツ・ヨーゼフ1世の性格は実直でしたが、母親のエリザベートは自由で何ものにもとらわれない創造性の豊かな性質でした。
ルドルフは母親似の子供でした。父親が課する質実剛健な教育方法には合わなかったようでのです。
それに気がついたエリザベートがルドルフを自分の元に取り戻したのはいいのですが、教育方針が変わったルドルフにとっては、むしろ混乱を味わうことになってしまったのです。
その後自由主義的な教師につくようになって、ルドルフ皇太子はだんだんと自由主義者的思想の持ち主になってきました。
成人してくると、自由主義的な考えて父親、フランツ・ヨーゼフ1世と対立するようになりました。
父親の薦めることに反発する、父フランツ・ヨーゼフ1世の統治法を時代遅れとして非難さえするのですから。
父親から離れようとすることで、家族との絆は希薄になっていきます。
また理解者であり得たはずの母親エリザベートも自由を追求するあまり、旅に出ることが多くなっていました。そのためルドルフとはやはり接触する機会は多くなく、ルドルフ皇太子は孤独でいるしかなかったと思われるのです。
ルドルフ皇太子の妃ステファニー、そして娘は
ルドルフ皇太子や王家の役目に従って、ステファニーというベルギーの王女と結婚しました。
ですがルドルフ皇太子はこの結婚を嫌がっていました。離婚したい、とまで思ったのですが、これがかりはローマ教皇からの許可が出ませんでした。
ルドルフの母エリザベートもルドルフの妹マリー・ヴァレリーもステファニーを嫌っていました。
挙げ句の果てに身分の低い女性と死んで、しかも「情死」と言われる始末。
踏んだり蹴ったりのステファニー妃でした。妃もまた不幸な人でしたね。妃という身分上隠れるわけにもいかないのですから。結局ステファニーはウィーン宮廷からは離れましたけれどね。
ルドルフ皇太子とステファニー妃の間にはエリザベートという名前の女子一人しか授かりませんでした。
もちろん皇太子が早くに死んだのが理由ですが、それ以外にルドルフ皇太子は性病に罹ったのも一つの原因でした。さらにステファニーも移されてしまったのでステファニーは再婚したのですが、子供を授かることはありませんでした。
ですが、ステファニー妃はハンガリー貴族と身分違いの結婚をしましたが、その余生は幸福だったと言います。これは良かったですね。
娘エリザベートはその名も同じ、ということで、フランツ・ヨーゼフ1世に溺愛され皇帝の元で成長しました。
父親ルドルフ皇太子が亡くなった時は5歳でした。
祖父の元で育ちましたが、祖母エリザベートに似た自我の強さがありました。しかしエリザベートというよりむしろご先祖のマリー・アントワネットの方に似ていると言っていいのかもしれません。思うがまま自分の好みを通してしまう。
そのにっこりと笑った笑顔に逆らえる人がいないほどの愛らしさを持ち合わせていました。
それで自分が好きになった人とも結婚でき、子供もできたものの、性格の不一致に気が付き離婚しました。
またその後に好きになった人は社会民主党の指導者でした。この世に政府相容れない人物を好きになる・・・そんな嗜好は父親譲りなのかもしれません。
社会民主党の指導者を好きになって、自分も社会民主党に入党してしまっとところから、「赤い皇女」ち呼ばれるに至りました。
後継者が徐々にいなくなり、直径の孫のエリザベートまでもが社会主義に系統していく・・・こうしてハプスブルグ家は段々とその勢力を失い、現代に至るという道を辿りました。
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