「エリザベート」ゾフィーはフランツヨーゼフの母。涼風真世の場合。エリザベートとの確執。その死?ライヒシュタットは誰

ミュージカル「エリザベート」が再演されています。ミュージカルでの人気を見ると「エリザベート」がトップテンの一つに上がるらしいです。

「エリザベート」に出てくるエリザベート皇妃の夫、フランツ・ヨーゼフ1世の母親です。いわゆるエリザベートの姑です。意地悪姑と言われてますね。

ゾフィー皇太后です。

が、実際はどうだったのでしょう。なぜ厳しくしたのでしょうか?本当にエリザベートが嫌いだった?。嫌いの理由知りたいですね。ゾフィーとエリザベートの確執がわかるかもしれません。

「エリザベート」でゾフィーを涼風真世が好演ぶりが人気です。ゾフィーの役柄をどう演じていたのかが興味あります。

死を迎える時の心境はどのようなものだったのでしょうか?

ゾフィーが若い頃、出会ったライヒシュタット公、この人は誰なのでしょう?そしてゾフィーにどんな影響を与えたのでしょうか?

「エリザベート」ゾフィーを涼風真世 一味違う!

何人かの役者さんがゾフィーを演じておられますが、涼風真世さんのゾフィーは一味違っています。

他の役者さんのゾフィー像は、若いお嬢ちゃんお嫁さん、エリザベートを「仕方ないわね、早くしっかり覚えてちょうだい」という感じで教育します。その行為には時として愛情を感じさせます。

しかし涼風真世版のゾフィーは、もっと冷徹なイメージです。

エリザベートの芝居の中で「親切で言うのよ、争いたくない」と歌うセリフがあります。

でも涼風真世さんのこのセリフは、「争いたくない」は、仲良くしましょう・・・の意味ではなく、こんなつまらないことで言い争っていては時間の無駄・・・と言う想いが読み取れます。

涼風真世さんのゾフィー役では、ゾフィーが重んじているのは。オーストリアハプスブルク家のことなのです。

ゾフィーが心に抱いていることは、秩序あるオーストリア宮廷をそのまま次の時代に残し、永遠のハプスブルグ家を未来永劫継続していくことだったのです。

ですがその考えはある意味、古臭くなってきていたのです。

フランス革命を機に、世の中はどんどん革新されつつあります。自由を求める考え方が、平民だけでなくすでに貴族階級や王族にまで手を広げつつありました。

しかし古い勢力も依然として存在しています。

この19世紀後半という時代は、古い時代から新しい時代に変わろうとする葛藤の時期だったと言っていいでしょう。

古い勢力と新しい勢力が互いにぶつかり合います。ゾフィーとエリザベートはまさにその風潮同士の戦いを象徴したものなのです。

エリザベートは自由を束縛を嫌い自由を愛した人です。ところがゾフィーの方は古い秩序をひたすらに守ろうとしました。

ゾフィーとエリザベートが相容れないのは当然のことなのです。

ゾフィーの方は相容れないお互いを最初から認識していました、だからこそ、エリザベートとフランツ・ヨーゼフの結婚を許せなかったのです。

反対にフランツ・ヨーゼフ1世はは自分が古い体制にいる人間だとわかっていて、あえて窮屈な魂をほぐしてくれる存在をエリザベートに感じていました。

もしかしたら、結果としてエリザベートを苦しめるかもしれないと、心の奥底で気が付いていても自分にない自由な魂を求めていたのかもしれません。

ですから涼風真世のゾフィーからは絶対に、エリザベートと妥協することなく、そして古い体制をあくまでも守り抜こうとする強い決意が感じられるのです。

そしてゾフィーが徹底的にエリザベートに辛く当たる意味も。

確かにゾフィーは古い時代にしがみついた人なのかもしれませんが、しかしだからと言ってゾフィーを責めるわけには行きません。すでに古い時代のしきたりでの教育を受けてきてしまったほとなのですから。

これこそがこのミュージカルの悲しいテーマなのです。

「エリザベート」ゾフィーとはどのような人だった?

ゾフィーはエリザベートにとって姑です。

生まれはバイエルン公の娘です。そして大層な美少女でありました。将来エリザベートの若い美貌に嫉妬したような見方をされる場合がありますが、ゾフィーだって負けず劣らずの美貌の持ち主でした。

ゾフィーの正式名は、ゾフィー・フリーデリケ・ドロテア・ヴィルヘルミーネ・フォン・バイエルン。長い名前ですね。

ゾフィーは19歳で。オーストリア皇帝の次男、フランツ・カールと結婚しウィーンに嫁いできました。

次男ですからその兄が皇太子なのですが、皇太子は病弱なため後継者を望めないと言われていました。そこでフランツ・カールが皇太子の次の皇帝と言われていました。

ところで、このフランツ・カール、そんなに魅力的な人物ではありませんでした。とうよりむしろつまらない人物?

ゾフィーの両親ですらがっかりしていました。

ですが勤めとして、夫との間に子供を4男1女を育て上げました。長男がのちのフランツ・ヨーゼフ1世です。

激動の1800年代中頃、革命、戦争の影響がオーストリアにも聞こえてくるようになりました。

この時から、ゾフィーは君主制を守り抜こうと決意しました。そのために自分の子供たちに、特に将来皇帝になる可能性の高いフランツ・ヨーゼフ(のちの1世)を真の君主に育てあげられるよう決意をしました。

そう、ゾフィーは有能な女子だったのです。廷臣のほとんどが、ゾフィーのことを宮廷で一番男らしい人物、と評するほどでした。

その有能ぶりは当時、オーストリア宮廷の宰相メッテルニヒでさえ一目置いたほどでした。

外部から来た嫁でなく、ハプスブルク家に生まれていたらひょっとしたらマリア・テレジアのような女帝になったかもしれません。

「エリザベート」ゾフィーとフランツ・ヨーゼフとの仲

皇帝フェルディナント1世が革命の影響で退位することなり、後継者は弟のフランツ・カールではなく、その息子のフランツ・ヨーゼフに譲られたのでした。

フランツ・カールは自分ではもはや力不足と思ったのでしょうか、自ら皇位を辞退しました。そこで皇位の重荷から逃れられてホッとしたのでしょうか、意外と長生きで1875年85歳で亡くなりました。

ゾフィーはいずれ皇后になれる、と期待はしていたらしいのですが、息子が皇位につくことになり、却って自分の采配を振るうことができる立場になったことには満足していたようです。それに息子が皇帝になったから、皇太后と呼ばれるようにもなりましたし。

実際、18歳という若さで困難な時代の帝位についた、フランツ・ヨーゼフ1世に対し、ほとんど摂政のような役割を果たしていました。

ゾフィーフォンバイエルンは、結婚前の王女時代から政治への関心が強く、高い知性の持ち主でした。ですからフランツ・ヨーゼフ1世への教育も立派に務めあげ、帝王教育を十分に施しました。

フランツ・ヨーゼフ1世も18歳という若さで、大国オーストリアの皇帝は荷が重かったに違いありません。息子の方も母の意見を取り入れていました。

当初は、フランツ・ヨーゼフ1世と母ゾフィーの仲は二人三脚のようのなものでした。信頼関係で深く結ばれていた仲でした。

フランツ・ヨーゼフ1世はもしかしたらマザコン気質だったかもしれませんね。最初の頃は母親に逆らわない息子だったのですから。

そのフランツ・ヨーゼフ1世と、ゾフィーとの仲にエリザベートは失望を感じることになります。

「エリザベート」ゾフィー、エリザベートとの仲、確執

皇帝になった息子には皇后になる余生が必要です。大国オーストリアを自分の代わりとなってフランツ・ヨーゼフ1世を支えられる女性でなければ、とゾフィーは考えていたはずです。

ゾフィーが息子の嫁にと思っていた女性の一人は姪でした。最初に考えていた女性はすでに他の方と婚約済みでした。

白羽の矢を立てたのは自分の妹の娘、バイエルン公の王女へレネ。へレネはエリザベートの姉です。

フランツ・ヨーゼフ1世とへレネに見合いの席に一緒に来たことが、運命の分かれ道でした。

フランツ・ヨーゼフ1世がエリザベートの方を気に入ってしまったので、エリザベートを妻に迎えた次第なのです。

ここで初めてフランツ・ヨーゼフ1世は母、ゾフィーに逆らったのです。ゾフィーは必死で姉の方を強く勧めるのですが、フランツ・ヨーゼフは聞き入れませんでした。

仕方なく息子の要望に応えるゾフィー。

ゾフィーとエリザベートとの確執はここから始まるのです。

ゾフィーは、ウィーン宮廷、王家のしきたりを守り継いでいってくれる女性を求めていました。エリザベートは自由すぎたのです。これは絶対何らかの形でエリザベートとの間に確執が起こる、そう予想できます。

それを本能で見抜いたゾフィーはすごい!

しかし、フランツ・ヨーゼフ1世の方は、堅苦しい宮廷で過ごす中で、自由な魂をそば位に置くことで癒されたい、そういう想いでいました。

親子の思惑が逆方向を向いてしまった瞬間です。親が息子のためによかれ、とやってきたことがここで反対のものを求める心をむしろ育ててしまった・・・・ここでゾフィーはそんな思いに駆られていました。

それでも一生懸命エリザベートを、大国オーストリアの皇后に育て上げようと決意しました。反対にエリザベートはその心を知ってか知らずか・・・ゾフィーとは相容れない状態でした。これでゾフィー・エリザベートとの確執が解けるはずありませんね。

ゾフィーはエリザベートにもっと皇后としての自覚を持ってもらいたい、もっと皇帝陛下を支えられるだけの力を身につけてもらいたい・・・

一方、エリザベートはゾフィーに対し、自分エリザベートと皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とはもっと家族のようにお互い寄り添い、愛情深い家庭を作りたい・・・

どちらもフランツ・ヨーゼフ1世のことを思いながら、その方法、形が全く合わない二人の確執は衝突し続けました。

ですがたいてはゾフィーの方に、フランツ・ヨーゼフ1世が賛成してしまうのでした。

「エリザベート」ゾフィーの死、ミュージカルから

ミュージカルの中で「ゾフィーの死」のシーンは重要なシーンです。

皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が母ゾフィーをなじる。エリザベートが旅に出て行ってしまった理由を母のせい、とそう言って。

ゾフィーは、王家を守るには何より義務を尽くすのが一番大事・・・ということをひたすら歌い上げます。そして自分がいかにオーストリアはハプスブルグ家を、自分の感情より愛情よりも上において行動してきたかを。

おそらくフランツ・ヨーゼフ1世はその母の想いに気がついていなかったのでしょう。

このシーンで、ゾフィーは一気に老け込んできます。これまでの偉丈夫ぶりが嘘のように。一番大切にしてきた、オーストリア、フランツ・ヨーゼフ1世に全く理解してもらえなかったことに大きな絶望感を味わった感じです。

自分のこれまでの行為が空回りだったのだろうか?と懸念しながらゾフィーは苦しみます。

フランツ・ヨーゼフ1世が去った後、ゾフィーは国の未来を憂いながら亡くなっていきます。

「ゾフィーの死」とは国の大きな星が落ちた、ほどの重みがあります。

オーストリアの紋章は双頭の鷲ですが、ゾフィーの死により、双頭のうちの一つが落ちたような演出を作り出しています。観客も胸を抉られるような感動を覚えます。

「エリザベート」の主役は言うまでもなく、エリザベート本人なのですが、ゾフィーなくしては、エリザベートの悩みなどただのわがままに成り果ててしまいます。

しかし、なぜか宝塚で演じられた「エリザベート」ではこのシーンがなかったそうです。

ゾフィーがいるからこそ、エリザベートの苦しさ辛さが浮き彫りにされてくるのです。

このゾフィーの死の演出は、死の後オーストリアは次々と不幸に見舞われてやがて、王国ではなくなります。この死は序章だったのでしょうか?

「エリザベート」ゾフィーとライヒシュタット公

ライヒシュタット公はナポレオン・ボナパルトの嫡子です。

ゾフィーから見ると夫の甥ということになります。夫フランツ・カールの姉、マリア・ルイーズとナポレオン・ボナパルトの息子です。

ウィーンのシェーンブルン宮殿にはライヒシュタット公のデスマスクが展示されています。

まだ若く、細面の顔立ちです。結核に罹っていたからかもしれません。

でもそれだけではなく、誰にも顧みられなかったフランスの世継ぎであった青年の、哀しい一生が見え、涙が溢れそうになります。

ゾフィーも、ライヒシュタット公もオーストリア宮廷ではよそ者扱いでした。特にライヒシュタット公は、ナポレオン・ボナパルトの息子で、この頃はエルバ島に流されていた時期なので危険人物敵扱いでした。

そのため宮殿に母から引き離され軟禁状態に近い身の上でした。

そんな寂しい宮殿ではゾフィーの優しさがひときわ、彼の心に響いたのではと想像されます。

ゾフィーもまだ子供を産んでいなくて、この頃辛い状態ではありました。どちらかというとあまり見栄えのしない(?)フランツ・カールとはうまく行っていない、という噂も流れていました。

必然的にこの二人は、一緒にいることが多くなりました。ちょっと気の強い目の女性ゾフィーはライヒシュタット公にエスコートさせて観劇に行くこともありました。

美しいゾフィーと、美丈夫に育ったライヒシュタット公、当然のように人の口に登ります。

次男マクシミリアンに関して、ライヒシュタット公の息子ではないか、と密やかに噂されるほどでした。

ゾフィーは懸命に看病をしたそうですが、ライヒシュタット公は結果を患って21歳で亡くなりました。

遺体は、王家の墓地カプチーナ教会の納骨堂に納められ、後にその横にゾフィー皇太后とそのゾフィーの次男マクシミリアンの棺が安置されました。

しかし、後に、オーストリアを併合したドイツのヒトラーは、ナポレオンを尊敬していたので、息子ライヒシュタット公の棺をフランスに持ち帰り、ナポレオン1世の眠るアンヴァリッドに改装しました。

今でもアンヴァリッドでナポレオン1世の傍に眠っています。

ゾフィーは皇太后になっても、ライヒシュタット公に想いを馳せる時があります。

「エリザベート」の中で、ゾフィーが、自分は全ての感情を捨てて国のために尽くしてきた・・と歌うシーンがありますが、ライヒシュタット公のことを思い出していたのかもしれません。

 

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