リドリー・スコット制作映画「ナポレオン」が上映中です。
ナポレオンはフランス革命の最中に登場したのですが、フランス革命とどうつながりがあるのでしょう。
フランス革命からナポレオンはひたすら強いのです。その理由いったい何にあったのか?
それなのに敗北し、完全に叩かれ、ついにはセントヘレナ島に流刑となり、そこで生涯を終えます。
ナポレオンの登場から、なぜ栄光の地位にまで上り、やがて落ちていく・・・・
その過程を、理由を、ここで調べてみました。
ぜひ映画を鑑賞しながら、ナポレオンの浮き沈みの人生に注目してください。
ナポレオンとフランス革命の関わり
革命勃発の時ナポレオンは
映画「ナポレオン」の冒頭はフランス革命勃発から始まります。
ではナポレオンはフランス革命とはどのような関わりあいがあったのでしょう?
フランス革命があるからナポレオンは出現し、ナポレオンがいるからフランス革命の波はヨーロッパ中に広がっていったといえます。
ナポレオンの生きた時代は(1769〜1821)。
フランス革命のきっかけとなった、バスチーユ襲撃は1789年。
時に、ナポレオン20歳・・・すでに軍人ではありましたが、フランス革命そのものに興味はありませんでした。
ナポレオンは父が王党派だったため、貴族出身の士官と扱われ、バリバリの革命派だったロペスピエールの処刑後になってから、軍人として出世できました。
そこで、ツーロン港の攻防戦で活躍し、徐々に出世を遂げていきます。
ロペスピエールが活躍する時代にナポレオンが出ていたら、ナポレオンもギロチンの犠牲になったかもしれません。
しかし、運がいいことにナポレオンはその頃、ロペズピエールの弟と知り合いのため、革命派から目をつけられることはありませんでした。
王党派とそうでない間をうまくかいくぐってきたきた運のいい人です。
いえ、運も実力ですか。
出世するナポレオン
ロペスピエールが処刑されると同時に王党派が反乱を起こしたのですが、それを抑えたのが国民公会。
国民公会の副官に起用されたのがナポレオンでした。
国民公会の軍司令官は、ポール・パラスという人物で、ナポレオンとはツーロンで出会い、知った仲だった関係から副官に任命となったのです。
副官といっても、ポール・パラスは議員で軍人ではないので、実質的な軍事活動は全てナポレオンに任されました。
ではどんなことをしたのかというと、パリのど真ん中に大砲を、王党派を中心として暴動を起こす群衆に、それも一般市民に、打ち込んだのでした。
これには一同、びっくり・・・・パリの古くからの建物なども、壊れたからです。
この発砲はナポレオンが完全なフランス人でないからできたことなのです。
なぜ完全な・・・かというと、コルシカ島はナポレオンの生まれた時にはフランス領になっていましたが、かつてはイタリアの支配下にあったからです。
ナポレオンが生まれる約3か月前に、フランス領になったので、まだまだイタリア人の気分が、コルシカ人にあったのでしょう。
パリの王党派を一網打尽にした子ことから、ナポレオンは軍隊でどんどん力をつけてきます。
この事件を、ナポレオンが起こした軍事クーデターと言います。
ナポレオンとマリー・アントワネットは接点があった?
ナポレオンと、マリー・アントワネットは面識はありません。
フランス革命の始まりとなった、1789年のバスティーユ襲撃。
そして、マリー・アントワネットはギロチンにかかった。
ナポレオンもその時代に存在した・・・となるとどこかで、出会ったか・・・と疑問が出るのですが、出会うことはなかったようです。
時代としては重なっていましたが、フランスの古い時代の代表がマリー・アントワネット。
一方、新しい時代の代表格がナポレオンです。
池田理代子 作の漫画「ベルサイユのばら」では、主役のオスカルがチラリとナポレオンを見かけるシーンがあります。
オスカルにナポレオンの鋭い眼光に、帝王の素質を感じた、と言わせています。
ここでフランスの時代が変わる・・・・その点をとらえようとして作者は、オスカルとナポレオンをすれ違わせてみたのでしょう。
ナポレオン自身は、他の革命家たちのように特に貴族階級を憎んでいた、というようなエピソードはありません。
むしろ、平民であれ、貴族階級にあったものであれ、軍人としての素質のあるものを見出し、積極的に雇い入れる、ことに興味があったようです。
ナポレオンの強さの理由
徴兵制を採用
ナポレオンが強かったのは、戦術を従来のものから大きく変えたことに、その理由があります。
フランス革命そのものが、古い貴族支配社会からの脱皮でした。
そこにちょうど、ナポレオンという軍事の天才が登場し、歴史の歯車が噛み合い、ナポレオンの強みが思う存分発揮できた、というわけです。
ナポレオンが、行ったことの一つは徴兵制を上手に利用したことです。
ナポレオン個人が、徴兵制の必要性を訴えたのではなく、革命政府が徴兵制を進めました。
その結果、自分たちの国土を自分たちの手で守ろうとする愛国心が高まってきたのです。
徴兵、ということは軍事学校で正式な兵法、戦術、武器訓練を習っていない素人同然の兵の集まりということになりますが、それをうまく使ったのがナポレオンでした。
戦術の転換
新たな戦術を取りいれたことも、ナポレオンが強い、理由の一つです。
従来の戦争では、進行方向に対して横に兵を並べる横型陣形でした。
この陣形だと、高い攻撃力が望めますが、地形に左右され、歩きにくいと箇所を歩いている兵士は遅れがちになり、陣形が乱れる原因となります。
また後ろが空いているため、臆病風に吹かれた兵士は脱走する恐れも出てきますから、素人が大多数を占める、ナポレオンの軍隊では向いていません。
ナポレオンが代わりに採用したのは、縦型陣形です。
これだと、どんな土地条件にも適応できます。
また武器、特に火器の発達もナポレオンには大いに有利になりました。
特に火器の使い方が簡単になってきました。
これは素人が多い軍隊では大切なことです。銃を大砲を誰でも扱えるようになるのですから。
広い場所に、大砲など分散して配置させて、四方八方から攻撃を仕掛ける、ことができました。
愛国心のある兵士たちは、待遇が多少悪くても文句を言わない、脱走しない、これもナポレオンの強みとなりました。
ナポレオンは演説上手?
ナポレオンの戦術が良かった、兵士の愛国心が強かった・・・・これだけではナポレオンは勝ち続けることはできません。
兵士を乗せることが上手だったのです。
ナポレオンは軍事パレード(当時は観兵式とよんだ)をやっています。
軍事パレードは、参加する人も、見る人の両方の士気を高めます。
軍事パレードでナポレオンはさらに兵士に、名誉と富を約束すると、人々の心は高揚します。
例え戦力が、敵より劣っていても、新しい武器、戦術で、自分たちは「解放軍だ!」と言って進めば、兵士たちはナポレオンを支持します。
これだけ支持を集められるということは、ナポレオンは演説上手だった、と言えます。
ナポレオンの敗北
解放の限界
勝ち続けるように見えたナポレオンですが、やがて敗北の時が訪れます。
常勝ナポレオンと見えたのに、なぜ敗北したのでしょう?
ナポレオンは自分の戦争を、「解放」と呼んでいました。
「解放」とは、王政に搾取される生活からの解放、自由に生きる権利を追求するための解放でした。
「自由」はフランス革命のスローガンの一つでありました。
しかしナポレオンの解放はいつの間にか、ヨーロッパ支配にすり替わっていきました。
まずヨーロッパでも陸で繋がっていないイギリスは、フランスにとって目の上のたんこぶみたいな存在です。
ナポレオンはヨーロッパを次々平定して、残ったのが、ロシアとスペインです。
何といってもフランスに、自分に従わない国があっては、ナポレオンは面白くないでしょう。
そこでスペインに侵攻しましたが、スペインの抵抗に手こずりました。
この結果は勝利とはいえないものでした。
戦争に疲れる庶民
戦争が続く、そして、負ける・・・こうなると参加する兵士の疲労と不満は一気に高まります。
疲労と不満は兵士の士気を落とします。
これが続くとどんな将軍も、弱体化するものです。
ナポレオンがヨーロッパ各国と戦争を始めた理由・・・それは王政、貴族制の圧政に苦しむ庶民の解放、でした。
国王を殺してしまったフランス・・、それを見るヨーロッパの王族たちは、自分たちの国民もいつ、自分たち(国王)を殺害する側に回るか・・・が最大の心配事です。
フランスの思想を自国に入れないために、ヨーロッパ諸国はナポレオンと戦っています。
ナポレオンは、諸国の庶民を解放するつもりが、実は相手国からの攻撃を防御していた、というわけなのです。
それこそがまさに、「最大の攻撃は防御なり」、先手必勝、叩かれる前に叩け、という戦争でした。
しかし解放は徐々に名目だけになり、征服、に変化しつつありました
フランス人は良い世の中がくる、と思って、庶民たちは自分の祖国のために戦いました。
それなのに、戦争はどんどん続き、徴兵に取られる庶民もだんだんと疲れてきます。
ロシア遠征へ
解放から名を変えた、征服・・・これを実現するために、ナポレオンはついにロシアを標的にしました。
70万人もの兵士を動員しました。
しかし兵役に取られる・・・庶民の不満は少しずつ増えていきます。
ロシア遠征でナポレオンは大敗北となりました。
ロシア側の戦術が巧みだったのです。
ロシアはナポレオンとの決戦を避け、ちょっと戦っては逃げるという戦い方を繰り返しました。
その結果、ナポレオンはロシア内陸部にどんどん深入りしてしまったのです。
モスクワまで進んだのですが、ロシア人はモスクワに火をかけて全員退去しました。
モスクワ退去の話は、トルストイの小説「戦争と平和」に詳しく描けれています。
ロシア遠征の失敗
モスクワが大炎上し、モスクワには食料ひとつ残されていませんでした。
この時は9月・・ナポレオンの配下にポーランド王がいて、秋の後に急速にやってくる冬の厳しさを説明し、一刻も早い撤退を提案したのですが、ナポレオンは聞き入れませんでした。
10月に入りやっとナポレオンは、フランスへの帰還を目指しますが、時はすでに遅し。
フランス軍一行は、冬の寒さに苦しみ、そこをロシア軍に攻め込まれ、大敗北と大損害を受けてしまいました。
帰還途中、兵士も大勢凍死しました。
ロシアの大地で果てた、大量の凍死者の遺体はそのまま凍土に埋れ、20世紀になって発見されました。
発見当時は、大量虐殺があったのではないか・・・という調査が行われましたが、実はナポレオン時代の凍土での戦死者とわかりました。
ロシア遠征の失敗から、ナポレオンの力は急速に落ちていきました。
ナポレオン、ワーテルローの戦いで・・・
敗北・・・エルバ島に
ナポレオンが、ロシアで敗北すると、たちまちロシア、プロイセン(ドイツ)が同盟を結び、その同盟にオーストリア、イギリス、などが加わり、ナポレオン軍に襲いかかります。
こうなると他勢に無勢で、1813年、ナポレオン率いるフランスはついに全面敗北します。
ナポレオンはパリを敵に明け渡しました。
そして、ナポレオンはエルバ島に流刑となります。
しかし、ここでおとなしくしていないのが、ナポレオン。
エルバ島を脱出して、再び敵国に逆襲をかけます。
この時、ヨーロッパでは、ナポレオンが退場したヨーロッパの今後をどうするか・・・・ヨーロッパの国王たちの会議、「ウィーン会議」の開催真っ只中でした。
そこに流れてくる、ナポレオンのエルバ島脱出のニュース。
国王たちは、たちまちのうちに、自国に飛んで帰りました。
ワーテルローの戦い
脱出してきたナポレオンには、まだナポレオンを慕う信奉者がいました。
彼らと共に、ナポレオンはヨーロッパ諸国に再び戦いを挑みます。
決戦の場所はワーテルロー。
ワーテルローはイギリスとプロイセンの連合軍、将軍はイギリスのウェリントン将軍。
ナポレオンは、ここで敗れました。
その敗因は、来ると思って頼りにしていた将軍が来なかったこと。
フランス以外の軍隊もナポレオンの、戦法を取り入れるようになって、ナポレオン独自の戦法が通用しなくなったことの方たちが主な要因です。
ナポレオンの戦術も徐々に時代遅れになりつつあった、ということですね。
ナポレオンがエルバ島に幽閉されていた期間は半年足らず。
短い間といえども、約半年の間にナポレオンは、戦争の勘というものを見失ってしまったのかもしれません。
それは皇帝という位が、ナポレオンに慢心感を植え付けてしまった、ということも考えられます。
ワーテルローって有名な割にはどこにあるか知られていませんね。
ベルギーなのです。ブリュッセルのすぐ南に位置します。
今では戦場あとに記念碑が建ち、博物館もあります。
すぐ近くにはナポレオンの宿敵、ウェリントン将軍の名がついた博物館があります。
敗れたナポレオンは、今度は、セントヘレナ島に流刑となりました。
今度は、大西洋の中央部にあり、アフリカ大陸西部からは1840キロメートル離れており、ブラジル(南アメリカ大陸)からは2880キロメートル離れています。
かつてナポレオンが流された、エルバ島はイタリアから近かったことを思えば、まさに離れ島?
それほど、皆はナポレオンの脱走を恐れていたのでしょう。
ナポレオンは、二度とフランスの地に帰ることはなく1821年にセントヘレナ島で亡くなりました。
いえ、死後19年経って、遺骸がフランスに戻されました。
その時、ナポレオン自らが建てた、凱旋門の下をくぐったのです。
自分が通るために作らせた凱旋門、死んでから潜ることになったのは皮肉ですね
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