NHK大河ドラマ「べらぼう」に松前廣年という人物が登場です。
この名前より絵師の蠣崎波響という名前の方が後世に知られています。
アイヌの反乱に参加し、アイヌのリーダーを描いた「夷酋列伝」が有名です。
松前藩(北海道)の家老にして、絵師。「べらぼう」に出てくるのだから、蔦重とは出会ったことがあるのでしょうか?
あまり知られていない、蠣崎波響の人物像を調べてみました。
蠣崎波響(松前廣年)の生まれはどこ?
「べらぼう」の中では、最初は 松前廣年(まつまえひろとし)、という最初の名前で登場します。
蠣崎波響は、北海道の松前。松前の城 福山館(ふくやまだて)で 1764年に生まれました。
名前でおわかりのように、松前とは北海道の桜の名所、マグロ、松前漬で知られてところです。
松前藩の居城の生まれ、というのは、松前家の12代目の藩主 資廣(すけひろ)の息子だからです。
松前廣年の母は、松前藩の家臣の娘、つまり正室の子供ではなかったのですね。
のちに藩主になったのは、異母兄の、松前道廣(みちひろ)。
そして、父の死後、兄が松前藩 藩主になり、弟 廣年は家老の 蠣崎家に養子に出されました。
蠣崎家は単なる家老の家ではなく、松前家の元々の家名だったのです。主君だけが松前家を名乗りました。
ということは一族が一体となって、松前藩を守っていたのです。
そうです、蠣崎波響(松前廣年)は後の家老になることになっていたのです。
藩主のたくさんいる子供の何人かが、家臣になることは武家社会ではよく行われていたことです。
蠣崎波響(松前廣年)、絵師への道は?
松前家に生まれ、蠣崎家に養子に行って蠣崎 姓になったのですが、そこから絵師のキャリアを積んでいくことになります。
蠣崎波響(松前廣年)お絵描き好きの少年だった?
廣年は幼い頃から絵を描くことが好きでした。
8歳になった時、馬術の練習を見て馬が走る様子を描いて見せたのです。
その絵の出来は非常によく、見た人々は驚き、蠣崎家の親族が、廣年に江戸に行って絵の勉強をするよう勧めたのでした。
廣年は、江戸の雰囲気が気に入ったようで、複数の師につき、絵をマスターしました。
20歳の時(1783年)、故郷 松前に戻り、この時から 蠣崎波響という名前を名乗るようになります。
北海道に帰ってから、描いたのが、「夷酋列像」であり、、蠣崎波響の代表作です。
蠣崎波響(松前廣年)の師匠は?
江戸でも京都でも、師匠につきました。
最初の江戸に上がり、江戸でついた師匠は、南蘋派(なんびんは)の画家、建部綾足(たけべあやたり)でした。
南蘋派(清王朝)とは、中国からからきた 沈南蘋(しんなんびん)が起こした画風です。
建部綾足は雅号を凌岱(りょうたい)といいました。
凌岱の死後は、宋紫石(そう歯石)という画家につきましたが、この画家は、凌岱からの勧めでつくことになりました。
それもそのはず、宋紫石は日本人ですが、中国にわたり、沈南蘋から直接、絵を習ってきて1700年代の江戸画壇で、話題になっている画家だったからです。
蠣崎波響が江戸で勉強していた時代、江戸の空気は田沼意次の政策のおかげで、非常に明るい開放的な雰囲気に溢れていました。
波響(廣年)も江戸がすっかり気に入った様子だった、と現在まで松前では伝えられています。
蠣崎波響は、のちに京都に行きますすが、京都に進出したのではなく、松前藩が弁明するためでしたが、京都でも新たな師匠のもとに弟子入りしました。
それが円山応挙です。円山応挙も南蘋派の画家です。
蠣崎波響は、南蘋派に焦点を絞って勉強したのですね。
蠣崎波響、蔦重に出会った?
「べらぼう」の登場するのだから、蔦重こと蔦屋重三郎と交流があったのでは?と考えられるのですが、実際はどうだったのでしょう?
文献を探しても、蠣崎波響と蔦重との間の交友関係などは見つからないのですが。
蠣崎波響の作品からもしかしたら、蔦重とあっていたのかも?と思わせる作品がありました。
どんな性格の人だったのでしょう?
蠣崎波響の「蓮蛙図」にどんな影響が出ていた?
それは、蠣崎波響の絵画「蓮蛙図」(はすがえるず)に見られます。
「蓮蛙図」は、喜多川歌麿の狂歌絵本「画本虫撰」(えほんむしえらみ)から構図を参考にした、と見られる作品です。
蠣崎波響に喜多川歌麿の影響が強い、ということは、展覧会を企画した北海道立函館美術館の学芸員です。
なぜ、蠣崎波響が影響を受けたかというと、蠣崎波響の兄が、池田頼定(いけだよりさだ)、別名 笹葉鈴成(ささのはすずなり)という文人で、歌麿との共作もあるからです。
蠣崎波響は蔦屋重三郎と出会った?
蠣崎波響は蔦屋重三郎を知っていたのでしょうか?
蠣崎波響の兄を通して、喜多川歌麿の画風を参考にしたなら、この二人の接点はあったかもしれません。
二人の絵を通してみると、水面に映った、蛙の描き方に非常に影響がよく見られます。
蠣崎波響が、狂歌本で見かけて、感銘を受けてその画風を取り入れた、こうみることもできます。
しかし、本人から直に聞いた方が、より体感することができるのではないでしょうか?
そうすると、本人に直接会うことが必要です。
喜多川歌麿を探し出すには、歌麿が書いた本を取り扱っている版元、「耕書堂」に行き、その主人、蔦屋重三郎に会うことが始めるのではないでしょうか?
蠣崎波響と蔦重が出会ったかどうかは、喜多川歌麿と蠣崎がどう接点を持つかにかかってきます。
しかし、蠣崎波響は、戯作を書いていませんので、蔦重の本屋で取り上げられることはなかったのではないかと思います。
蔦重は、挿絵を加えた物語を主に取り扱っていますから、ジャンル違いでしょうね。
蠣崎波響の活躍の裏に蔦重が?
蠣崎波響は、アイヌの反乱 クナシリ・メナシの戦いの後、落ちてしまった松前藩の復権のために、行動を起こしました。
それは、自分の描いた、アイヌの絵(夷酋列伝)を幕府のそして、公家、天皇に見せることで、評価をもらおうとしたことです。
蠣崎波響がいくら松前藩の家老と言っても、地方の弱藩のため、将軍にお目見えしても印象付けることは難しかったと思われます。
そこで、力を書いたのが蔦重だとしたら、「べらぼう」のストーリーが盛り上がりそう。
さらに、京都での天皇への出会いの手配も、蔦重が行っていれば、と希望ですが想像してしまいます。
蔦重は若い頃、京都でも本について学んでいたこともあり、京都のこともある程度詳しかったのではないでしょうか。
蠣崎波響、松前藩 復帰に喜によろこんだ絵とは?
京都での、松前藩復帰運動がうまくいき、1821年、松前藩が元の北海道の土地に戻れることになりました。
その時に、蠣崎波響はその喜びを、戯画に表しました。
絵の名前は「復封祝 島台」とあります。
絵画の真ん中には黒い箱が、描かれていて、その箱は一体何を表していうのか、よくわかっていません。
島台、というのは台であって、そこに鞘に収めた剣が描かれています。
この意味は、「元の鞘に戻った」ということで、松前藩が、松前の地に戻ったことを示しています。
松も描かれており、お祝いムードが伝わってくる戯画です。
松前が元に戻った時から(蠣崎波響 58歳)、蠣崎波響は「松前波響」と名乗るようになりました。
蠣崎波響という絵師は、松前という地元愛に溢れた人物だったのかな、と思えます。
蠣崎波響の性格
蠣崎波響は、昔の藩時代の記録、松前に残されている町史から見ると、特に問題を起こしたり、感情をひどく動かしたりする人物ではありませんでした。
むしろ、温和で、社交的な性格だったことが伝えられています。
後に松前藩がアイヌの反乱のことで、立場が苦境に立たされても、蠣崎波響の持つ性格のおかげで乗り切れたのではないでしょうか?
その性格を後押ししたのが、蠣崎波響の絵画にあったのでしょう。
蠣崎波響は、画家として今日に知られていますが、本当は松前藩の家老なのです。
本職 は松前藩家老 画家は副業、と言った方がいいのかも?とは思うのですが、江戸まで出て絵を本格的に勉強したので、絵描きという職業も、捨てきれません。
つまり、家老、絵描きの両方を自分の仕事、としていたのですね。
二つの仕事をこなすのは激務だったのではないでしょうか?
蠣崎波響(松前廣年)は、アイヌとの関わりは?
蠣崎波響は、アイヌの酋長と見られる人物たちを数名書いております。
それらの絵はアイヌの人たちに、尊敬を持って描いた絵なのではないかと、と思えます。
蠣崎波響は、松前の生まれだから、子供の頃からアイヌを知っていたでしょう。
蠣崎波響、反乱軍鎮圧の司令官に
北海道南部の、国縫(くんぬい)という地域では、1600年代中頃に、アイヌによる反乱があり、蠣崎波響たち、道南に住む日本人は、アイヌがについてよく心得ていました。
蠣崎波響が描いた、アイヌの絵は、1789年5月に、起きた クナシリ・メナシの戦い に関係しています。
この戦いは、日本人と商取引をしている人たちが、不満を持って日本人に対して行った反乱です。
クナシリ、メナシという地名からわかるように、待つ前から遠く離れた道東の方の戦いです。
松前藩は、260名位の討伐隊を出し、部隊の指揮官の一人が蠣崎波響でした。
反乱は、アイヌが和人(日本人、のこと)の扱いに不満を持って起こされたものです。
松前藩の軍勢で、反乱はほぼ抑えられたのですが、アイヌの中にはもっと本格的に戦おうとするものもおりました。
しかし、アイヌ人の中にはこれ以上争いを続けることは良くない、察し、いくつかの部族が松前藩とアイヌの、仲立ちをして和平に持ち込みました。
蠣崎波響は和平を取り持ってくれたアイヌに感謝し、松前城(福山館)に連れて行き、彼らの協力に感謝し、彼らの絵を描きました。
戦争の結果は?
クナシリ・メナシの戦いは、松前藩の勝利のように見えます。
しかし、幕府からの評価は悪いものでした。
幕府の見方は、反乱をおさめた、ということよりも反乱を招いてしまった、ということにあリマス
松前藩が、アイヌに経済的苦境を与えた、こんな難しい場所を松前藩にだけ任せておけない、と幕府は見ていました。
こうしてみると江戸幕府は、自国民の和人だけに味方するのではなく、和人とアイヌを公平に見ていたような気がします。
それだけではありません。
蝦夷地には、ロシアも南下してきており、ロシアが蝦夷地占領の不安も出てきたからです。
幕府は、「生ぬるい手段しか取れない松前だけに、蝦夷地を任せて置けない!』という考えも出てきました。
結果、松前藩には罰として松前から、もっと小さい土地、陸奥の梁川(りょうせん)に藩変えをさせられました。
そこで、松前藩は自藩の弁明のために、手を尽くします。
蠣崎波響(松前廣年)、「夷酋列像」を描いたわけは?
松前藩の弁明のため、その役を果たしたのが、蠣崎波響の絵画「夷酋列像」でした。
蠣崎波響、といえばこれらの絵を思い出す方が多いのではないでしょうか。
モデルは、この戦いで日本のために最も協力してくれた、12名を絵画にしました。
蠣崎波響の計画は?
アイヌの族長たちの絵を描いた意味は、松前藩の復権を願うためでした。
アイヌの反乱を引き起こした、藩の運営が下手だと見られ、松前だけに任せておけない、ということで松前藩は知行を減らされ、陸奥の(福島県)梁川に国替えされられてしまいました。
国の権利を取り戻すために、蠣崎波響はアイヌの絵を書きました
これが、「夷酋列像」です。
「夷酋列像」の、アイヌのリーダーたちはどれも、堂々と立派な風格で描かれおり、彼らが身につけている衣装も見事です。
狩猟民族らしく毛皮を身に付けている者、蝦夷錦と呼ばれる貴重な生地を使った衣装を身につけているものもいます。
蠣崎波響の「夷酋列像」、天皇は認めた?
蠣崎波響は、アイヌのリーダーを尊敬、賞賛の目で見て描いているようには見えます。
しかし蝦夷錦の衣装をアイヌたちが普段着ているわけではありません、その絵の構造のアイヌたちの目線は白目がちで、どこか不自然に見えます。
では蠣崎波響は、アイヌリーダーの肖像画をどう使ったのかというと、松前藩を松前に戻して、藩をこれから後も存続させるための、アピールにしました。
どんなアピールかということを、民俗学の博士 横山百合子氏は次のように説明しています。
『松前藩が、強そうなアイヌのリーダーたちを従えたところを、京都の公家、天皇に見せつけて、松前藩はアイヌを統治する能力が十分にある』
と、主張を込めたのではないか、と見ています。
蠣崎波響は、「夷酋列像」を幕府の要人はもちろんのこと、京都まで行き、公家や光格天皇に見ていただいた、ということが、「文化遺産」を説明するサイトに書かれています。
「夷酋列像」は、長いこと失われていたのですが、1894年 作品中の11点がフランスのブザンソン美術考古博物館で発見されました。
蠣崎波響の絵について
蠣崎波響の絵は、「夷酋列像」以外に何がある?
蠣崎波響の絵画で、現存しているものは200点ほど、と言われています。
「ほど」というのは70点ほど、贋作である、と確認されているからです。
「夷酋列像」はフランスのブザンソンにありますが、それ以外の作品は北海道の美術館、寺院にあります。
やはり、北海道出身だからなのでしょうね。
函館市の寺院 高龍寺には「釈迦涅槃図」があり、この作品も蠣崎波響の代表作です。
「名鷹図」、「瑞鶴祥雛」、「花鳥人物図屏風」、「孔雀図」、「柴垣群雀図」などがあります。
花、鳥の絵が多いようですね。
蠣崎波響と円山応挙の絵の類似点と相違点
蠣崎波響は、円山応挙の元に弟子入りしていた時代があるので、作風に共通点があるのかを調べてみました。
どちらの作家も、自然描写が得意です。
相違点は
- 蠣崎波響は円山応挙、波響両方の絵のルーツになっている、中国風な影響が多いですが、応挙の方は、かなり日本的な要素が入ってきています。
- 動植物の場合、波響は、威厳ある姿を生きているように描き、応挙の場合は可愛らしく、いきいきと、描きます。
類似点は、
- 波響も応挙も、色彩と筆使いに上品さが現れている。
- 自然観察が正確で、リアルさが表現されている。
- 動物や植物の、命のある一瞬を上手に捉えている。
- 蠣崎波響、「べらぼう」でどんな登場を?
蠣崎波響(松前廣年)、「べらぼう」ではどのような人物に?
「べらぼうで」蠣崎波響にキャスティングされているのは、ひょうろく さんです。
公式サイトでは役柄として、次のようにあります。
松前藩の繁栄のために尽力するが、自由奔放で非道な兄・道廣とは違い、心根の優しさがあだとなり、のちの松前藩を揺るがしていく
ひょうろく ご自身も、次のように書いています。
「はじめまして、松前廣年役のひょうろくです。今回初めて大河ドラマに出演させていただきました。初めてのカツラや久しぶりの髪の毛にドキドキで臨ませていただきました」
「廣年さんは江戸家老という身分が高い方で凛(りん)としてる部分がちゃんと出せたのか今でも不安です。吉原の女性に翻弄される一面もあり、撮影中“分かるなぁ。。”と他人事とは思えない切なさがありました」
「周りの演者さんやスタッフさんのすごさに圧倒されてしまいましたが、いろんなアドアイスをいただきながら自分なりに一生懸命演技させていただいていますのでぜひご覧になってください」
番組の中では、スキンヘッドになり、そして吉原に出入りして、彼の人生が翻弄されていく、という設定になっています。
吉原が出てくるところで、もう蔦重との関わりがあるに違いない、と思われます。
クナシリ・メナシ乗った甲斐が行われた場所
国後島の方から流れてきたアイヌと日本人との戦いが、羅臼町(らうす)や標津町(しべつ)あたりで起こった、というから、道南の松前からは、約740キロ離れています。 しかも、日高山脈、大雪山脈を超えていくか、海路で途中まで行くか、いずれにせよ厳しい道のりです。 この戦いは、5月に行われたのですが、旧暦だと、もう一月遅い感じでしょうか。それでも、道南である松前と道東である羅臼町方面では、かなり気候が違います。 |
まとめ
蠣崎波響は、これまで時代劇のテレビドラマに登場したことはありませんでした。
蔦重と同じ時代に、いたのですね。
「べらぼう」では、ひょうろく さんがキャスティングされ、その兄、松前藩主 松前道広(みちひろ)には、えなりかずき がキャスティングされています。
見た目がなんとなく似ていて、兄弟役としてぴったりに思えます。
画家としての腕前は知られていますが、家老としての手腕がどのようにドラマの中で、発揮されるでしょうか?
蔦重との仲の良さが出るかも期待されるところです。
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