「べらぼう」で賢丸と呼ばれていた、松平定信は成長し、イケメンになりました。
果たして、実物もイケメンだったのでしょうか?
ここでは、知られている以外の、松平定信の裏の顔を掘り下げてみました。
松平定信、イケメン?
賢丸(まさまる)が成長し、松平定信になったところで役者交代 突然 井上裕貴さんになり、イケメンになって再登場しました。
実際にイケメンだったか、というと、イケメンを思わせる記述がどこにもありませんので、証明できないのが、残念です。
松平定信より前の老中 田沼意次は、大奥の女中たちにの人気があった、とあるところからイケメン度が感じられるのですが、
松平定信に関しては、そのような記述が見当たらないので、それほどイケメンではなかったのではと、推測されます。
でも「べらぼう」の井上裕貴さんのイケメンぶりには、これからも注目したいですね。
松平定信、顔はどのような?
上記の「イケメン」と関わりあるのですが、イケメン、イコール顔がいい、ということにもつながります。
顔については、肖像画が残っていますので、イイ男か?そうでないかが、わかるでしょう。
松平定信と同時代の絵描きなら、谷文晁(たにぶんちょう)という人物がいます。
しかし、その絵は、松平定信が谷文晁に命じて書かせた絵であり、しかも谷文晁自身ではなく、弟子たちが仕上げた絵では、と今では言われています。
また自画像もあり、「撥乱反正 賞善而罰悪」(乱を収め、正しい道に直し、善を讃え悪を罰する)と書かれており、白河藩の霊社に収められています。
自画像、と呼ばれる絵は、顔が整って見えます。
本当にそうだったのか、自分を美化して描いたのか?
ですが、のちに人間性を見ると、曲がったことが嫌いな人だったので、ある程度真実を伝えているかと、思います。
それぞれの絵を見ると、下膨れの絵もあり、シュッと顔が細面のものもあり、ある程度は整った顔立ち、といえます。
松平定信は真面目である
もしイケメンだったとしても、性格が気難しい人だったりすると、それで、イケメン度はぐっと下がってしまう。
松平定信の性格を一言で言うと、「マジメ」です。
松平定信、どんなところが真面目?
まじめ、とはいいことではあるのですが、行き過ぎると、周りにいる人は窮屈な思いをします。
ですから、松平定信は「頭の硬い人」と言う印象が強いです。
どう言うところかというと、なんといっても政治の運営ぶりにその、真面目さが現れえています。
なんといっても、老中就任してからの政策が厳しすぎた、と言うとことです。
- 贅沢禁止
- 賄賂禁止
が松平定信の政治のモットーです。確かにまじめですね。
イケメンだけど、すごくまじめ、というのはどうも他の人から見て、とっつきにくい、と思われたかもしれません。
松平定信、なぜ、厳しい政治を?
一言で言うと、松平定信が「まじめ」で潔癖症だったからです。
松平定信が行ったことは、すべて、田沼意次が老中時代の政策の全くの反対の事でした。
田沼時代は、お金を市場に回すことを目的とし、商業を発展させ、芝居・本などの娯楽を、庶民に勧めました。
松平定信は、田沼時代のやり方に全く賛同できませんでした。
田沼意次のおかげでで世の中がたるんだ、軽薄になった、堕落した、と考えており、その反対の政策を取りました。
松平定信が気に入っていた学問は、「朱子学」。
朱子学に重きを置いて、日本で少しつづ受け入れられてきた、蘭学(オランダから入ってきた西洋式学問)を排除しようとしました。
幼い頃から守っていた、朱子学をなんとしても実践しようとした、松平定信はやはり、カチコチの石頭武士だった、と私には思えます。
ここで朱子学について簡単に述べておきましょう。
朱子学は、中国から来た教えで、中国の儒教(孔子)の教えを基本にしたもので、人間関系の秩序を非常に大事にしたものでした。 日本では江戸時代、武家社会に深く入り込み、支配層になる武士たちの思想の拠り所になった、幕府の公式学問、つまり武家社会の「道徳教科書」でした。 |
松平定信の政策は受け入れられた?
最初は、武士も、町民も、喜んでいました。
江戸庶民は、「べらぼう」でみる通り、田沼意次のことを賄賂をもらう汚いやつ、派手好きなどと言って批判していました。
それなら、松平定信の清貧をモットーとする「寛政の改革」は歓迎されるはずなのですが、そうはうまくいきませんでした。
松平定信は、町民の文化、特に本の出版などを、世の中の風気を乱す、と言って、蔦重たちが作り、町民が楽しく読んでいた、洒落本、黄表紙本などを全部、廃刊にしてしまいました。
さらに、大奥の女性たちに、着物・装飾品購入も節約させたのです。
すると、楽しみがなくなった江戸庶民、大奥の女性、武士たちも不満を持つようになりました。
贅沢すぎても、その全く逆、潔癖すぎても人々の心は満足しません。
やはり、なんらかの楽しみがないと、生活に潤いを感じられないのがつまらないのでしょう。
松平定信、正義の人、と言われるのはなぜ?
これまで、時代劇でその名前が活躍することが多かったからだと思います。
松平定信は、正義の人はホント?
正義の人というより、正義という概念にとらわれた人物だったとのでは?と思われます。
常に自分は正しい、と思えるような生き方をしてきています。
わいろもとらない、贅沢もしない、江戸の治安のために働く、確かに、正義の人です。
また、松平定信自身も、正義の人であろうと、絶えず努力していました。
反面、学問も朱子学以外を禁じる、なとど、かなり偏った見方をする人物という印象が感じられます。
松平定信、なぜ正義の人になった?
どうしてそうなったかというと、松平定信の生い立ちが影響していると思います。
生まれは、田安家という、将軍を出すこともあるという、徳川吉宗の家系に生まれながらも、
松平家に養子に出され、のちに田安家の後継者が亡くなり、賢丸と呼ばれていた、松平定信を再び田安家に呼び戻したい、と言っても、受け入れてもらえななかった。
当然できるはずのことが不可能だったことに松平定信は、理不尽さを感じたのでしょう。
そして、そこが間違っている、と感じ、自分は筋の通った人間になりたい、と言う思いがあったから、勉学に励み、正しい道を歩む、と言う決意を持ったのだと思います。
松平定信の養子の話は、こちらの記事に書いてありますので、お読みください。
松平定信、正義の人は時代劇のイメージ?
「鬼平犯科帳」で有名になった、長谷川平蔵が火付盗賊改方になって活躍したのも。松平定信の元でです。
火付盗賊改というのは、確かに江戸の治安取り締まりに重要な役割を果たしたので、長谷川平蔵を人事に加えたことで、松平定信に、正義の人、というイメージを作り上げています。
ですが、火付盗賊改方は長年にわたって、江戸に置かれてきた組織なので、特に松平定信だけが、火付盗賊改に力を尽くしたわけでないのですがね。
「大江戸捜査網」なんていう、かつて人気のあった時代劇では、世の中の悪を秘密のうちに始末するため、松平定信が、隠密を使った、という設定のドラマが有名でした。
江戸時代のスパイ物、とも言えるドラマシリーズでした。
隠密隊を、結成したということで、悪が犯罪化する前にその芽を摘んでしまおう問いところに、松平定信の潔癖性を見ることができる、と思われます。
時代劇の力、恐るべし!
松平定信の最期は?
政策がうまくいかなかった、ということで、松平定信は老中をクビになってしまいました。
1829年 72歳でその生涯をひっそりと終えました。
養子になる、ならないで不安定だった少年時代を終え、やっと中央の光の当たる老中の役職についったと思ったら、人気のなさで、辞めさせられて。
老中を下がったあとは、白河藩主として藩政を行い、文化活動をして過ごしました。
蔦重たちの本を認めなかった、松平定信が文化とは?
と、思うのですが、集古十種(しゅうこじゅっしゅ)という宝物のカタログのような本を編纂しています。
江戸の築地にある浴恩園(よくおんえん)でひっそりと世を去りました。
これといった、記述が残されていないので、老衰だったと思われます。
政策で、人に嫌われたから、ストレスで病気になったのでは?と心配したのですが、それはなさそうに見えました。
まとめ
松平定信は、井上裕貴ほどイケメンとまではいかないけれど、肖像画を見ると整った顔立ちをしていました。
でも性格がまじめすぎて、その政策には不満が集まってしまいました。
まじめなため、正義も大事にしていました。
1780年代では、松平定信の政治は不評でも、将来、時代劇では、その正義感がものを言っています。
見かけよりは、美しいものに対する理解があり、不器用な人間だったのでしょう。
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