寛政の改革、蔦重は出版統制にあう?松平定信に嫌われて?混浴禁止?風刺はどんな?失敗の理由??なぜ行われた?

べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺

松平定信が老中について、寛政の改革が始まります。

蔦重は、出版が規制されですっかり商売がダメになってしまいました。

娯楽も、混浴禁止なんて令も出され、江戸は火の消えたように寂しくなります。

いたたまれなくなった蔦重がとった策は?

寛政の改革がどうのようなものだったかを、蔦重を通して解説していきます。

寛政の改革で、蔦屋重三郎はどうなった?

蔦重は、そのままでは済まされませんでした。

蔦重が出版を手がけた、洒落本、黄表紙本などは、まさに風気が悪そうなものばかりですから。

蔦重は謹慎処分に!

とがめを受けて、処分を受けます。

身上半減(しんじょうはんげん)の刑と言われるもので、財産の半分を没収されることでした。

「身上」とは財産だけでなく、身分のことも一緒に指す場合もあるので、蔦重は、財産だけでそのこれまで築き上げてきた、名前、看板までもが傷ついた、ことになるのです。

蔦重は犯罪者ということなのですが、侵した罪というのは、これまで蔦重が作った、洒落本、黄表紙本が、世の中の風紀を乱したことです。

その本とは、山東京伝の洒落本「仕懸文庫」、「錦の裏」、「娼妓絹麗」(しょうぎきぬぶるい)です。

これらの本は、風紀を乱すものは禁止、と言われる中、沈みがちな世の中のムードを盛り上げようとして、作ったものでしたが、逆効果となってしまいました。

洒落本は、遊郭の遊女と客との物語を、遊び心を加えて、面白おかしく書き、「粋」と「通」を主題にしています。

時には野暮な客を笑いものにするところがあり、遊郭という娯楽を扱っているので、当時始まった寛政の改革の思想から見ると、風紀を乱す、悪い文化ということだったのですね。

寛政の改革で、蔦重が目をつけられた理由は?

蔦重が、財産を半分没収とまで厳しい処罰を受けたのは、幕府が蔦重が、江戸に与える影響を重く見たから、と思います。

蔦重は、江戸文化の代表として見られ、処罰は見せしめのつもりがあったのだと思われます。

蔦重は、江戸の人気者だった?

確かに、天明から寛政に時代が移る頃、蔦重の店の人気は、高まりつつありました。

蔦重は、耕書堂という本屋を営み、大々的に商売をしていて、江戸中に知られるよなに、目立つ活動していました。

遊郭を舞台にした、洒落本は、寛政の改革以前は、普通の流行り本だったのです。

洒落本などを扱う、蔦重の店は、世の中の風紀を見出している。男女間を扱う物語は、厳しさを要求する時代には、悪、とみなされます。

松平定信にとっては、とてもがまんならないものだったのでしょうね。

寛政の改革で、蔦重の風刺禁制対策は?

幕府を風刺したものは、厳罰の対象となりました。

そこで、蔦重たちは、規制の抜け道を探しました。それが「判じ絵」というものでした。

浮世絵に文字を書き込み、それも、ただかきこんだだけではバレると考え、謎解きの形にしました。

内容は、蔦重たちがお得意の風刺が中心になります。

ストレートに表現をしない、ということなのですね。

と言っても、読み取る方も、それなりの知恵を身につけていないといけません。

役人が、「判じ絵」を読み解くことができたら、その時はどうなったかを考えると恐ろしいのですが、発見されることはなかったようです。

 

蔦重の生涯については、こちらをご覧ください。

寛政の改革の出版統制とはどのようなもの?

出版統制は、文字通り、書物を検閲して、制作や販売を行う流通を制限することです。

これは寛政時代で始まったことでなく、江戸幕府で古くから行われていました。

蔦重が苦しめられたのが、まさに、この出版統制によるものでした。

寛政の改革での出版規制の、基準は、過去、1722年、徳川吉宗の時代に、大岡忠相(おおおかただすけ)が作成した、文章を、見習って出したものでした。

吉宗時代の、出版規制はどうのような基準だったかというと、

  • 遊郭を舞台にした物語は絶版に追い込む
  • 徳川家と家康に関する本は出版して引けない
  • 大名はその他の名のある家の家系に、勝手に改編してはいけない
  • 本を出版するときは、必ず作者名、版元名を明記すること(無記名はだめ)
  • 版元たちで、株仲間と言われるグループを作りその中で、お互いの出版物を検閲し合う

享保時代と違うところは、寛政の方が、検閲にもっと厳しかったということです。

寛政の改革を始めた松平定信は、蔦重が嫌い?

寛政の改革に夢中な松平定信は、蔦重に特に厳しく当たっているように見えます。

じゃあ、松平定信は蔦重が嫌いだったの?と思えるほどですが、実際にはそのような事実を示す、文書は残っていません。

あくまでも、松平定信は改革の一つとして、蔦重を罰したに過ぎないのです。

蔦重のすること・なすこと・してきたこと ことごとく松平定信の政策に合わないことばかりだったのです。

蔦重は、暗いの世の中に少しでも、楽しみを提供しようとするのですが、松平定信にとっては、蔦重の出版物が江戸の風紀を乱している、としか見ていません。

松平定信は、また、蔦重の商売主義のところを苦々しく思っていました。

もとより、松平定信は田沼意次の、商売を、重商主義を大切にした、政治を嫌っていました。

寛政の改革に出された混浴禁止令とは?

混浴禁止は、寛政の改革に、風紀を乱すからという理由で出された法令です。

潔癖症と言われた、松平定信らしさが感じられますね。

江戸時代の湯屋(今日の銭湯)では混浴が普通でした。混浴は恥ずかしくなかったのでした。

こうして、「男湯」と「女湯」に分かれるようになったのです。

今日見る、入り口ののれんのこんな経過でできたのでしょうね。

しかし、やはり混浴は人気があったのでしょう。

女湯の天井に覗き窓をつけて、男湯の二階から覗けるよう、湯屋側が改造してしまいました。

そんな湯屋が流行るようになったのですから、全くどうしようもない江戸時代、ですね。

そして、寛政の改革が終わりを告げると、また混浴が復活した、というのだから、あきれてしまいます。

覗くのは男性で、男性がよろこぶ(?)でしょうが、女性はどう思っていたのでしょうか?

寛政の改革で、行われた風刺とはどんなもの?

寛政の改革は、だんだんと江戸庶民たちには、窮屈に思えるようになりました。

「白河の 清きに魚も住みかねて 素の濁りの田沼恋しき」

という狂歌が、生まれました。

意味は、『白河の殿様(松平定信)の政治がご清潔すぎて魚が住みづらく、昔の時代のように、田や沼のような濁り気味の水が懐かしいなあ』

という意味です、田と沼の水は澄んでいないので、その様子と、田沼意次をかけた言葉です。

以上の狂歌が、寛政の改革時代の庶民の思いをよく表していますよね。

寛政の改革、失敗した理由は?

失敗の理由を挙げると、何よりも、生真面目で、頭は固く、根っからの徳川家生まれの人物、松平定信の人柄が大きかったと思われます。

だから、寛政年間は、庶民の自由がなかった、ということが失敗につながりました。

それだけでなく、松平定信が老中をクビになった、ことも寛政の改革を中途半端に終わらせてしまった一因です。

クビになったのは、やはり、松平定信の真面目すぎたところが原因でした。

寛政の改革、古臭い考えの持ち主?

松平定信の考えが、時代の変化に合わせアップデートされていなかった、というわけです。

松平定信、庶民からの人気が全くなかったのですね。

松平定信が、目的としたのは、稲作をはじめとした農業を重んじんる政策でした。

さらに江戸時代初期の頃に徳川家が持っていた権威、価値観を復活させることを理想としていました。

そのためには、田沼意次が行った、商業主義を排除する必要があり、と思っていました。

しかし、江戸の街はすでに商業による経済が根付き始めていたため、松平定信の政策は受け入れられなかったのでした。

寛政の改革では思想も、固かった?

以下の例は、独裁と思われても仕方のない、法令です。

江戸時代は、幕府を中心とする、封建社会ですので、徳川の独裁の法令が出されるのは仕方ありません。

しかし、自由な空気に慣れた、江戸庶民にとっては、窮屈に思われていました。

代表的は法令を、二つほど、下記に書きました。

寛政異学の禁

寛政の改革では「寛政異学の禁」という令が出されました。

朱子学を幕府推奨学問とし、それ以外の学問を学ぶのは好ましくない、とするものです。

完全に、他の学問を禁じたわけではありませんが、かなり独裁色の濃い令です。

処士横議の禁

「処士横議(処士奥義)の禁」は、身分・地位の低いもの、平民が集まって議論することを禁じる法令です。

特に幕府に関する、批判は禁止されます。

実際に、批判をして処罰された学者がいます。

林子平(はやししへい)という海防学者ですが、海の安全、防御の必要性をあげていました。

当時の幕府からは、海の防衛は必要ない、しかも、庶民に不安を抱かせるな、という怒りをかいました。

著書は没収され、発禁処分になり、本人は、謹慎させられました。

日本国海岸防衛の必要性は、田沼意次も抱いていたものなので、ますます松平定信と幕府を怒らせたことになるでしょうね。

寛政の改革の失敗は、松平定信が老中を辞めたため

改革、ということをやってのけるには、最後までやり切らないと、結果はでませんし、改革する方も、途中で路線変更することだってできるはずです。

やめてしまっては、どうしようもありません。

辞めたために、寛政の改革は中途半端になってしまったのだと思います。

松平定信は、庶民どころか、武士たちにも煙たがられていたことも、松平定信老中を長く続けられなかった理由です。

将軍 徳川家斉(とくがわいえなり)の父、一橋治済(ひとつばしはるさだ)を、大御所とする、かしないか、という問題に巻き込まれてしまいました。

将軍は自分の父を、大御所にしたかった。

大御所といえば、徳川家康、徳川秀忠の名が頭に浮かびます。

大御所を定義づけると、自分も将軍経験者で、その息子が現役の将軍である、という条件を兼ね備えていた人物のことです。

将軍にならなかった、治済は、大御所になれる資格なし、と松平定信は反対したのです。

せっかく親孝行を考えていた、将軍は、怒って、松平治済を老中職を辞めさせられた、というわけです。

松平定信の潔癖すぎる点が、人々に受けいられなかった、ということですね。

まとめ

江戸の街に、質素倹約の嵐が吹くようになると、蔦重も無傷ではいられませんでした。

そして蔦重は、処罰される結果になるのです。

ここまで厳しくされる、蔦重は、松平定信の恨みを買ったのか、と思うのですが、

蔦重は、また新しい対策を考えるのでした。

結局、寛政の改革は、厳しすぎた理由で、簡単に失敗でした。

しかし従来の、徳川家のための政治はすでに、皆が満足いくものでなくなりつつあるのは事実です。

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