豊臣秀吉性格は?簡単に小学生向きに解説。ホトトギスの歌。性格悪いエピソード。やばい!織田信長の影響?晩年?ダークな小説。

豊臣兄弟

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」では、秀吉に何やらダークな面が見えてきました。

ホトトギスの歌では知恵とがまん強さが見える豊臣秀吉。

ちょっと見ると明るい人物ですが、性格悪い、やばいエピソードも。

それは織田信長の影響だったのでしょうか?

強い権力を持った晩年は、ダークな小説でも描かれます。

ここでは、豊臣秀吉の性格が悪い、ということを解説していきます。

豊臣秀吉の性格を簡単にいうと?

豊臣秀吉の性格は、若い時は、人情味が強く人の心の中に入るのが得意、青いう明るい性格でした。

しかし晩年になると、権力を掴み老いが出てくると、性格は変わって疑り深くなってきました、

非常に努力家で、残されている、文字(書)は見事なもので、そこに努力の跡が見られます。

書と、同じように、自分磨きにはげんだ人なのだな、と私は想像することができます。

しかし、日本国を動かす権力を持って、晩年に入ると、人を疑うようになってきます。

その、豊臣秀吉の心の動きは、自分の息子に対する溺愛ぶり、それに対するように、甥・秀次への厳しい処罰ぶりに表れています。

豊臣秀吉の性格を、小学生にもわかるように解説!

豊臣秀吉は、なんといっても農民から、天下で一番偉い人にまで上り詰めた人。

そうなったのは、持ち前の性格が役に立っています。その性格を上げてみました。

  • 周りへの気配りが上手で人の心をつかむのが上手
  • 発想が飛んでいる、新しいアイディアを思いつく
  • 負けず嫌い、努力家。

周りの人に気をつかい、上司を立てる、そして、努力し、困難にぶつかっても、自ら切り開いていく、積極性のある性格の持ち主が豊臣秀吉なのです。

現代風な言い方をすれば、人を惹きつけるオーラがある、ということです。

そのオーラは天性の部分もありますが、自ら学んで身につけたことも多いです。

だから、現代に至るまで豊臣秀吉は、人気があるのです。

豊臣秀吉の性格を、ホトトギスに例えると?

「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」

これは、もし豊臣秀吉が「ホトトギス」がホトトギス、という題で和歌を詠むよう言われたら、このようになるのではないか、とい想像上の作品です。

こんな作品はどこにあったかというと、江戸時代1820年代の随筆「甲子夜話」(かっしやわ)にあります。

他にも、もし織田信長なら「鳴かぬなら殺してしまえ ホトトギス」

徳川家康なら「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」

「〜、鳴かせてみようホトトギス」は実際に豊臣秀吉が作ったわけははないのですが、豊臣秀吉の性格が非常によく表れています。

自分の進みたい道があったら、たとえどんな障害があっても、またどんなに反対する人がいても、根気よく、手を替え品を替え相手が「うん」というまで説得する、ところです。

相手がその気になるまで、何度もトライするから「アイディアマン」とか「人たらし」と言われるのです。

この点だけに注目すると、秀吉は、「良い人」に見えてしまいますが、実は、目的を達成するために、悪どいこともやっています。

だらこそ、「鳴かせてみよう〜」なのです。きれいごとだけではホトトギスは泣いてくれません。

豊臣秀吉、悪い性格を表すエピソードとは?

豊臣秀吉の性格は元々、「悪い」という記録が物語などに残っています。

それは戦国時代だから、仕方がない、という見方もできますが、やってしまったことは、その範囲を超えているように見えます。

その例をいくつか挙げてみましょう。

  • 5月31日の回「風雲、竹田城!」のラストに出てきた、上月城(こうづきじょう)のこと。豊臣秀吉は、上月城を攻めて、降伏した上月城の兵士たちを全て、はりつけにした
  • 三木城、鳥取城を攻める手段として、兵糧攻めを行なった。これは後世「三木の干殺し、鳥取の渇え殺し」と呼ばれている
  • 豊臣家の後継者決めで、息子を後継者にしたいばかりに、甥の秀次(ひでつぐ)との一族を全て処刑したこと
  • 石川五右衛門を、釜茹での刑にしたこと

上二つの、上月城、三木城、鳥取城の事件は、後世の私たちから見ると、

残忍性を感じますが、敵を滅ぼすことを目的としていた戦国時代では、「性格が悪い」から行なった出来事とは言えず、むしろ当然の行為ということもできます。

「上月城」の話は「下村文書」(しもむらもんじょ、秀吉が近江国にいる家臣 下村氏に宛てた手紙)に、攻撃の方法、城の者たちへの扱いを詳しく書いています。

「三木の干殺し」については、「信長公記」に、書かれています。

この二つの文書から、秀吉の命令で、落城した城の住人たちを、残酷な目に合わせていたことがわかります。

現代に住む私から見ると、敵を降伏させるのに、そこまで残忍性を発揮させなくても良いのでは、と思われます。

豊臣秀吉は、上月城に見せしめに命令を下したか?

6月7日「豊臣兄弟」の『播磨大誤算』では、上月城での、磔・虐殺の件について秀長が、兄・豊臣秀吉にその事実を確認していました。

はりつけなど、見せしめ的行動は、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)の策略で、豊臣秀吉は、丁重に葬ってやるつもりでした。

この点は史実の記録には見当たりません。

「信長公記」や「下村文書」といった史料では、竹中半兵衛の作戦とは書かれてなくて、「豊臣秀吉が命じた」(処刑方法、磔等)とのみ書かれています。

ですから「豊臣兄弟」での描き方は、ドラマのフィクションなのです。

なぜそのような演出を取ったかというと、この時期の秀吉は「人たらし」として通っており、「お人よし秀吉」の面を強調するためだったと、考えられます。

のちに、その性格が変わっていく、という設定が用意されており、性格が変わった時との対比のために、「良い人」の印象を強めていくため、と私には考えられます。

豊臣秀吉の性格の悪さ、秀次処刑で明らかに?

豊臣秀吉の、自己中心的な性格の悪さを一番よく表しているのが、甥の豊臣秀次を処刑してしまった事件です。

豊臣秀吉は自分の後継者を、甥(姉・ともの息子)・秀次にするつもりで、秀次を関白にし、自分は太閤になる、と手筈を進めたのですが。

豊臣秀吉の息子・秀頼を、側室の淀君(浅井長政とお市の方の娘・茶々)が産んだことで、自分の息子に跡目を譲りたくなり、秀次が邪魔になった、ということです。

確かに、秀次にも悪い点はありましたが、もっと別のやり方があったのではないか、と私は感じています。

秀次には、秀吉への謀反の罪を着せて自害させてしまったのです。

ことは、秀次本人の自害だけにとどまらず、その家族、妻・子・側室に至るまで全て処刑させられた、という悲劇に終わりました。

ここで何より、豊臣秀吉の性格の悪さを証明したのが、謀反の証拠が見つからない秀次を切腹に追い込んだこと、

その家族までもが、秀次の罪の責任を取らされ、妻・子供たちも(幼い子も、娘も)・側室たちも全て処刑され命を落としたのでした。

妻・子たちには何一つ罪はないのにです。

いくら我が子大切とはいえ、罪がはっきりしない甥そしてその家族たちまで、滅ぼしてしまう、豊臣秀吉は、悪い性格が、ここで一気に現れた、とそんな感じが私にはします。

豊臣秀吉の性格、石川五右衛門の処刑?

石川五右衛門(いしかわごえもん)は確かに、世の中を騒がせた盗賊で、豊臣秀吉は、五右衛門を1594年に、釜茹での刑にしました。

石川五右衛門の処刑の様子は、海外の書物、スペイン商人アビラ・ヒロンが「日本王国記」に書かれています。

石川五右衛門を統領とする盗賊19名、うち15名は磔、石川五右衛門とトップ格の5人が、釜茹で、つまり、生きたまま煮えたぎる油の中に、入れられました。

盗賊たちの、妻子、親、両親さらに盗賊の五親等まで、捕まり磔にされた、といいます。

処刑の年1594年に豊臣秀吉は、すでに関白・太閤になっていました。

この時、豊臣秀吉が必要としたものは、秀吉自身の権威を、全国の大名に知らせることでした。

そんな頃に、伏見城に忍び込んだ石川五右衛門、大泥棒として知られていました。

それを利用しない手はない、と豊臣秀吉は思ったに違いないと、私は思いました。

天下の大泥棒を、捕まえた、処刑して、太閤・豊臣秀吉の名前を日本全国にとどろかせよう、という計算を立てました。

権威を思い知らせるには、処刑方法が残酷であればあるほど、効果がある、ということで、釜茹で、磔の刑が行われました。

豊臣秀吉の性格は「やばい」?

豊臣秀吉の性格、何が「やばい」のかというと、秀吉の性格に極端な二面性が見られるからです。

一つの面は、「豊臣兄弟」や秀吉関係のドラマ「秀吉」(竹中直人主演)、「女太閤記」(秀吉役、西田敏行)で見られるように、ひょうきんな人たらし。

もう一つの顔は、城を攻め落として、城内の人々を、首を刎ねる、磔にする、女子供を串刺しにする、という処罰を、豊臣秀吉自ら、命令を下しました。

特に「三木城の干殺し」については、食料の補給路を徹底的に遮断したために、城内の人々は、完全な飢餓状態になってしまいました。

城の人々は、牛馬を食糧にしましたが、それも尽きると、人肉まで食べていたことが、「信長公記」で伝えられています。

これは、戦国時代の戦争の一環で、他への見せしめくらい見せないと、歴戦の戦国武将たちはついてきてくれない、と私は思います。

豊臣秀吉は性格が変わった?

これまで、広く言われてきたことは、豊臣秀吉は晩年は性格が変わり、暴君のようになってしまった、ということです。

豊臣秀吉の行動を若い時から見ていると、残虐さを発揮したのは、歳を取ってからではなく、若い時から、現れていました。

浅井長政を攻めた時、長政の後継者となるはずだった、万福丸を串刺しにして殺した、という、ここまず、残忍さ見せています。

しかし万福丸の場合は、秀吉の主君・織田信長の命令があった、という言い訳ができます。

「三木城の干殺し」、「上月城の見せしめの殺し」を見ると、豊臣秀吉自身の采配、判断です。

三木城兵糧だちは、軍師竹中半兵衛の作戦ではありますが、採用したのは豊臣秀吉です。

歳をとってからの豊臣秀吉は、甥の秀次を処刑、石川五右衛門を酷いやり方で死刑にしたり、とその残酷さが目につきます。

したがって、豊臣秀吉の中には、もとより残酷な面が眠っていたではないでしょうか?

最も、「人のいい」、お人好し「だけでは天下は取れないです。

時には、ダークサイドな面を使い分けていくことが、天下とりのコツなのではないでしょうか?

織田信長、豊臣秀吉に影響?

豊臣秀吉は、織田信長に仕えて、メキメキと出世しました。

天下人になった時、その立ち振る舞い・性格を織田信長に似せようとしたのではないか、ということが考えられます。

豊臣秀吉の性格は、織田信長に心酔して?

秀吉は織田信長を非常に尊敬していたから、信長の性格が似てしまったのではないか?という考え方があります。

特に織田信長が、浅井長政の後継・万福丸を串刺しにして殺させた、というのは豊臣秀吉の心に深く残ったのではないか、と私は思います。

私は、豊臣秀吉は、出世していくとともに、織田信長の考え方・行動を知らず知らずのうちに似せてきたのではないか、と推測しています。

自分の力を徹底させるには、相手に恐怖を与えること、と考えついたのでしょう。

織田信長は、日本という国を従える野望を持った時に、人々を恐れさせる手段を選びました。

豊臣秀吉は、「天下を取る」自分を見つめた時に、そのロールモデルを、織田信長に見たのだと、私は思っています。

豊臣秀吉の性格と、織田信長の生まれの関係?

織田信長は、生まれながらの武士です。

天下統一を狙うのも、武士としての誇りを持って臨み、例え自分が、「魔王」と呼ばれても、自分のやったことには最後まで責任を持ちます。

そのように教育されていきたからです。

一方の豊臣秀吉は、農民の生まれ。武士の心得もないまま、出世し織田信長を、他の武将を見ながら、必死で地位を登っていきました。

武術、作法、振る舞いはいくらでも勉強できますが、生まれながらには武士としての心は育っていません。

その証拠に、豊臣秀吉は晩年、自分の息子・秀頼を後継者にしようと、そればかりに必死になっていました。

日本の領土を広げようと、朝鮮出兵したり、甥の秀次を処刑したのも、ひたすら息子・秀頼可愛さのためでした。

さらに、自分の死後は、「秀頼をよろしく」と何度も、徳川家康に確認を取る。

こうした状況は、武家が自分の家の存続を願うのではなく、あくまでも自分の子供である、ということのみに囚われている、

これは、武家本来の意識からはずれていると私は思います。

自分のことに囚われている豊臣秀吉だから、「性格は悪い」と見られてしまうのです。

豊臣秀吉、晩年の性格は?

豊臣秀吉が、甥の秀次を叛逆の罪に問い、切腹に追い込んだのは、秀吉の晩年の性格をよく表しています。

豊臣秀吉は、晩年にると(50歳以降)、他人に対し疑いを持ちやすい性格に変わってきています。

また、黄金の茶室を作るなど、金銭をつかい、権力を自慢する点が目立つようになります。

その理由は、自分が就いていた関白そして後継者を、息子の豊臣秀頼に渡したかったから。

これが主な理由なのですが、豊臣秀吉は自分の地位を、脅かされたくなかった、という理由もあります。

豊臣秀吉は、関白の地位を、秀次に譲って、自分はさらにその上の役職・太政大臣、太閤殿下になっていました。

確かに豊臣秀吉の方が偉いのですが、関白だって、国を動かせるだけの権力はあります。

そうなると、関白と太閤の意見が合わないことも出てきた時、豊臣秀吉は苛立ちを感じるようになるのです。

この時の豊臣秀吉は権力にしがみついているように、私には見えます。

豊臣秀吉には、過去にもダークサイドな一面がありましたが、歳をとってくると、ダークサイドが、心の暗闇のように大きく人格に影が広がってくるイメージが私には感じれらます。

豊臣秀吉のダークな性格が小説に?

杉本苑子の小説「影の系譜」に、豊臣秀吉の性格の悪さが、描写されています。

「影の系譜」は、『豊臣家崩壊』というのが副題で、豊臣家の栄光とやがてくる滅亡を、豊臣秀吉の姉、「とも」の視点から描いた小説です。

豊臣秀吉の姉・ともは、一族に流れる残忍な血脈と世継ぎ争いが、栄華を極めた豊臣家を崩壊へ導く過程を見つめています。

小説では、豊臣兄弟は、知られている兄弟姉妹では父親が違い、

豊臣秀吉になった「藤吉郎」と「とも」は父が同じで、その下の「小一郎」(豊臣秀長)と妹「朝日」は父が違う、という前提で始まります。。

秀吉、ともの父は暴力的な人で、小一郎、朝日の父は、(秀吉、ともにとって2番目の父)は穏やかな人でした。

ともは、秀吉と秀次のダークサイドな面に生涯怯えながら生きていった小説です。

小説なら、創作?では、と思いますが、

作者の杉本苑子は、これまで実存している、「信長公記」など、また、司馬遼太郎の「豊臣家の人々」といった、他の作家の小説なども調べています。

ですから、私はこの小説は、かなり豊臣家について深くまで入り込んだ小説、と思っています。

この小瀬を読むと、豊臣秀吉の「悪い性格」というものが、納得できる、と私は思ってしまいます。

まとめ

豊臣秀吉の性格には極端な二面性があります。

一番よく知られている性格は努力家、ということで、それは「ホトトギス」を使った歌によく表れています。

人たらしとして知られる一方、上月城・三木城・鳥取城での残虐な処刑や、甥・秀次一族の処刑など、冷酷な側面も持ち合わせていました。

これらは戦国時代の論理や、織田信長の影響もありますが、農民出身ゆえの武家的精神の欠如があったせいも考えられます。

そして、晩年は息子・秀頼への執着が、その「性格の悪さ」をより際立たせたと言えましょう。

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