シャルル7世は「ジャンヌ・ダルク」の映画では脇役です。
ではシャルル7世は評判ではどのような者だったのでしょうか?確かにシャルル7世の時代にフランス・イギリス間の約100年続いた英仏100年戦争が終結しました。
その後、シャルル7世はどんな人生を送ったのでしょうか?
一国の王としてもちろん結婚もしました。しかしアニュス・ソレルという人物の存在ががシャルル7世とフランス宮廷に大いに影響しました。一体何者?
シャルル7世の家系図はありますが、その父、母はなかなか複雑な人物です。複雑ってどのくらい?というあたりが気になります。
シャルル7世の死は・・・疑問が残ります。
シャルル7世、の評判とは?
シャルル7世・・・ジャンヌ・ダルクを見殺しにした王、最低の王と悪い評判が多いのですが、実際に王として、シャルル7世の実態は?
ジャンヌ・ダルクに出会う前のシャルル7世は、名前だけは王太子でも王位につけるのかどうか疑わしい状況にいました。
そのため、シャルル7世時自身は劣等感があり自信がない王子でした。
当時の性格として言われていたのが、優柔不断、不安恐怖症など弱々しさの塊のような人物だったのです。
しかしジャンヌ・ダルクの応援を得て、シャルル7世はついに100年以上続いたフランスとイギリス間の戦争を終わらせます。それもイギリス軍をフランスから追い出し、フランスにとって良い形での終結です。
よってシャルル7世は「勝利王」と呼ばれるようになりました。
そこからの王シャルル7世は、一気に評価が変わりました。
- 官僚制を整える
- 軍備を整える。平穏時でも軍隊を持つ必要性を訴える。
- 王族を権威あるものとしての地位を確立する。
王権を強化するよう、それもキリスト教より国王の優位性を高める制度を整えて行きました。
こうしてフランスは絶対王権への道を歩み始めるのです。ですが絶対主義が確立するのはもっとずっと後ですが。今はその糸口を作ったところ、という感じです。
将来が約束されていなかった王太子シャルル7世。王太子なのに他の貴族たちから王太子らしく扱われなかった少年・青年時代を悔しく思っていたのかもしれません。
一度ジャンヌ・ダルクを見放したシャルル7世。しかしその後はジャンヌ・ダルクの名誉回復裁判に乗り出します。
と言ってもジャンヌ・ダルクには気の毒な思いをさせた・・・というのではなく、フランスが100年戦争で勝利し、自分も王位につくことができるようになったのは、魔女のおかげでは聞こえが悪いです。
正々堂々と、神の御心を得て勝利した・・・この方がずっとカッコがつくからです。
ちょっと俗っぽい言い方をすると、シャルル7世は「ええカッコしい」なのかもしれません。自分が良ければいい、そんな性格がありそうです。
「勝利王」と言っても、そんなに評判の良い王ではなかった感じです。
ですがフランスの国内をまとめ上げる政策を立てた王という面では人気はなかったとはいえ、王としての政策は評価されて良い王様と思えます。
シャルル7世とアニュス・ソレル
シャルル7世はアラゴン王の長女、マリー・ダンジューと1422年に結婚します。そして12人の子供を持ち20年ほど経った頃、一人の女性に会いました。
アニェス・ソレルです。結婚後20年たっておりシャルル7世は39歳になっています。その時のアニェス・ソレルはまだ20歳でした。
アニェス・ソレルは大貴族の娘て、ナポリ王の妃の侍女になる予定でした。身分の高い人の侍女となるとはやはり、高い貴族の女性血縁者ではないといけないものなのですね。
が、アニェス・ソレルがナポリ妃の侍女になります・・・という紹介が王にされた時、シャルル7世は美しいアニェス・ソレルに一気に夢中になってしまいました。
ここでアニェス・ソレルは、シャルル7世の寵愛を受けるようになりました。
アニェス・ソレルは国王の寵姫となったわけですが、アニェス・ソレルからフランス国王は正式に寵姫を一人持つことができる、という制度ができました。
これまでも、そしてヨーロッパ各地の宮廷でも寵姫を持つ国王はたくさんいましが、公式を一人持って良い、これが制度化した初めての例でした。
制度ができたことで公式の寵姫の費用は国庫から支払われることとなりました。これまでは国王のポケットマネーだったようですよ。
でも寵姫はあくまでも正妻、つまり王妃とは違います。キリスト教を基本とした一夫一婦制であるヨーロッパの王室は王妃が産んだ子供のみ王位継承権がありました。ほとんどは男子ですが、女子でも王位につける国もあります。
国王がいくら寵姫を愛そうと、寵姫から生まれた子供は王位につくことができません。その代わり、男子なら爵位を与えられるなど、臣下の名誉が与えらえます。女子ならば良いところにお嫁入りさせてもらえます。
寵姫の役割はとても大事で、宮廷で国賓を招いての重要な宴会の仕切りを任されたり、来賓を迎えることもします。
えっ、これって王妃の役割じゃないの?と思うかもしれませんが、王妃は家柄が良くて、丈夫な子供を産めるのが役割を果たせばそれでよし、とされていました。
宮廷で非常に大事な役割を果たしているにも関わらず、王妃サイドからは恨まれたり、他の女官たちからも妬まれることも多いです。
そこをそつなくこなすことが、寵姫には要求されます。つまり強かでなければ務まらない、ですね。
ただし、国王が崩御すると寵姫はたちまちのうちに権威を失います。ひどい場合だと宮廷追放だってあります。
しかしアニェス・ソレルは王妃とは、特に仲の悪いわけではありませんでした。
アニェス・ソレルがあまりにも美しかったので、王妃は彼女の美しさには敵わないと思ったのでしょうか?アニェス・ソレルに対して敵対心を見せることなく、認めるという懐の広い王妃ぶりを見せていました。
それとも寵姫の子供は王位を踏襲できない、と少し上から目線的な立場にいたからでしょうか?
また、宝飾に関していえば、女性の身で初めてダイヤモンドを身につけました。これまでダイヤモンドは男性の宝飾品でした。
アニェス・ソレルはまた、奇抜なファッションでも一世を風靡しました。というより奇抜すぎてみんなが目を見張るような服装をしたのです。なにしろ片胸をむき出しにしたドレスを着たのですから。当時のお人は目のやり場に困ったのではないでしょうか?
実際、こんな衣装を纏ったアニェス・ソレルの肖像画が残っています。
しかしアニェス・ソレルは早死にでした。享年28歳。4人目の子供を産むときの産褥熱だったと言われています。
しかし毒殺の噂も立っていました。どうも王太子シャルルが犯人らしいという人もいました。・・・という説もあります。
実際2005年に調査された、アニェス・ソレルの毛髪からは異常なほどの水銀が発見されたようです。
当時は女性のお化粧に水銀を使うことが多かったので、果たして髪の毛に含まれていた水銀が毒殺の証拠になるかどうか、はっきりとは言えません。
シャルル7世が、寵姫の死について特に追求もした様子が伺えませんでした。シャルル7世はその死をどう受け入れたのか・・・よくわかりません。
それに毒殺の噂があったのはシャルル7世の王太子なので、あまり追及しなかったのでしょうか・・・
真実は葬られたままです。
シャルル7世の家系図と父親、母親、子女は
シャルル7世は家系上でいうと、フランスヴァロア家の5代目国王ということです。
と言ってもフランスに脈々と流れるのはカペー家の血なのです。カペー家が1300年代に断絶となって王位についたヴァロア家もカペー家の亜流なのです。
そしてフランス最後の王家となるのがブルボン家ですが、このブルボン家もカペー家の亜流です。その証拠に最後の国王ルイ16世は王位剥奪後、ルイ・カペーと呼ばれています。
シャルル7世の父親はシャルル6世。
シャルル6世は、母親の血統からでしょうか?精神病を患いました。支離滅裂な言語を発する、病的なほどの興奮などが見られるようになり、時には戦争で味方を攻撃することもありました。そのため「狂気王」とも呼ばれていました。これ以来狂気の状態が続き、妻や子供のことを覚えていないという事態になっていました。
当然国の統治が十分に行えるわけがありません。そこでフランスの統治をめぐって、争う二つの派ができました。その内紛をイギリスにつけ込まれた次第なのですね。
なお、母親はイザボー・ド・バヴィエール。バヴィエールとはバイエルンのことです。家名はヴィステルバッハ。後の世でミュージカルになる程有名になった「エリザベート」のご先祖です。おっと・・イザベルのドイツ名はエリザベートなのですよ。
イザボーと言いますが、本名はイザベル。あまりにも不人気で蔑みの意味でイザボーと呼ばれるようになったようです。イザベルと呼ばれる女性はたくさんいたので、差別化する意味でわざとイザボーと呼んだのでしょうね。
イザボー、男性関係が奔放でした。精神を病んだ夫を尻目に王弟とも関係を持ったと言われています。フランス史上最悪の王妃と称されることもあります。
また強欲で、自分の身の回りの品、ドレス、宝飾品、食材も国庫のお金を使いまくっていました。
そんなわけで、シャルル6世とイザボーの間に合計12名の子供が生まれましたが、全員がシャルル6世の子供なのかの疑問が生まれていました。
シャルル7世は10番目の子供にして5男でした。男性関係が多かったイザボーの息子でしたから、本当にシャルル6世の息子であるのか・・・?という思いも周囲からありました。
誕生の1403年はイギリスとの100年戦争の真っ最中。戦争にさらに加えてペストの流行、災害などよくないことばかりが続く時代でした。
シャルル7世の兄は4人いたのですが次々亡くなり、フランス王家の残った男性はシャルル7世のみとなってしまいました。
そして王太子の地位が転がり込んできたのですが、なんと、父親シャルル6世は100年戦争でイギリスに敗北し、フランス王位をイギリスに譲渡したのです。
これじゃあ、シャルル王太子は国王になれないじゃありませんか。
しかしまたもや運がよく(?)父親シャルル6世とイギリス国王が相次いで死んでしまいました。またまた戦が復活され、決戦となりましたが、結果フランスの勝利に終わりシャルル7世が王になれた、という次第です。
シャルル7世は、の妻はアンジュー公国の娘マリー・ダンジューと結婚します。マリーの母親のヨランド・ダラゴンがシャルル7世の王位継承に尽力しました。なかなか外交的手腕の持ち主だったようですね。
それに娘の配偶者のために動く、力になるというのはなかなかな人物ですね。シャルル7世を見込んだから娘を嫁にやったのか、娘婿だから特に肩入れしたのか、その両方なのか・・・と思いますね。
シャルル7世はマリー・ダンジューとの間に12人の子供をもうけています。
後継者になったのはルイ11世なのですが、この息子とシャルル7世は折り合いが良くありませんでした。
この息子はかなり陰険な人物だったとようです。「慎重王」と呼ばれる反面、「潜在する蜘蛛」というあだ名がありました。
多分父、シャルル7世の政治を生ぬるいと思っていたのかもしれません。政策もフランスを分割しないで統治する、との方向に向けたかったからです。
また宮廷を支配する、シャルル7世の寵姫アニェス・ソレルとは対立関係にありました。ひょっとしたら、アニェス・ソレルをこっそり暗殺したのはルイ11世では・・・というワサが当時から流れていました。
シャルル7世の死因と墓
シャルル7世は1461年7月に死去しました。
死因は餓死の可能性があります。
シャルル7世は息子の王太子ルイ(のちのルイ11世)と意見の対立が続いていました。ルイ11世は慎重な性格でした。
シャルル7世も慎重でしたが、それ以上にルイ11世は慎重でさらに陰険と言われる内面性もありました。
国の統治のやり方についても、息子の方が一歩進んだ見方をするようになってきていました。こうして世の中は進歩を遂げるのですね。
シャルル7世の寵姫の突然の死もひょっとしたら王太子が絡んでいるかもしれない、とい噂も出ていました。ルイ11世は誰が見てもわかるように、アニェス・ソレルを嫌っていました。ですから毒殺もありうるな・・・と見には興味を持ってみたいたのではないでしょうか?
そこで、シャルル7世は今度は自分の番だ・・・猜疑心が浮かんできました・・・食事に毒を盛られるのではないか?
そう思って自ら食事を摂るのをやめてしまった、ということです。その結果の餓死となりますね。
さて問題は本当にルイ11世は毒を盛ろうとしたか?なのですがどうも確かな証拠はありません。
もしかしたら、シャルル7世の父シャルル6世の精神の病が少しばかり遺伝していて、シャルル7世が脅迫観念にかられていた・・・なんてことも考えられますが。どう思われますか?
シャルル7世の墓所というのは歴代フランス王のしきたりに従って、サン・ドニ大聖堂に埋葬されました。
2年後の1463年、王妃マリー・ダンジューも亡くなり、やはりサン・ドニ大聖堂に葬られています。
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