シャルル7世とジャンヌダルクの関係。なぜ見殺しに?それでも復権裁判要求。戴冠をランス、シャンパンの地で。

シャルル7世、って誰?と思う方が多いかと思います。

なにしろシャルルという名前を持つフランスの王様、また諸侯にもたくさんいます。誰が誰だかわからなくなります。

シャルル7世は、ジャンヌ・ダルク時代のフランス国王です。シノン城での出会いの後ジャンヌ・ダルクのおかげで国王になれたのですが・・・

それでもシャルル7世は色々思うところもあったのでしょう。ジャンヌ・ダルクの復権裁判を要請しました。果たしてジャンヌ・ダルクの復権は認められたのでしょうか?

シャルル7世は、戴冠式をランスで行います。古くからのフランス王の戴冠場所です。またランスはシャンパンで有名な土地でもあります。

シャルル7世の名前を抱いたシャンパンがあるようです。

シャルル7世、ジャンヌ・ダルクの関係

シャルル7世は、ジャンヌ・ダルクがシノン城に謁見にやってきます。この時のシャルルはまだ王ではありませんでした。

王太子ではあったのですが、1420年、トロワ条約で王太子シャルルは王位につかずイギリス王がフランス王を兼ねる、この取り決めでフランス王を継げなかったのです。

法廷推定相続人であるドーファン、つまり王太子という称号のままでいました。ドーファンというのは、王太子紋章に「いるか」が描かれていたからです。つまりドルフィンですね。

ジャンヌ・ダルクはシャルルが王になるべきと、そして王となるよう助けるよう天啓を受けた、こう言ってシノン城の元にいるシャルルの元にやってきます。

この時、シャルルは、身分を隠して服装も粗末にして、彼の側近たちの間に紛れ込みました。そして王の代わりに身代わりを立てて待ちました。

それでもジャンヌは、偽物に紛らわされずに、本物のシャルル王太子を群衆の中から。

これは伝説です。そこにシャルル7世ジャンヌ・ダルク関係説が生まれてくるわけです。

この説には、ジャンヌ・ダルクがシャルル7世に会えるよう紹介状を書いた人物がいました。ある血縁関係があるから紹介状を書いたらしいです。というのもこれも確証がないからです。

ジャンヌ・ダルクがシャルル7世をすぐに見破ることができたのは、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世の妹だったから・・・などという話が流れてきます。

また一王子が王になるための助力を得るとしたら、王の血縁関係でないとかっこがつかないなどの理由から、ジャンヌ・ダルクは王の隠れた妹である、なんて伝説が出来上がってくるのです。

とにかく、シャルル7世がジャンヌ・ダルクに会った、というのはセンセーショナルな出来事だったのでしょう。

だからこそシャルル7世とジャンヌ・ダルクの関係は兄妹、王族にある縁戚関係など話が出てくるのです。

また農民出身のジャンヌ・ダルクがフランスを勝利に導いた・・・この事件に何らかの、シャルル7世とジャンヌの関係をつけたかったからなのかもしれません。それを望んだのが、フランス国民だったのかもしれませうう。

シャルル7世はなぜ・・・ジャンヌダルクを見殺しに?

シャルル7世は、ジャンヌ・ダルクの渾身の戦いによりフランス王位につくことができました。

ジャンヌ・ダルクはフランス王の恩人にも等しい人です。

しかしジャンヌ・ダルクの軍は戦争の終結に向けて動き出すどころか戦争にありがちな、略奪行為に走りました。

略奪の苦情はシャルル7世のもとにやってきます。シャルル7世はやりきれません、「いい加減にしてくれよ」という気持ちだったことが思いやられます。

シャルル7世の戦争相手はイギリスですがイギリスと同盟していたブルゴーニュ派も敵対相手です。

ブルゴーニュ派は王太子とはフランスの統治の仕方について元々対立していました。そのブルゴーニュ派にうまく取り入ったのがイギリスでしたた。

しかし徐々にシャルル7世はブルゴーニュ派と和睦を結ぶような流れになりつつありました。ブルゴーニュ派とイギリス側に不協和音が生じてきたからです。

でもジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ攻勢を続けました。ジャンヌ・ダルクにとってはフランスの王、支配権はシャルル7世ただ一人だったのです。シャルル7世に敵対するものはことごとく打ち倒す・・・そんな心意気だったのでしょうか。

大人の事情を一向にわかろうとしないジャンヌ・ダルク。停戦命令を全く聞き入れないジャンヌ・ダルクにシャルル7世は苛立ち始めました。

そんな中、ジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ軍に捕まります。

捕虜には身代金が課せられて、支払われたら放免でした。通常なら自分のために働いてくれた将軍なら、国王は身代金を支払いますが、シャルル7世は身代金支払い要求を拒否しました。

それはなぜか・・・・お金がなかった・・・これも一因ですが・・・この頃になると、シャルル7世はジャンヌ・ダルクが鬱陶しくなってきたからなのです。

王位を取り戻す糸口を作ってくれたのはいいものの、止まることを知らず徹底的にイギリスに打ち勝とうとするところ。いわゆる空気を読まないジャンヌ・ダルク・・・始末に困る・・・これがシャルル7世の本音だったのでしょう。

また、もしイギリス軍を打つまでに勝ち進んだとしたら、この後どうしよう・・・という懸念も出てきたのだと思います。

恩賞を与えるのか・・・女性なのに男性並みの扱いをするのか・・・と悩んだのでしょう。

じゃあ・・・ちょうどいい時に捕まってくれた、となるのですね。

しかしその結果、イギリス側に引き渡されました。イギリス側で魔女として異端審問にかけられることが決まりました。

シャルル7世は異端審問まで行くと思っていなかったようです。しかし、実際のところシャルル7世は国王に戴冠したと言っても、まだまだ力が強くありませんでした。

異端審問の話となると、キリスト教の支配が著しい中世世界では口を挟むのが難しいのです。宗教に逆らうことは自分のにも火の粉が降りかかってくるわけですから・・・

ジャンヌ・ダルクはついに異端審問で有罪となり、1431年、火刑に処されてしまいました。

シャルル7世は、後世では「ジャンヌ・ダルクを見捨てたダメ王」とまで言われています。

しかし実際は「ダメ」なのではなく、シャルル7世の王としての力がなかったということ。

そしてひたむきなジャンヌ・ダルクの取り扱いにも迷う、適切な対応ができる王としての人間がまだ出来上がっていなかったようなそんな気もします。

シャルル7世が復権裁判をジャンヌダルクのために要請

シャルル7世は、「ジャンヌ・ダルクを見殺しにした」などと言われていますが、そのままに見過ごしていた王ではありませんでした。

しっかりとジャンヌ・ダルク復権に向けて立ち上がりました。

ドメニコ会修道士とジャンヌ・ダルクの母親が再審を要請し、時の教皇カリストゥス3世が承認しました。

その調査にシャルル7世も乗り出してきました。

これまでもジャンヌ・ダルクの死刑について、「心痛むこと」と言っていました。でも自分はどうしようもなかった・・・と言い訳めいたことも言っていたようですが・・・

とにかくパリ大学の神学者に裁判の再調査を命じます。

しかし、ジャンヌ・ダルクの裁判が行われたルーアンはまだまだブルゴーニュやイギリスの勢力が強く、裁判の調査がなかなか進まなかったようです。

もちろん裁判に直接関わった、イギリス側は自分たちの主張を正当とするため、自分たちを守る立場を取り続けます。

それにシャルル7世の方もだんだん真剣になってきました。なにしろジャンヌ・ダルクの力を借りて王位についたとなると、異端と魔女の力で戴冠したことになってしまいますから、それではシャルル7世の戴冠自体に疑いが出てきてします。それは絶対に避けたいことです。

ですから復権裁判が行われることはシャルル7世にとっても大切なことでした。

ついて1451年、パリでジャンヌ・ダルク復権裁判が正式に行われました。

裁判で大きく影響したのはジャンヌ・ダルクの母親の言葉でした。

結果は、ジャンヌ・ダルク支援型の勝訴となりました。ジャンヌ・ダルクの異端裁判は無効である。

シャルル7世にとっても、ありがたい結果となりました。

最後にシャルル7世は頑張ったのだけれど、もっと早くジャンヌ・ダルクの逮捕の時から頑張ってもらいたかったです。

シャルル7世、戴冠をランスで。シャンパンの地

オルレアンでの勝利して、シャルル7世は、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式が行われました。

ちなみにノートルダムというのはパリにある大聖堂のことだけではありません。「ノートルダム」には「我らの貴婦人」つまり聖母マリアの意味があります。ですからノートルダム寺院がある街は珍しくありません。

ランスのノートルダム寺院は816年にルイ1世の戴冠式以来、フランス王の戴冠式を行う寺院となっています。1825年まで32人の王が戴冠式を上げています。

時は1429年7月でした。

戴冠式などの儀式では聖水を使いますが(祝福される人に聖水を振りかける)、その聖水は同じくランスの街にあるサン=レミ聖堂より取り寄せて、戴冠式を行いました。

サン=レミは聖レミギウスという430年代の聖職者で、サン=レミ寺院に葬られています。

メロヴィング朝のクロヴィスが、カトリックに改宗しカトリックを守る王となり、パリを首都としました。フランス建国の父というべき人にちなんで、代々のフランス国王はサン=レミの聖水を振りかけられ聖別されて戴冠する、という歴史に乗っ取った儀式でした。

時は1429年7月でした。

フランスとイギリス両国がオルレアンをかけて戦っていましたが1429年5月にジャンヌ・ダルクの働きで解放されました。

ですからシャルル7世の戴冠式はそのオルレアンの包囲戦をフランスが勝ち取った2ヶ月後でした。

これでシャルル王太子は正式なフランス王シャルル7世となりました。

戴冠式にはジャンヌ・ダルクも参列しました。戴冠式でのジャンヌ・ダルクを描いた絵がアングルの有名なジャンヌ・ダルクの絵です。

他にも、シャルル6世が頭に王冠を載せてもらうときに、横で旗と剣を捧げ持つ絵もあります。この頃のジャンヌ・ダルクは「救国の聖女」と呼ばれたのですがね・・・

聖女と呼ばれたのにその後、王、貴族たちの都合で聖女から魔女へ変換されてしまいましたね。シャルル7世にもう少し、勇気と力が備わっていたら歴史が変わっていたかもしれません。

ランスといえば、シャンパンの街!多くのシャンパンメーカーの拠点があります。シャルル7世の名前をつけたシャンパンもあります。ロゼシャンパンも作られています。

その何恥じないシャンパン、そういう評価です。是非飲んでみたいですね。

高級シャンパンですが、ドンペリよりは高額でななさそうです。

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