ルートヴィヒ2世はバイエルン王でした。その美貌がいまでも話題です。美貌のみでなく、その行動も話題でした。
作曲家ワーグナーを贔屓して、城造りに情熱を燃やした王。
最後は、狂王と言われ、謎の死を遂げました。
ルードヴィヒ2世が心を許したのはエリザベートただ一人。
オーストリア皇后でルードヴィヒ2世の従兄弟です。
ここではルートヴィヒ2世の生涯をたどってみましょう。
ルードヴィッヒ2世、バイエルン国王、その家系図は?
ルートヴィッヒ2世、バイエルン国王に即位
ルードヴィッヒ2世(在位1864~1886)はバイエルン王国の国王でした。
ルードヴィッヒが2世として即位した時は19歳。
当時のヨーロッパ中で一番美貌の王と言われまいた。
190センチほどある長身で体型もすらりとしており、現在に残る写真から見ても相当なイケメン・・・というより本当に美形です。
多分ヨーロッパ中の姫君たちが、こんな君主なら嫁ぎたい、と思ったかもしれません。
ルートヴィヒ2世の家系、ヴィステルバッハ家とは
バイエルン王国の血筋はヴィステルバッハ家といい12世紀後半に端を発する古い家系です。
かつては神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ選挙権がある由緒ある家系でした。
19世紀初頭、神聖ローマ帝国解体と同時に神聖ローマ帝国から離れてバイエルン王国となりました。
ちなみにバイエルンという名前は、ヨーロッパ言語によりいろいろな呼び方から来ています。
英語ではBavaria(バヴェアリア)、イタリア語ではBaviera(バヴィエーラ)、フランス語ではBaviere(バヴィエール)という具合になります。
フランス語で「バイエルンの」とか「バイエルン人」という形容詞がバヴァロワとなります。そうです、お馴染みの口当たりの良いお菓子の名前ですね。
またバイエルンは「バーバリアンの国」、つまり野蛮人の国、を語源としています。
野蛮人とは昔のケルト系、あるいはゲルマン系を指しました。
ドイツ系はゲルマン人のルーツと言われてますが、ゲルマン民族の大移動で通っていかれた国にとっては蛮族に思えたのでしょうね。
ルートヴィッヒ2世とエリザベート
ルートヴィヒ2世、エリザベート、いとこ同士
ルートヴィッヒ2世とエリザベート(のちのオーストリア皇后エリザベート)は同じヴィステルバッハ家の一族として生まれました。
エリザベートとは、ミュージカル「エリザベート」の主人公です。
ルートヴィッヒ2世の方がバイエルン王国をつぐ主流で、エリザベートの方は王族でした。
ルートヴィッヒ2世の曽祖父マキシミリアン1世の2番目の妻の孫がエリザベートです。
ルートヴィッヒとエリザベートは8歳違いで、エリザベートの方が年上でした。
二人は性格が似ていて、話や好みがよく合いました。二人とも保守的なものが嫌いで、自由に議論する、ことが好きでした。
父親マキシミリアン2世の厳格な教育方針の元で育ったルートヴィヒ2世でしたが、その反動でしょうか?実際は夢見がちな少年に育ちました。
ルートヴィヒ2世、エリザベートに恋を
そのため、天真爛漫で美しいエリザベートに憧れにいた思いを抱いていました。
ルートヴィッヒ2世の父親は、キリスト教の新教の一つであるカルヴァン派を信仰していたために息子、ルートヴィッヒ2世に厳しくありました。
カルヴァン派の教えの影響の女性観は、理想を追求するのもでした。つまり女性は「聖処女」のようでなければならないと。
そのイメージは生涯ルートヴィヒ2世について回ります。
生身の女性はルートヴィッヒ2世にとって、恐ろしい存在でした。
しかし、エリザベートだけは生身の類に入らず、崇拝の対象であり続けた存在でした。
ルートヴィヒ2世、エリザベートに失恋?
エリザベートが16歳でオーストリアに嫁ぐことが決まり、ルートヴィッヒ2世は悲嘆にくれました。
しかしこのころのルードヴィッヒ2世はまだほんの子供で、子供らしい初恋に敗れただけにしか見えませんが、ルートヴィッヒのこの想いは生涯続きます。
エリザベートは里帰りする度にルートヴィッヒ2世と会います。
その時はエリザベートはウィーン宮廷の堅苦しさに疲れ、ルートヴィッヒと芸術、文学の話をして心を癒します。
ルートヴィッヒの方も、エリザベートと心を通わせることを、楽しみにしていました。
しかし、ルートヴィッヒ2世よりもエリザベートの方が少し思慮深かったのでしょうか?
エリザベートは、いつまでも自分にしか心を開かず、王位についてもなかなか結婚しようとしないルートヴィヒ2世が心配になりました。
「あなた以外の人を愛せない」というルートヴィッヒ2世の言葉にも戸惑うばかりです。
これまでは子供時代の一途な初恋、で見過ごせても、成人になてもこれではちょっと困る・・・
ルートヴィヒ2世、結婚か
そこでエリザベートはルートヴィッヒ2世に自分の妹ソフィーとの結婚を勧めます。
家柄的にもまさに理想的で、周囲も喜びますが、結局この結婚話は立ち消えになりました。
ソフィーの方がルートヴィッヒ2世の心が自分の元にないことに気がついてしまったのです。
それに、ルートヴィッヒ2世の方もそれほど気乗りではなく、延期を続けているうちに、消滅してしまいました。
ルートヴィッヒ2世がエリザベートに言った、「あなた以外愛せない」という言葉は、愛、というよりも、女性というものを愛せない、の言い訳だったのかもしれません。
エリザベートは崇拝するのにちょうどいい対象だったとも言えます。
その後、ルートヴィッヒ2世には同性愛の噂がついて回ります。
ルートヴィッヒ2世のワーグナーへの寵愛
ルートヴィッヒ2世は15歳にワーグナー作曲の歌劇「ローエングリン」をみて深く感動しました。
まさにルートヴィッヒ2世が憧れ続けてきた夢の世界、そのものに見えたからです。
ルードヴィッヒ2世は即位時の誓いに、芸術の発展に務めたい、と宣言しました。
実現への一歩が、リヒャルト・ワーグナーです。
作曲家ワーグナーは素行に問題ありで、借金、指揮者の妻と不倫するなど悪評だらけでした。
それなのにルートヴィッヒ2世は、音楽が気に入ったというだけで、ワーグナーに高額な年金を支給、住居として豪華な邸宅を提供するなどの寵愛を示しました。
またワーグナーの壮大すぎて上演が難しいと言われていた「ニーベルングの指輪」、「トリスタンとイゾルデ」のための劇場をルートヴィヒ2世に頼み込んで、建築、その後の上演まで果たしました。
ルートヴィヒ2世は、これら楽劇を観賞し、涙にくれるほど感激したのですが、実は莫大な費用がかかっていたのです。
ワーグナーはさらにルートヴィヒ2世からより多くの援助を引き出そうとしていました。
国民は、国王の特定の人物への偏愛ぶりを見て、心配と反感を感じました。
危機を感じた政府は、ついにワーグナーの国外追放を決定して、ルートヴィッヒ2世は、渋々、了承しました。
しかしワーグナーはルートヴィヒ2世を、芸術性のわかる優れた君主として尊敬していました。
ルートヴィヒ2世とワーグナーとの出会いがあったからこそ、ワーグナーは数々の神話に基づいた壮大な楽劇を作ることが出来ました。
ルードヴィッヒ2世の熱烈な応援があったからこそ、今日私たちは「バイロイト音楽祭」を楽しむことができるのです。
ルートヴィヒ2世、城への情熱!
ルートヴィヒヒ2世は、ワーグナーを音楽だけでなく、その世界もとても愛していました。
「ローエングリン」や「トリスタンとイゾルデ」は中世騎士の物語ですが、その世界も現実の再現させたい希望がありました。
へレンキームゼー城
フランスの太陽王と呼ばれたルイ14世に心酔したため、ヴェルサイユ宮殿のような城を建設したいと思っていました。
ヴェルサイユ宮殿そっくりに、と思って作った宮殿がヘレンキームゼー城です。
バイエルン州(ドイツ)にあるキーム湖に浮かぶ島ヘレン・インゼルに建設しました。
宮殿内にはルイ14世に敬意を込めて「新しい宮殿」と呼ばれる建物を建てました。建物そのものがまさにベルサイユ宮殿のコピーです。
もちろん「鏡の間」もあります。
鏡の間の様子は本家のヴェルサイユ宮殿のそれより長く作られました。
しかし城内の70ほどある部屋のうち、ルートヴィヒ2世存命中は20部屋しか完成されておりません。残りは今も未完成です。
ルートヴィヒ2世といえば、誰もがこれと思い出す城があります。
ノイシュヴァンシュタイン城
このお城こそまさにワーグナーの世界を盛り込んだ城でした。
「新白鳥の城」、という意味ですが、まさに白鳥の騎士ローエングリンのイメージそのものです。
城内には至る所に白鳥のモチーフが散りばめられています。白鳥の形をした手洗い、ベッドのポールにも白鳥の彫刻があります。
騎士の間、なんていう広間もあり中世色満載ですが、機能的には結構近代的な設備が整っています。
セントラルヒーティング、温水の使用ができます。各階に水洗トイレも備わっています。
またキッチンではグリルが当時の最新式でしたし、窓枠も鉄枠であるなど、現在でも住もうと思った住めそうです。
残念ながら、ルートヴィヒ2世がノイシュヴァンシュタイン城に住んだのは短い期間でした。
ですから見学すると、古びた感じがせずにとても綺麗です。
しかし、どの城も建設費が莫大にかかりました。
国庫を傾けるほどかかったにも関わらず、さらに借金までした有様ですから、国の財政は完全に破綻していました。
ルートヴィヒ2世の浪費ぶりは、大ブーイングが起るほどの支出で、政府および国民は困り果てました。
ルートヴィヒ2世の城、今では観光スポットに
しかし現在では大切な観光資源となっています。
ドイツ旅行ではノイシュヴァンシュタイン城見学を抜かしては語れません。
また、ディスニーランドのシンデレラ城のモデルになりました。
それほどルードヴィヒ2世の美的感覚が素晴らしかった、そう言えます。
ルートヴィッヒ2世、狂王と呼ばれる晩年
ルートヴィッヒ2世は狂王とも言われます。その行動に異常性が見えたからです。
以下のところが当てはまります。
- 人との関わり合いを避け、音楽、城建設に固執するところ。
- ルイ14世に憧れ、ルイ16世、マリー・アントワネットを友とするなどの妄想を抱いて、彼らを招く晩餐会を開き、まさにいまそこにルイ14世達がいるかのように振る舞う。
- 夜中にソリの騎行を習慣にする、それも真夏でもソリを出させる、など常軌を逸した行動が目撃されています。それらの行動は周りの者を不安にさせました。
その頃になると、ルートヴィヒ2世は昔のすらりとした体型は何処へやら、太って巨漢になってしまいました。
性格も年とともに気難しくなってきていました。
周りの召使いにもキツく当たります。
そこで、世話はもっぱら馬丁兼従僕の人物だけでした。
その侍従は気が利いて、ルートヴィヒ2世によく仕えていたそうです。
しかし、お気に入りだった侍従も、大理石像の注文を資金不足から石膏に変えたことで、王の不振を買い、解雇されてしまいました。
ルートヴィヒ2世の以上の行動をみた政府関係者や側近たちは、王のことを、精神に異常が現れ、王としての職務が遂行できないと判断しました。
1886年6月、ルートヴィヒ2世廃位の決定が下されました。代わりに叔父が摂政となりました。
ルートヴィヒ2世、幽閉される
ルートヴィッヒ2世は廃位決定の後、滞在していたノイシュヴァンシュタイン城から、ベルク城に移され幽閉されます。
そして外から鍵をかけた部屋に閉じ込められてしまいました。
主治医はベルンハルト・フォン・グッテンといい、ルートヴィッヒ2世のカルテを書きました。
この報告書はルートヴィッヒ2世の後の政権によって書かれているので、真実は不明のままです。
ルートヴィッヒ2世本人は、異常ではない、と言い続けていましたが、聞き入れられることはありませんでした。
ルートヴィヒ2世、死因の謎
ルートヴィヒ2世の失踪と遺体発見
ルートヴィッヒ2世幽閉が1886年6月11日、その2日後6月13日午後4時半のことです。
ルードヴィッヒ2世と医師グッテンは、雨上がり、ベルク城近くのシュタルンベルク湖畔の散歩に出かけます。
「8時までには戻る」と告げていました。
しかし、いつになっても帰ってこない・・・逃亡か?
すぐさま大規模な捜索が行われました。
ルートヴィッヒ2世のものと思われる帽子と上着、医師グッテンの帽子が発見されました。シュタルンベルク湖のほとりです。
湖にボートを出して見つかったのが、ワイシャツ姿のルートヴィッヒ2世の遺体、そして医師の遺体・・・
医師グッテンの首には絞められた跡がありました。
どうやら、ルートヴィッヒ2世に絞められたようです。
ルートヴィヒ2世の方はのちの検視報告では心臓発作である、と判明しました。
ルートヴィヒ2世の死の推測
事故説、発作が起きたルートヴィヒ2世が暴れて医師を考察してそのまま心臓麻痺で死亡。
逃亡説、逃げようとして医師ともみ合い、絞殺して逃げる途中で心臓発作。
ルートヴィッヒ2世の当時の肥満した体型、運動不足で心臓が弱くなる、そして冷たい水での急な水泳、など考えると、心臓発作は免れなかったでしょう。
ルートヴィッヒ2世の死はいまでも謎が明かされていません。
シュタルンベルク湖畔には礼拝堂が、ルートヴィヒ2世遺体発見の場所にはいまでも十字架が湖の真ん中に建てられています。
その十字架そして周りの風景を眺めると一層、ルートヴィヒ2世の心の奥の哀しみが聞こえてくる感じがします。
森鴎外の推測
小説「うたかたの記」でルートヴィッヒ2世の死の話を書いています。
ルートヴィッヒ2世は散歩の途中でした。
そこを通りかかった船に、昔想いを寄せた女性が船から落ちるところ救おうとして、自分も溺れてしまいます。
実はその娘は、想いを寄せた人の娘だったのでした。
それは昔、ルートヴィヒ2世が好きになった女性を幸せにしてやれなかったことへの後悔が入っています。
そこには、エリザベートへの想いも、同性愛だったかもしれないという内容は全く感じられません。
しかし、こんな見方があるのも面白い。
森鴎外の小説家としての手腕には天才的と思えます。
ルートヴィヒ2世のストーリーは、いつになっても人々の心に訴えかけてくるところがあります。
ルートヴィヒ2世の映画「ルートヴィヒ」
「ルートヴィヒ」で有名な映画は、1972年。2012年の映画です。
2012年の映画はワーグナー西端200周年を記念して作られた映画で、内容もワーグナーとの交流を主に描いています。
1972年の映画は日本公開当時、「神々の黄昏」と副題がついていました。
ワーグナーのニーベルンゲン4部作の最終作品「神々の黄昏」との引っ掛けでつけたタイトルのようです。
楽劇最終章で、神々の宮殿であったヴァルハラが炎上陥落するところをルートヴィヒの死によってバイエルン王家が崩壊に向かう、イメージを作りたかったのではないでしょうか?
ですが実際の映画に入っていないタイトルでがやはり違和感があるということで、のちに復元版を作るときに、副題はとったようです。
監督ルキノ・ヴィスコンティで、耽美的な王としてルードヴィヒ2世を描いています。
年とともにだんだん太っていく様子にリアル感があります。イタリア語の映画です。
1972年、2012年のルートヴィヒ2世の俳優は、どちらも美しいのが特徴です。
近年稀に見る美貌の王だったために、より人々の注目を集めた王だったからでしょう。
ルートヴィヒ2世が作った城の数々、ワーグナーへの陶酔そして出来上がった作品・・・
ルートヴィヒ2世のやったことを見た場合、「狂った」と見るか、純粋な芸術に対する賛美か?これに結論はありません。
ただ近代国家の王であるには心が純粋すぎたのでしょう。
これがもう少し前の、たとえばルイ14世時代なら、城造りが好き、音楽家のパトロンといった行動も許される行動でした。
ところが庶民の時代になりつつあった19世紀では、王が個人的な好みを追求することは許されないことです。
王様は夢見続けることができない世の中になってきました。
そんな過渡期を、王として生きづらい世の中を必死で、生きた王の悲しい物語。
映画では、ルートヴィヒ2世の悲しい、苦しい人生を生き生きと表現しています。
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