大河ドラマで涙を誘った副田甚兵衛とあさひの別れ。
しかし史料をたどると、「美談」の裏に意外な真相が隠れていました。あなたはどちらを信じますか?
ここではその真相を、探ってみました。
副田甚兵衛のその後
豊臣秀吉からの命令で、副田甚兵衛は妻・あさひの元を去ります。
秀吉から、副田甚兵衛はあさひと別れる代わりに、金銭あるいは、領地を与えられることになったのですが、甚兵衛は断ります。
言い伝えでは、副田甚兵衛は、5万石の加増(給料が多くなる、というもの)が提供された、が受け取らなかった、ということです。
「豊臣兄弟」では、但馬領地を与える、となっていましたが、但馬を代償につかうつもりだった、という話は、史実にはなくドラマの創作です。
それは、以前「豊臣兄弟」で織田信長の弔い合戦の時に、但馬の城(多伊城)にひっかけた番組に再登場させてました。
江戸時代中期、国学者で尾張藩士・天野信景(あまのさだかげ)が記した、随筆集「塩尻」(しおじり)では、
あさひと離縁する見返りとして示された5万石贈与の申し出を断って、一人去ったのち、尾張国烏森村で、出家し隠棲生活を送った、とあります。
「改正三河後風土記」、「武徳編年修正」などには、秀吉に強制的にあさひと離縁されたことを悲観して、自害した、という文章が見られます。
しかし、自害したのは副田甚兵衛ではなく、もう一人のあさひの夫だった、と言われる佐治日向守(さじひゅうがのかみ)という名前が書かれています。
佐治日向守は、「自害」の件でしか登場しない名前なので、私は自害説は考えなくてもいいと思います。
副田甚兵衛の最後
史実を記した書物には、副田甚兵衛の最後を書いてあるものは見つかっていません。
というより、生年や没年も不明です。
確認できるものが一つだけあります。
それは、副田甚兵衛が、あさひと離縁した後に迎えた養子・秀綱(ひでつな)の存在から見えてきました。
その秀綱が、養父の位牌を作り、その位牌が添えだけの子孫に、伝えられています。
それによると、死亡の年が、1615年あたり、と書かれています。
江戸時代後期に書かれた、『尾張志』という、尾張一帯の地理・歴史を記録したものには、
副田甚兵衛はあさひと別れた後、出世の申し出など拒み、出家し引退する生活を続けて。歴史の表舞台から消えていった、という伝承がある、と書かれています。
『改正三河後風土記』には、妻と無理やり離縁させられた悲しみ、怒りから自ら命を絶ってしまった、とあります。
この史料は江戸時代後期に作られたものなので、脚色が多い、というのが今日の研究です。
しかも、その夫の名前が、佐治日向守となっているから、信頼性はうすいです。
江戸時代の人たちは、お涙頂戴的な人情ものが好きだったから、こんな伝説ができたのかな?と私は思いました。
副田甚兵衛は、ひっそりとこの世を終えた、というのが真相ではないか、と私は推測しています。
副田甚兵衛の離縁の真実は?
大河ドラマでは、あさひと副田甚兵衛の別れの話は、視聴者を悲しみに誘いますが、最近の研究では、甚兵衛・あさひの離縁は、もっと前にあったのではないか?と考えられ始めています。
副田甚兵衛、すでに離婚していた?
江戸時代前期の史料「武家事紀」や「多伊城陥落」という記録によると、
本能寺の変(1582年)で、信長の仇討ちに家臣が、明智光秀を追った時、副田甚兵衛が多伊城(豊臣秀長の領地・但馬国にある)を預かっていた。
ところが、城を守るはずに副田甚兵衛は、一揆に城を奪われてしまう、という大失態を犯したのでした。
副田甚兵衛の不甲斐なさに、豊臣秀吉は、大激怒して、妹のあさひと離縁させてしまった、というのです。
しかし、その後の副田甚兵衛の働きを見ると、1582年に織田信長の京都・大徳寺での葬儀で葬儀奉行を任される。
1583年、「賤ヶ岳の戦い」の後、敵の将軍の1人、佐久間盛政(さくまもりまさ)を京都までの護送係を言いつけられた、という記録があります。
ということは、離縁されながらも、豊臣家の元で働き続けたということになります。
副田甚兵衛、徳川との縁談のため離縁、という話になったのはなぜ?
すでにあさひが離縁していたなら、徳川・豊臣の結婚にななんの問題もありません。
しかしここで涙の感動話になったのは、物語として面白かったから。
城をうまく守れなくて、離縁された、という話は、なんともカッコつかない話です。
事実が変えて伝わった理由の一つに、徳川家をよく見せる、という意味があったことです。
あさひと家康の婚姻は、家康と秀吉の会見を実現させるための友好策として持ち出されたのですが、
徳川の歴史としては、秀吉の方が、自分の妹をすでに結婚している夫と離縁させてまで、家康と会いたいと思った、ということを強調したかったためなのでした。
離縁を打診された副田甚兵衛は、見返りの5万石も、他の褒賞もいらない「妻を撃ってまで欲しくない」という美談に、話が作り替えられていきました。
徳川への嫁入りのため、あさひが副田甚兵衛と別れることになった話は、「徳川実紀」に見ることができますが、
「徳川実紀」はあさひのいた時代より100年以上経って作られた文書なので、豊臣には不都合な真実、に書かれている史料です。
「無理やり離縁」という話が出来上がった背景には、実際の、江(ごう、茶々の妹)の政治的離縁の事実がありました。
あさひの話、江の話がシンクロしてしまったのだな、と私は感じました。
副田甚兵衛の再登場はある?
副田甚兵衛は、あさひと別れたことで、一旦はステージから降りたように見えますが、今後はどうでしょう?
オープニングにこれからも名前が乗ることがある、という噂はあります。
もし、過去の大河ドラマ『女太閤記』や『功名が辻』のような結末が用意されていたら、再登場の可能性はありますね。
副田甚兵衛・役者たち演じた役者たち
豊臣一族を主人公とした、大河ドラマでは何回か、副田甚兵衛は登場しています。
つい3年前の、『どうする家康』には、副田甚兵衛さんは出てきませんでしたが、苦しい中にも笑顔を作るあさひが印象的でした。
今の「豊臣兄弟」の、前原瑞樹さんも、印象を与えた甚兵衛絵役でしたが、それ以外の役者さんを挙げてみました。
副田甚兵衛、野口五郎の場合
『功名が辻』(2006年)では、野口五郎さんが副田甚兵衛役にキャスティングされていました。
野口さんご本人も、副田甚兵衛役をやりたかった、とご本人のSNSで書かれています。
今でも、『功名が辻』の、あさひと甚兵衛の最後のシーンを思い出して、感動を思い出すファンもいるということを、SNSで目にします。
『功名が辻』では、主人公・千代が落ちぶれた副田甚兵衛を見かけ、千代の活躍で、病床のあさひと会うことができ、あさひは甚兵衛の元で息を引き取るという結末になっています。
野口五郎さんは、人気のある歌手ですが、俳優業の活動でも「演技の幅が広い」として、好評を得ています。
副田甚兵衛、『女太閤記』の場合
『女太閤記』は1981年で、橋田壽賀子の脚本で、西田敏行さんが秀吉。佐久間良子さんがねねで、人気があった、大河です。
『女太閤記』の副田甚兵衛は、せんだみつおさんに、あさひが泉ピン子さんでした。
こちらも涙を誘うシーンでした。
夫・甚兵衛が別れた後、旅芸人になって、あさひのもとに現れたこと、病死したあさひの葬列を、雪の中、1人ひっそりと見送るシーンが描かれていました。
どの演出も、フィクションなのですが、秀吉の手による副田甚兵衛とあさひの離縁は無謀だ、と視聴者の誰もが感じたことを、救いのあろう形で決着をつけた、見せ場作りだと私は思いました。
まとめ
副田甚兵衛は、豊臣秀吉の妹・あさひの夫です。
秀吉の命令で別れたあと、5万石をもらえる話を断り、出家してひっそり暮らした、という言い伝えがあります。
自害したという話もありますが、それは別人の佐治日向守の話で、信用できないと私は思います。
さらに最近の研究では、甚兵衛は城を一揆に奪われた失敗で、すでに離縁されていたとも言われています。
涙の美談は、徳川家をよく見せるために作られたのかな、と私は感じました。
なお、あさひについては、ぜひこちらもお読みください。

コメント