お万の方、「どうする家康」に登場です。
お万の方は、徳川家康の側室です。二人の間に生まれた子供は、結城秀康と言い、初代越前福井の藩主です。
お万の方は家康の出会いの湯殿(でした。
お万の方は、幸せな人生を送ったのでしょうか?
お万の方と子供
お万の方は、浜松城を出されて、家康の家臣の手配で、代官の中村家に預けられました。
お万の方は双子を産んだ?
そこで産んだのが双子。1574年のことです。
双子は当時は縁起が悪い、とされていました。
今とは全く事情が違うので、武将の家ではどちらが跡目を継ぐかで、問題が起こるからです。
双子の一人、兄が結城秀康。
もう一人が永見貞愛(ながみさだちか)と言い、母、お万の方の実家、神職を務める永見家に引き取られて知立神社(ちりゅうじんじゃ)の神主になった、と言われています。
断言できないのは、双子だったため、家康が実子と認めず、幼いうちに死んだということにされていたからです。
ただ、「永見氏系譜」に載せられているところから、家康の子、ではないかと考えられています。
貞愛は、1604年、31歳で死去しました。
兄、結城秀康も34歳で亡くなっていますから、短命の兄弟だったのでしょうか・
お万の方の子、長男「結城秀康」
お万の方の産んだ、双子の長男が、結城秀康(ゆうきひでやす)です。
子供の頃は於義伊(おぎい)と言いました。
言い伝えでは、於義伊は生まれた時、胎児を包む膜に葵の紋がついていた、ということだそうです。
葵は、後世の創作の疑いが強いです。
家康は於義伊に3歳まで会おうとしませんでした。
面会した後でも、特に情はかけなかったようです。やはり側室を認めなかった築山殿に遠慮してのことです。
家康の長男であった、松平信康が、武田への内通の容疑で切腹させられました。
徳川にいた男子はこの時点で於義伊だけでしたが、それでも次男として認められませんでした。
双子であったがための、不吉さを感じていたかもしれません。
お万の方の子供、於義伊のその後
1584年、小牧・長久手の戦い後、豊臣秀吉と和睦を結びました。
双子の長男、於義伊は和睦のしるし、人質として、豊臣家に渡されました。
秀吉は、本当は、於大の方の三男(久松)定勝が欲しかったのですが、於大の方が大反対をしたから、於義伊が人質となりました。
なんだか軽んじられているみたいで、かわいそうな気がします。
そこで、秀吉の養子になり、名前を「羽柴三河守秀康」(はしばみかわのかみひでやす)の名前をもらいました。
秀康は、優秀な人材だったようで、秀吉に気に入られました。
しかし、秀吉に子供ができたことから、秀吉の養子時代は終わりを告げました。
今度は結城家に行きましたが、ここでは娘婿の待遇です。
やがて家康の家臣と認められ、越前福井藩初代はこうして誕生しました。
お万の方と徳川家康と湯殿で出会う!
お万の方と家康の出会いは、湯殿(風呂場)だった、これが今に伝わる話です。
風呂場では湯女(ゆな)をしていました。
どんな仕事かというと、ご主人の入浴中、背中を流すことでした。「どうする家康」では髪の手入れもしていましたね。
湯女というと、女中でもどちらかというと位の下の人の仕事です。
それでも家康は気に入ってしまったのでしょうね。
御湯殿(お風呂)係の女性を気に入って手をつけてしまう殿様の例は、時々あります。
有名なのは、徳川吉宗のお母さんでした。
どうも入浴最中というのは、気持ちがたかぶることがあるらしい・・・?
いや、それとも、殿様の心理状況を考えて・・・側室になるようわざと工作することがあったのかもしれません。
お万の方と徳川家康、出会いの馴れ初め?
徳川家康の側室となった女性、お万の方の身の上はどうだったでしょう?
お万の方は、愛知県知立の神主の娘でしたが、戦争に行く途中、立ち寄った家康にみそめられ、縁組を約束された、という伝説が残っています。
その時、お万の方はまだ2歳でした。その頃から美人になる相でも出ていたのでしょうか?
2歳の娘に・・・プロポーズなんてするでしょうか?
伝説であるかもしれないし、戦国時代の結婚の約束は生まれた時から結ばれることもあり、よくある話、だったかもしれません。
後にお万の方は城に上がり、家康の正妻、築山殿(つきやまどの)ところで働き始めます。
実際はお城に上がるようになって、初めて出会った、というのが正しいでしょうね。
お万の方、家康に出会う前は・・・
お万の方は、城勤めをするきっかけはなんだったのでしょうか?
神主の娘、と言いましたが、勤めに出た、というには二つの理由が考えられます。
- 一つ、実家がそれほど裕福ではなく、自分で食べていくために勤め口を探す。
- もう一つは、神主の娘という比較的家柄の良い娘だったために、城の正室様(この場合は築山殿)のもとで、奥女中として抜擢された。それと同時に城で行儀見習いも兼ねた。
ですが話の展開を考えると、入浴の世話をする、などとした働きの仕事をしたところから、前者、自分で食べていくため、という方が正解でしょう。
それ以外にも築山殿のそばで仕える仕事もあっても不思議ではありません。
当時は、城主とその家族といっても、まだまだ生活は素朴で、殿様の奥方様といっても城の世話をしていた世の中ですから。
お万の方も、どんな仕事でもこなす女中だったと想像されます。
ここからお万の方の必死だった時代が見えてきます。
お万の方は、築山殿に間近に女中であった頃もありました。
正室様の近くで仕えたということは、容姿が良い、気が利く、という良い点がたくさんあったのでしょう。
そんな見た目と心映えの良い女性が、湯殿に・・・、家康の心はお万の方に惹かれたのだと思います。
しかし・・・・お万の方が妊娠してしまったから、一大事。
家康は最後まで、「知らぬ、存ぜぬ」で通しました。
徳川家康の心のうちはわかりません。
本当に自分の子供と信じたくなかったのか、また築山殿に気を使ったのか?
それともお万の方に、築山殿の怒りが降りかかるのを止めようとしたのか・・・?
とにかく家康は、否定します。
家康は逃げた?と言われても仕方ありません。
「築山殿に遠慮した」、「知らないということで、築山殿からお万の方へのあたりが柔らかくなる」など、家康としては言い訳があったのでしょうね。
お万の方と築山殿は仲が悪い?
かたや奥方、かたや側室・・・仲がいいわけありませんね。
お万の方、築山殿からの折檻はあったのか?
築山殿は家康とお万の方の仲を確信し、お万の方に非常に厳しく当たります。折檻したとも・・・
折檻の話は、18世紀に書かれたとされる「柳営婦女伝叢」(りゅうえいふじょでんけい)に載っています。
この書物は、江戸時代の将軍家の正室や側室、乳母といった女性をエピソードや生まれを描いたものです。
また、湖西市の風土記に、お万の方に対する築山殿の虐待の話が伝わっています。
その文書には、築山殿はお万の方を捕まえて、着物を剥ぎ取って、木にくくりつけた、とあります。
確かな証拠はないのですが・・・
築山殿はこの時期は岡崎城にいました。一方、お万の方は浜松城にいました。
築山殿が浜松城に行かないと、できない行動でした。
浜松城まで行ったかもしれませんね?
お万の方事件から築山殿は「悪女」、「嫉妬深い女性」、というレッテルが貼られてしまいました。
お万の方に築山殿は理解を・・・「どうする家康」の場合
それにしても「どうする家康」の築山殿はとても優しい方ですね。
これまで知られていた話では、「築山殿がお万の方を木に縛りつけた」、のですが、「どうする家康」ではお万の方が自ら自分を自分で縛り、きにくくりつけて、一生懸命築山殿に謝る、というものでした。
それをみた築山殿は、お万の方を罰することはせずに、「子供に罪はない」と言います。
一致する箇所は「縛りつけた」という行動だけです。
築山殿の鬼嫁説は、後世に作り上げられた創作かもしれない、と言われていますので、「どうする家康」はその隙をついた、あっぱれな脚本といえます。
徳川家康、お万の方を正式な側室に
お万の方はしばらく家康の側室としては認められませんでした。
家康が、築山殿の怒りが怖かった・・・というのではなく、側室を決める決定権が正妻にあったからです。築山殿がOKを出さなければ、側室にはできなかったのです。
築山殿が、お万の方につらく当たった、というのは単なる嫉妬心からではなく、正室としての権限を見せたものでした。
側室にするかどうかだけではなく、子供を妊娠しても良いか、産んでも良いかを決めるのも正室の役割でした。
側室になること、子供を持つこと、築山殿が認めなかったために、お万の方は城から追放されました。
お万の方が正式に、家康の側室と認められるようになったのは、家康の長男、松平信康が切腹させられ、築山殿が謀反の罪で処刑された後のことでした。
生まれた子供も、家康の次男と認められました。
しかし、そのころはお万の方は家康とは会うこともない生活を送っていました。
お万の方の生涯
お万の方生涯、子供時代
お万の方は、三河国の神主の娘として生まれました。(1548年〜1626年)
神社の名前は「池鯉鮒神社」(ちりふじんじゃ)。今では知立(ちりゅう)神社と言います。でも家康の時代は「池鯉鮒」とかいて「ちりゅう」と読んでいたようです。
父である神主の名前は、永見貞英(えいみさだひで)、母は水野忠政(みずのただまさ)の娘、と神社の記録にはあります。
水野忠政も娘というと於大の方(おだいのかた、家康の母)の娘です。
ということは、家康とお万の方は従姉妹となりますね。
お万の方の名前は、子供の頃は、「万」、「於古茶」(おこちゃ)、小督局(こごうのつぼね)とたくさんの名前を持っています。
一番よく呼ばれていた名前は「於古茶」でした。
お万の方、出産後
お万の方は、家康の元を離れた後は、家康家臣、本多重次の助けを借りて、中村正吉の家に世話になり出産します。
そのまま、しばらく中村家で過ごしています。
その後は、息子、結城秀康の元に行きます。
ただ、その時期がいつなのか特定できる資料がありません。
多分、秀康が結城家の当主になったあたりからかと、思われます。
当主になると、息子もある程度、自分の好きなように行動できるからではないでしょうか?
お万の方、長松院となって
息子、結城秀康が、34歳で亡くなった時に出家して、長勝院(ちょうしょういん)となります。
長松院というように、「院」の法号を与られる人物は、身分が高いことの証明です。お万の方は、この頃にはかなり身分的に、認められた人物になったということです。
その時は、北ノ庄に(福井県)移っていました。
72歳まで生きました。
自分の人生のうち半分近くは、出家生活となりますね。なにしろ出家を決意したもの、家康に相談しないで自分一人決めましたから。
かなり寂しい生活だったのではないでしょうか?
それでも、家康に、時代に振り回されながらも、最後は寂しいながらも穏やかな生活だったのではないでしょうか?
子供には大事にされたようです。
家康に、子供がなかなか認知されない、という若い時は辛いこともありましたが、子供が成長し、一国の藩主となったのは、嬉しいことだったでしょう。
晩年は、ある程度幸せだったと思われるのです。
法名、長勝院松室妙載大姉。
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