夏目広次・・・「どうする家康」で壮絶な最期を遂げました。家康の身代わりは本当だったのでしょうか?
家康はいつも、名前間違えしていましたね。意味が隠されているのでしょうか?
夏目広次の最期を悼んだ碑があります。石碑には何が書かれていたのでしょう?
夏目広次の子孫は夏目漱石ということです。本当のことでしょうか
夏目広次、「どうする家康」で身代わりは本当か?
夏目広次、身代わりか?
夏目広次は、大河ドラマ「どうする家康」で壮絶な死を遂げました。
絶体絶命に陥った、主君と徳川家康の身代わりとなったからです。では本当に身代わりになったのでしょうか?
徳川家康を戦場から逃がそうとして、身代わりになって死んだ、これは本当です。
「どうする家康」にあるように、家康の甲冑を着て、「我こそは家康!」と叫び、敵の中に飛び込んでいった・・・
忠義ぶりを占めるエピソードですが、これを伝える話が「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしょうしょかふ)という書物にしか見られないのです。
「寛政重修諸家譜」は江戸時代、(1700年代の後半)に書かれた、江戸幕府の手による、各大名家のことを記録した書物です。
当然、徳川家を盛って書いた記録の可能性は高いです。
しかし、夏目広次という武将が、家康を助けた。これは本当です。
夏目広次以外にも、家康の身代わりはいました。「松井忠次」、「鈴木久三郎」という名前も上がります。
家康にも武田信玄と同じように、影武者が何人かいたのかもしれませんね。
夏目広次、55歳の生涯でした。
夏目広次と三方ヶ原の戦い
夏目広次は、もともと三方ヶ原の戦いへの出撃組ではありませんでした。
留守部隊、残って城を守る役目でした。
浜松城から三方ヶ原まで、約10キロ。城の物見櫓から、状態を見て駆けつけた・・・
ということなのですが、10キロ先・・・戦争がどちらが勝っているか?わかるものでしょうか?
ちょっと無理があるような気がするのですが・・・
とにかく、浜松城から飛び出してきます。
何かおかしい・・・そんな勘が働いたのでしょうか?
浜松城と三方ヶ原間10キロ、と考えると、どのくらい時間がかかるでしょう?
例えばサラブレッドなら、人を乗せて時速約70キロ、しかし持続力は1時間ほどと言われています。
それなら、戦国時代の、サラブレッドではない馬、それも重い甲冑をつけた成人男子が乗ると、駆けつけるのに2時間ほどかかりそうです。
2時間もあれば、戦争の様子も変わってくるので、城預かりの人が自ら出向くのはあまり良い策とは言えません。
夏目広次、名前間違えの真実
「どうする家康」で夏目広次は、いつも、名前を間違えて呼ばれていました。
こんなことってあるのでしょうか?・・・実際はそんな間違えはなかったと思います。
何しろ、この時代、家臣を初め友人や兄弟のことも、元服名ではなく、通称、つまり「〜太郎」とか「〜三郎」で呼ばれます。
この夏目さん、「夏目次郎左衛門広次」がフルネームです。次郎左衛門が通称。
広次は諱(いみな)です。諱は父や主君からつけてもらった名前です。諱は忌み名とも呼ばれ、通常では使うことはありません。
信玄殿、信長様、という呼びかけも当時はなく、現代のテレビなどでわかりやすさのため使用しているに過ぎません。
使わないのが習慣なのに、いつも間違えて諱を呼んでいた。それは演出のためのフィクションです。
夏目広次、かつては「夏目吉信」と知られていました。それが年々研究が重ねられて、名前が「広次」であることがわかりました。
それ以降、「広次」と呼んでいます。
「どうする家康」では、どっちらかに決着がつけきれていない名前を、わざと家康に間違えさせることで、両方があった可能性を出しているのかもしれません。
夏目広次の最期
夏目広次の最期が描かれている書物といえば「寛政重修諸家譜」です。
その本によると・・・
夏目広次が、三方ヶ原の戦場い駆けつけた時・・・徳川軍はほとんど「負け」でした。
家康に出会えた夏目広次は、なんとしても家康を浜松城まで戻そうとします。
しかし、家康はガンとして聞きません。ここで討死も覚悟していると・・・そう家康は告げました。
大将が、いなくなっては元も子もない・・・馬を叩いて、家康を城に返します。
自分は、25、6名の兵士を連れて敵の中に飛び込んでいって、戦闘開始!
しかし他勢に無勢ででついに、ついに討ち取られてしまいました。壮絶な死、です。
「どうする家康」のシーンのように、首が取られたでしょう。
家康の甲冑を着ていたのなら、「家康」と武田は思ったことでしょう。
首をとっても、本当の家康かわかるのに時間がかかったと思います。
当時は人の顔はそんなに知られていませんでした。知った人を探して確かめるのです。
でも「どうする家康」の場合、信玄とは顔見知り出会ったようですので、すぐに知られたとは思いますけれどね。
夏目広次の石碑
三方ヶ原の戦いの後、徳川家康は、夏目広次の死に悲しみ、感動して、石碑を建てました。
その石碑を法蔵寺に建て、碑文には夏目広次の名前が「吉信」になっています。
法蔵寺は愛知県岡崎市にあります。
法厳寺には、夏目広次の墓もあります。
戦死して、武田側に連れて行かれましたが、徳川方に遺骸は返されたのでしょうか?気になります。
「どうする家康」の名前呼び間違えは、二つの名前が伝えられていたこと、に引っ張りたかったのでしょう。
現在、石碑は静岡県浜松市の「犀ヶ崖公園」の北面に立っています。
ここに建てたのは、徳川家達(とくがわいえさと)です。
徳川家達は、明治時代の人です。徳川家の16代当主(慶喜が15代目)となります。尾張藩出身の徳川家ではありません。
夏目広次は一向一揆に
夏目広次は、家康の忠実な部下、で有名ですが、生まれた時からずっと忠実だったわけではありませんでした。
1563年、三河一向一揆が起こると、夏目広次は一揆に加わりました。
多分、広次は一向宗の信者だったのでしょう。
一向宗は、「浄土真宗」ですが、一揆を起こした「一向宗」は浄土真宗に元から地域にあった宗教が一緒になった形の宗教です。
そのため、夏目広次も土着の信仰心を持っていました。
一向一揆で、夏目広次は徳川に捕まります。
本当は処刑されるはずだったのが、徳川の家臣たちの強い願いで、松平家の元で働きました。
その働きぶりが良かったのでしょう、徳川の家臣に戻ることができました。
「どうする家康」の中では、一向一揆のあと、叛逆の罪は「不問といたす!」と、反逆を許されました。
そこからは忠実な家臣であろうと精一杯努めました。
三方ヶ原での身代わりは、忠誠を尽くそうと思っていた夏目広次の想いだったのです。
夏目広次の能力は?
夏目広次が、「三方ヶ原の戦い」に至るまで、どんな活躍をしたか、記録がありません。
夏目広次の戦場での話は、1561年、家康に従って長沢城(愛知県豊川市)を攻める時の話が武勇伝として残っています。
長沢城を攻め落とした後、八幡村城を攻めたのですが、失敗に終わり、撤退します。
撤退では、夏目広次が、殿(しんがり)と呼ばれる一番最後を受け持ちました。
殿は敵の攻撃を交わしながら、大将を無事に逃す役目で、大変危険です。
殿を任される、ということは相当に力もあり信頼されている部下のあかしです。
ここでは夏目広次は、他の家臣と力を合わせて非常によく戦い、家康を無事に逃がしました。
家康は、夏目広次に非常に感謝して、脇差と呼ばれる小さな刀を褒美として与えました。名刀の噂の高い刀工、備前長光(びぜんおさみつ)の作でした。
戦争の褒章として刀をもらうということは、当時の武人にとって最高の名誉となります。
このまま、良い関係が続くかと思えば、この後に、夏目広次、一向一揆に参加という事件が起こるのでした。
忙しい人生だったようですね。
夏目広次の人生は、「名前を覚えてもらえない」影の薄い存在では全くなかった、ということです。
夏目広次の子孫は?!
「どうする家康」のHPでは、明治の文豪、夏目漱石が子孫らしいと書いています。
実際は、夏目一族には違いないのですが、夏目広次の直接の子孫ではありません。
広次は、長野の出身で三河に出て、松平家に仕えました。
一方、漱石の御先祖は、長野に残って、のちに武田家に仕えています。
ひょっとしたら、敵同士で三方ヶ原の戦場に出ていたかもしれません。
漱石の先祖は、武田氏が敗退した後は、小田原の北条氏、その後は家康の家臣のところに仕えたといいます。
漱石自身は、江戸時代に、牛込の町名主の息子として生まれました。この夏目家は元禄(げんろく)時代、江戸幕府から名主役をもらい、幕末までに5代続いていると言います。
漱石本人は、自分の家は、武田信玄の末裔である、と言っています。
それにしても夏目家の2者が、徳川家と武田家にいたとは皮肉ですね。
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