大岡越前とは?何をした人。名裁きホント?ソロモンに似て?生まれ。先祖。襖の模様。屋敷跡。お墓はどこ?高橋克典の活躍

2024年6月より、「大岡越前」時代劇ドラマのリメイクが、高橋克典を主演に、テレビ(BS)に登場です。

実際の大岡越前は何をした人か、奉行以外の働きを見てみました。

数ある名裁きは本当でしょうか?よく似た話もあるので、類似点から見ていきましょう。

番組に出てくる、襖模様にも注目していただきたいです。

ここでは大岡越前の、今日でも人気の秘密を解き明かしていきます。

大岡越前守とは?

大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)とは、これは名前?役職でしょうか?

「越前」とついているから、越前(現在の新潟県あたり)の国守のような名称かと

思いきや

奉行という役職に重みをつけるために、つけられた官位です。

豊臣秀吉の時代まで(関ヶ原以前)は、一つの役職に一つの名称でしたが、

江戸時代に入ると、だんだんと名称が足りなくなり、同じ名前でも何度もつけるようになりました。

「越前守」が何人いてもふしぎではありません。

後世の私たちにとっては、大変めんどくさい、そしてわかりにくくなっている制度ですね。

大岡越前、何をした人

大岡越前、といえば、町奉行、という回答がすぐに出てきますが、

それだけではありません。

いきなり南町奉行になって、ぽっかり出てきたわけではありません。

大岡越前、山田奉行から江戸町奉行に

では山田奉行の前の経歴はどうかというと、

スタートは、将軍 綱吉の時からでした。

1702年に幕府入りし、翌年に元禄大地震の復旧をおこなう仮奉行の一人になりました。

その後は目付(旗本などの、武士の名家の監察を行う役目)につき、この時、大岡越前は、有能だったようです。

目付の次が、山田奉行で、これは、江戸から離れるという意味で、遠国(おんごく)奉行と言われています。

遠国奉行の後は、江戸町奉行ですが、遠国→江戸 というのは当時の役人の進むコースでした。

大岡越前の場合は、山田奉行から江戸町奉行に進む速度がとても早かったのです。

ですから、大岡忠相は有能だった、と後世、推測されています。

時代劇のため、町奉行の大岡越前の名が知られていますが、

大岡越前の本当の力は、江戸の整備や行政面での活躍が、評価されています。

大岡越前、享保の改革で力を発揮

大岡越前がいた、将軍 徳川吉宗(とくがわよしむね)の頃は、享保(きょうほう)の改革を行った時代でした。

その中で、大岡越前が、江戸での仕事は

  • 江戸時代に多かった火災の対策として、火消し組合を作る、延焼を防ぐための家屋の改造
  • 小石川療養所(こいしかわりょうようじょ)の設立
  • 江戸近郊の治水の対策を行い、地方の活性化を助けた
  • さつまいもの栽培の普及

特に、火災対策は、幕府が大いに力を入れており、享保の改革の政策の一つでした。

さつまいもの栽培も、「享保の改革」の一つで、目的は飢饉対策でした。

飢饉が起こった時に、代用食物として使えるよう普及させました。

さつまいもは、その名の通り、九州で作られていた芋で、江戸時代中期、ちょうど吉宗の時代に、江戸で飢饉対策のため、注目されてきていました。

江戸時代の、普及があったからこそ、今日の私たちは、焼き芋が楽しめるののかな?と

大岡越前は大名に

大岡越前は、町奉行の後は、寺社奉行に任命されます。

これは町奉行を務めた奉行なら、経歴などにより寺社奉行に出世することはよくあります。

その後、1748年 大岡越前(忠相)70歳を過ぎて、三河国西大平(現在の 愛知県岡崎市)の大名になります。

石高(給料に相当する)は一万石とそんなに多くありませんが、町奉行から、大名になった人物は、江戸時代 250余年を通して、大岡越前しかいません。

大岡越前と徳川吉宗の関係

大岡越前と徳川吉宗は、主人と臣下の関係です。

大岡越前と徳川吉宗の出会い

出会いは、大岡越前がまだ、山田奉行だった時のこと。その時の大岡は能登守(のとのかみ)という位でしたが。

山田奉行とは、伊勢(三重県伊勢市)に幕府が置いた出張所のようなところで、奉行は伊勢神宮の警備、伊勢の幕府領の監視を仕事としていました。

伊勢は紀州藩と隣り合わせ。そのため、領地の境界線の問題が、時々起こりました。

この時の紀州藩の藩主は、徳川吉宗でした。また将軍になる前です。

この時も領地問題がありました。

大岡越前は、曲がりくねった部分に真っ直ぐに線を引いて、「ここが境界線」と決めました。

その線だと、紀州藩の方が不利になるような引き方でした。

しかし、藩主の徳川吉宗は、キッパリとした決断をした、大岡越前を気に入りました。

これが、馴れ初めです。

大岡越前の実行力を見て、私はちょっとびっくりしました。

もし紀州藩藩主が起こったらどうするのだろう?。

しかし残念なことに、この話自体が、疑わしいというのが今日の、歴史研究者たちの見方です。

山田奉行であったのは事実ですが。

大岡越前、江戸で仕事

徳川吉宗が8代将軍になった翌年、1717年に大岡越前を江戸町奉行に選んだこと、これは事実です。

江戸町奉行になったとき、大岡越前40歳の頃で、通常なら60歳近くなって町奉行に着くことが多い中では異例の出世なのです。

境界線事件が、眉ツバものでも、大岡越前の手腕は、徳川吉宗に認められていたから、と私は思いました。

大岡越前、名裁きはホント?

大岡越前の裁きは、名裁きとして、講談、時代劇に多く描かれています。

なぜ名裁きと呼ばれるようになったのでしょう?

大岡越前、名裁きと言われるようになったきっかけ

それは、大岡越前がまだ若い時に、伊勢で山田奉行を務めていたことの話から来ています。

伊勢山田で、領地をめぐって 紀州藩と幕府との間で、争いが起こっていました。

何人かの山田奉行は、紀州藩をおそれ、いつもうやむやにしていました。

ところが、大岡越前は、山田奉行になるとすぐに、決着をつけました。

その決着とは、紀州藩の方に入り込んだ土地を、幕府側の土地と、さっと杭を打って1発で決めてしまったのです。

このキッパリとしたやり方に、その頃まだ紀州藩主だった、徳川吉宗がとても気に入って、

大岡越前を登用することにしました。

しかし、この話は伝説ではないか、と言われています。

ただ、大岡越前の出世の速さなどをみた場合、決断力が強い人だったのではないでしょうか?

火のないところに煙は立たない…とはちょっと違いますが、何かあったからこそ、

町奉行として、名裁きとして、後世、話に残るほど有名になったのだと、私には思えるのです。

大岡越前、数々の名裁きは伝説!

大岡越前、江戸の奉行として、名奉行、名裁き、大岡裁きとして有名です。

ですが、大岡越前は、それほどの名裁きをしてはいないのです。

大岡越前守の死後17年ほどたった時に、「大岡政談」という創作本が現れました。

その頃から一気に、大岡越前の名奉行としての人気が出始めました。

人気があるから、伝説が生まれた、というわけです。

公共事業に力を尽くしたから、江戸庶民に感謝されていました。

また、それと同時に、江戸幕府(当時の政府)に対する、不満も人気を後押しした、と見る意見もあります。

裁きやその他のことに、不満を感じた庶民が、「大岡様なら〜する」という期待感が人気と結びついたようです。

私が思うところ、大岡越前はただ、政府の命令で公共事業を行なっただけではないでしょう。

手際がよく、迅速で、判断が的確だったからだと思います。

それが江戸庶民をひきつけたのでしょう。

庶民をひきつける理由の一つとして、政府への不満もあった、となると、それは皮肉にも私には聞こえてきます。

大岡越前とソロモン?

大岡越前とソロモンとは、一体?と思うかもしれませんが、大岡裁きはソロモン王の裁判と似てる、という話をよく聞きます。

広い世界観を、感じさせる話ですね。

ソロモン王とは、旧約聖書に出てくる、ヘブライ人(今でいうイスラエル)の王ですが、その存在は確かでなありません。

聖書の中で、非常に頭の良い人間として知られ、その裁きは名裁きとして聖書の中に書かれています。

どの話に見られるでしょう。

よく知られているのが、「子供争い」です。どんな話かというと、

 

ある子供を巡って、二人の大人が、『自分こそが親である』と主張してました。

大岡越前守は、「それなら親であることを主張するなら、子供の手を引っ張って、子供がついてきた方が親である」と言いました。

それぞれが頑張って、子供が二つにちぎれてしまうかのように引っ張り合いをしました。

子供が痛い、と泣き叫ぶので、一人は手を離し、もう一人は買い誇ったように子供をとりました。

ところが、大岡様は「手を離したほうが本当の親である」と言いました。

本当の親なら、子供を痛い目に合わせるわけがない、というのです。

そうして、本当の親の方に子供が渡されました、という話でした。

 

ソロモン王の方は、もう少し残酷な感じで、親であると主張した二人に、

「では子供を二つに裂いて、半分づつとれ」と言い渡しました。

すると片方の親が、「そんなことをしないで、子供を生きたまま相手に渡してください」と言いました。

そこで、子供の安全を願った方が、本当の親である、と判決がおりました。

 

ソロモン王の方が古い時代の人ですので、こちらの物語の方が先です。

こエピソードはシルクロードを通って、シルクロードの最終地、日本にまできた話の一つです。

日本にやってきた外来の物語として。イソップ物語というのがあります。

日本に、イソップ物語が伝わったのは、16世紀、で「伊曽保物語」(いそほ)として本の形になっていましたから、ソロモン王の話も伝わっていてもおかしくないですね。

大岡越前人気と、海外の話を組み合わせるなんて、当時の江戸庶民のセンスはなかなかのものだと、思いますね。

大岡越前に出てくる襖の模様

テレビ番組の「大岡越前に」に出てくる、お白洲場面で、御奉行様が座る後ろのふすま、の模様に注目しましょう。

お白洲、というのは当時の裁判(お裁き)の場所で、被告人は、玉砂利の上に敷いたむしろに座っています。

襖の模様は、青い迷路のような柄ですね。

この模様、名前があるのですよ。

「紗綾形』(さやがた)といいます。中国の明朝時代(1300年中ごろ〜1600年中ごろ)に日本に伝わってきた柄です。

日本では、桃山時代でした。

「紗綾形」は卍(まんじ)の文字がモチーフになっており、別名 「卍つなぎ」とも言います。

江戸時代には、武士に人気の柄で、襖や調度品(家具)、また着物にも用いられた柄です。

武士が使っていたから、金持ちの町人もちょっとハイソサエティぶりを気取って、「卍つなぎ」を着物などに使っていました。

別の奉行を扱った人気番組「遠山の金さん」でも、「紗綾形」のふすまがお白洲の場面に使われていました。

お白洲に使うのは、何か意味があるのか?と思っていましたが、深い意味はなさそうだ、という結論に自分は行きつきました。

単に、江戸時代の流行もの、としてのあの襖の模様を、番組スタッフが取り入れた、と私は思った次第です。

大岡越前の生まれは?

大岡越前は1677年生まれです。

本名は、大岡忠相(おおおかただすけ)。

この時代の、徳川将軍は、徳川綱吉(つなよし)でした。

大岡越前の生まれは…もちろん、越前ではありません。

生まれは江戸です。

父親は、旗本で、大岡美濃守忠高(おおおかみののかみただたか)で、忠相は四男でした。

そして、1686年に同じ大岡家の、大岡忠真(おおおかただざね)の養子になります。

日本では、江戸時代はもちろんのこと、昭和初期になっても、男子が何人も生まれた家から、同族の生まれなかった家に、子供が養子に出されることはよくありました。

そして、養子先の娘と結婚することが多かったです。

大岡越前(忠相)も、その通り、養子先の娘、と結婚しました。

1700年に、忠真の後を継いで、当主となりました。

同族とはいえ、他の家に養子に出されたり、家を継ぐためだけの存在、と思われていたことは、

当時の人は、「いや」と思わなかったのでしょうか、と時々自分は疑問に思うのですが。

江戸時代の皆さんは、仕方ないこと、当然のことと受け止めていたのでしょうか?

大岡越前の先祖

先祖は徳川がまだ松平氏だった、三河時代に始まります。

大岡家は松平氏につかえていたことから、松平広忠(ひろただ)から大岡の代々の息子につける名前に、「忠」の漢字を使うよう与えられました。

なお、松平広忠は、徳川家康のお父さんです。

大岡家のさらに先祖を探してみると、「寛政重修諸家譜」によると、藤原家にたどり着きます。

その先祖は、九条関白教実、鎌倉時代の人物で、源実朝(みなもとのさねとも)亡き後の、将軍候補にまで上がった人です。

江戸時代の武士は、自分の家の先祖を、藤原氏や源氏と言う人が多かったのですが、本当だったのでしょうか?

自分の家系をを権威づけるために、つけた、のでは?と見る人もいます。

でも、日本人の先祖はほとんどが、源氏か平氏か藤原氏に当たる、ということらしいので、あるいは本当かもしれません。

藤原氏と言っても、道長のような直接の大物ではなく、その分派も含めますから。

それ以降は、系図でもしっかり書かれていなくて、突然、大岡善吉という人物が現れ、その息子、大岡忠勝が初代と書かれています。

確かに、広忠の「忠」という文字が「忠勝」から入ってきます。

徳川家の三河以来の家臣なら、徳川吉宗の元に仕えていても、不思議ではありません。

ところで、大岡越前(忠相)の実の兄が、時の将軍 徳川綱吉から島流しされるほどの、罪を犯し、されに、従兄弟までもが、上司ともめて、自害に追い込まれました。

一旦は、お家断絶の危機か?となったのですが、なんとか許され、

大岡越前(忠相)は、家を継ぐことができ、大岡家は続いていくことができました。

大岡越前の屋敷跡

大岡越前の屋敷跡、は東京都 霞ヶ関にあります。

東京メトロの霞ヶ関駅前の、弁護士会館に今ではなっています。

その弁護士会館は、日比谷公園の南側に立っています。

弁護士会館敷地内、西側にある植え込みの中に、ひっそりと、記念碑があります。

「大岡越前守 屋敷跡」と。

日弁連が2008年 11月に記念碑を建てました。

司法と裁きの関連性から、建てることにしたのでしょうか?

東京のガイドブックの 名所旧跡巡りのところに載っていますので、東京見物のおりに訪れるのは面白いでしょう。

大岡越前のお墓

大岡越前の、お墓は江戸(東京)にあるのではないのです。

神奈川県茅ヶ崎市(ちがさき)にあります。

なぜ茅ヶ崎に…

これは、大岡氏の先祖が徳川家(当時は松平家)に、三河時代から家臣になっていたことと関係があります。

徳川家が、関東地方に行くように豊臣秀吉から命じられた時には、大岡家の当主も

徳川に従いました。

その時、大岡家は茅ヶ崎を、知行地(ちぎょうち)として与えられました。

知行地とは、徳川家と大岡家が、主従関係があるために主人が家臣に与える土地のことをいいます。

知行地であったため、大岡家の菩提寺も茅ヶ崎市にあります。

お寺の名前は、浄見寺(じょうけんじ)です。

昭和36年に茅ヶ崎市の、指定史跡になっています。

それも、講談やテレビ番組による人気もあったのではないか、と私は思っていますが。

大岡越前役 高橋克典

2024年6月からNHKBSで新たにスタートする、時代劇「大岡越前7」では、高橋克典を大岡越前にキャスティングしての放映です。

大岡越前、といえば、1970年〜1999年 TBSで放映された、加藤剛のイメージが強いかな、と思います。

2013年〜14年は東山紀之を、大岡越前役に抜擢し、好評でした。

今回の高橋克典さんの、大岡越前にも、期待が集まっています。

というのも、本人の意気込みが、インタビューに出ており、非常にチャレンジ精神に燃えており、アクティブさを強調している、

これまでの、大岡越前より、パワー感を出そうと意識している、ということをおっしゃていました。

それに何より、ご本人が子供の頃から見ておられたテレビ番組のため、思い入れがあるようです。

楽しみですね。

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